朱喜哲『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす〜正義の反対は別の正義か〜』と九段理江『東京都同情塔』
コロナ禍や東京オリパラ、万博開催の是非に至るまで。個々の価値観は多様になり、あらゆる分野における分断が加速している。
そんな時代に、最も注意を払わなければならない言葉が「正義」だろう。もともと好ましい意味で使われていたのに、
「お互いの『正義』を振りかざすな」
「正義を語るなんてやめた方が良い」
「行き過ぎた正義感は〜」
といった用法で使われることが増えてしまった。圧倒的に。
『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす~正義の反対は別の正義か~』(著者:朱喜哲、太郎次郎社エディタス、2023年刊行)
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冒頭で記したような「正義」という言葉だが、哲学者はどのように捉えているのだろうか。『正義論』を著したジョン・ロールズは以下のように「正義と善の区別」を行なうと著者は記す。
これは目から鱗の概念だった。「正義をつくる」ことは原理的に可能だ、というのがロールズの主張なのである。
そのためには正義と善を区別する必要がある。
つまり多くの場面で語られているのは善のあり方であって、それが正義という「ことば」によって覆われているというのだ。善悪の判断は個人が下すものだろう、しかし正義のあり方は、(社会における)一連の手続きによってなされるべきというのが非常に興味深かった。
価値観が多様化しているからこそ分断が起こっているわけではない。
ロールズはそもそも、「(人間が)多様なことを望みうるということをそもそもの出発点として、そうした者たちが共生するためのルールと仕組みとして『正義』が構想」されていると説いていたのだ。
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語ればキリがないほど本書には刮目すべき視点が記されている。
ひとつだけ紹介するとしたら、「はじめに」に書かれている部分。著者が一番大切にしたい「ことばを道具として適切に扱おう」という考え方を引用して紹介したい。
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このことは、先日芥川賞を受賞した九段理江さんの『東京都同情塔』にも記されている。主人公の牧名沙羅は、東京に新しく設計される刑務所「シンパシータワートーキョー」における建築コンペにおいて、言葉のあり方について思索にふける。
同タワーのコンセプトをつくった人物、マサキ・セト(カタカナ表記というのも、著者の意図が反映されている)は
犯罪者=ホモ・ミゼラビリス(同情されるべき人々)
非犯罪者=ホモ・フェリシタリトス(幸せな人々、祝福された人々)
と定義した。
「シンパシータワートーキョー」は刑務所でなく、ホモ・ミゼラビリスのための施設である。
犯罪者でなく、同情されるべき人々。「ことば」が変わることによって、提供されるものも変わる。
更生のための措置や施策ではなく、犯罪を犯すに至った背景や心身を癒すためのもの(リラックスできる読書室、服装自由のルール、ホモ・ミゼラビリス以外と区分けしない配慮など)が必要だというのだ。必要であるべきだとすら言い切っている。
こういったことを指しているのかは定かでないが、九段さんは主人公・牧名に「日本人が日本語を捨てたがっている」と言わしめる。
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この2冊は、僕が偶然手に取った順で読まれたわけだが、かなり近しい領域を扱っていることに驚いた。
フィクションであれ、哲学入門書であれ、プロの書き手が考えることは非常に共通している。(朱さんは1985年生まれ、九段さんは1990年生まれと世代も近い)
こういった視点で、現在東京に建てられている「もの」を見ると、何だか複雑な気分になるというのが正直なところだ。目を背けず、じわじわと力点をズラされている世間の欺瞞に向き合っていきたい。
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朱喜哲さんは2024年2月に、NHK Eテレ「100分 de 名著」に出演。
本書でもたびたび登場したアメリカの哲学者、ローティが取り上げられている。ぜひ併せてチェックしてほしい。
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