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【いま、何も言わずにおくために】#003:「門はあるけど城はない」世界を生き延びる 後編|九段理江・森脇透青

※こちらのnoteは森脇透青さんの不定期連載「いま、何も言わずにおくために」第三回の後編です。
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現実との接着点

森脇
文学の鑑賞体験というお話がさきほどありましたが、AIが用いられた作品についてAIを主題にして時評や批評が書かれてしまう、というのはほとんど批評の怠慢だと思うわけですよ。誰もがすでにわかっていることについて「これがテーマだ」と書いたって批評ではないし、そこから発した議論のほとんどが恥ずかしいものだと僕は思います。
批評は今市場自体が先細りしていて、一人の読者として作品を論じるということ、ひいては読むことの価値がどんどん下がってるなと感じています。だから作品そのものではなく、作品の周囲の、「AIが主題になっている」とか「書いてる人はこういう人だ」っていう話だけが流通していく。要するにちゃんと読む人があんまりいないんじゃないかと。そのあたりは書き手としてはどうですか。

九段
書いてる方としては、読んでくれる人がいるからどんどん書き方も変えていけるわけで、読んでいる人の数が絶対的に少ないことが私は問題だと思っています。ただ私の場合、『東京都同情塔』はいろんな要素がある小説で、それをきっかけに建築家の方だったりAI研究者の方、文学の外の人と話す機会がたくさんありました。AIを使ったというキャッチコピーで手に取ってくれた人もいたから、その点ではすごくありがたい状況だなと思っています。

森脇
そこはとても戦略的ですよね。『東京都同情塔』という小説は、たしかに、すごく要素が多いと思います。しかし、ともすれば流行っている話題をたくさん詰め込んだだけとなりがちなところ、たとえば建築の話をするにしても実際にザハ・ハディドが出てくることで現実とのざらついた緊張感が生まれていて、それによって全体が引き締まっているような印象が僕んはあります。実在人物が登場するというのも九段さんの作風のひとつですね。『しをかくうま』の小泉進次郎とか。

九段
そうそう。『Schoolgirl』でもグレタ・トゥーンベリが出てくるし、実際に生きている人物を出すのは共通していますね。

森脇
荒唐無稽なキャラ設定や事件に見えても、実際の人物が出てくることが大きなギャップになっているというか、うまくいってると思います。しかもすごくアイロニカルに書いてるじゃないですか。ザハの新国立競技場が建った世界観を示す時点で、今のあり方に対する別の現実を突きつけてるわけだし。実際に隈研吾も出てきたり……。

九段
それはやっぱり、隈さんに対するエクスキューズじゃないけど、隈さんがいない、あの世界じゃないよってことを隈さんに伝えたくて書いていて。自分のためでも読者のためでもなく、ただただ隈研吾さん一人に向けて書いてるところです。

森脇
なるほど……。

九段
そうなんですよ、すごい配慮が行き届いているでしょう(笑)

森脇
僕はむしろ皮肉かと思っていました。

九段
配慮しているところが、逆に皮肉だったり性格悪いところだと思われているのが本当に申し訳ないなと思って……。少しでも楽しんでもらおうと思いながらやってるだけなんです。いろんな人から皮肉が効いてるねとか、ブラックユーモアがすごいねみたいに言われるんですけど、本当にナチュラルにやっちゃってるんです。『悪い音楽』の音楽教師とか。

森脇
だってあの音楽教師は学生を「猿」扱いするじゃないですか(笑)。そのナチュラルさはかえって予想外で面白いですけど、でもそこが持ち味というか、僕は痛快でいいと思っていたんです。全然反省しないというか、こんな「悪い」人、今あんまりいないでしょう。」

九段
悪いって言われるのは全然嫌じゃないですよ。

森脇
冒頭でも「悪い小説家」だと言ってしまいましたが、ここでは善い悪い、という倫理的・道徳的な判断をしているのではなくて、何か裏でほくそ笑んでるような感覚があるんですよ。いろいろな主題を扱っているときも、それを操りながら、「どうせお前ら、こういうの好きなんだろ?」みたいな……。そのあたりの巧みさを感じるんです。

九段
ほくそ笑んでないですよ!(笑)
でも、善悪についてはよく考えますよ。子供のころからずっと考えているかもしれません。何が正しい、何が正しさを作ってるんだろうという疑問です。

森脇
失礼しました。『東京都同情塔』の語り手の、自分の使っている言葉を考えて、これは正しい/正しくないって自己検閲してしまうような思考にもそれは出ていますよね。けれども、『Schoolgirl』で、「目覚めちゃってる」娘に対して、じゃあ母親が反対の古めかしい価値観を持ち出して対立するのか、というとそうではなくて、そこが奇妙にねじれていますよね。実際、途中で「この母にしてこの子供なんだ」とわかるシーンが挿入されていて、そこで一段ひねりがある。

自分にしかわからない論理性

森脇
そういえば、九段さんの小説は終わり方がすごく独特で、驚かされます。『東京都同情塔』もなんですけど、なんか急に黙示録的というか終末論的な場面転換があって、最後、よくわからない終わり方をするじゃないですか。テーマをどこかに綺麗に落とすというよりも、唐突に異物が降ってきて時間軸のスケールが急激に拡大し、「今までの話はどうなったんだ?」というような、不意撃ち的な終わらせ方が多い。

九段
そうですね。それは私が物語が別の次元に行ってほしいと思ってるからだと思うんですよ。その物語を物語という枠組みの中で終わらせるんじゃなくて、一つの人間の思考が全然違う世界に行くっていうことを私はずっとやりたいと思ってるんです。言語的に何かを表現したり、思考したりするっていうのも自分の外へ出て考えたいと思ってるからだと思います。それが結果的に自分の自然なバイオリズムと合うんですよね。小説を書いていて、普通に小説的な終わらせ方をするっていうことが自分の気持ちと反するんですよ。
だから小説の最後はびっくりさせてしまうというか、文芸批評をされている方や編集者からは怒られるような終わり方をしてると思う。

森脇
いや、そんなことはないと思いますが、僕自身が無意識に「とにかく驚きたい」という魂胆で文学を読む傾向があるので、好みの問題でしょうか。たしかに九段さんの小説は始まり方も終わり方もいわゆる「純文学」のセオリーっぽくはないのかもしれませんね。でも個人的には、磯﨑憲一郎の「世紀の発見」という作品を思い出したりもしました。主人公が幼少期から見ていたさまざまな幻想・謎を追っていく、という筋書きの小説なんですけど、最後に急に話が飛躍して終わるんです。読者に論理的な展開は伝わらないけれど、主人公はそれに何か納得して、謎が解明されたことになって終わるという展開です。

九段
そうそう、それすごい近いかも。誰にでも、「その人にしかわからない論理性」があると思うんですよね。最近講演に呼ばれたりすると、なぜ東京で就職した後に金沢に急に引っ越したんですかとかって質問されるんです。それに対して私は……うーん、なんていうか、うまく説明できないんですよ。だから定番の答えがあって、「知り合いがたまたま向こうに住んでおりまして……」もうそれぐらいの説明しかできない。でも、知り合いが向こうに住んでたからって急に住むのはおかしいじゃないですか。
自分の中では、本当にそれを正しく説明するには自分が生まれた時点から話をしなきゃいけなくなって、めちゃくちゃ長くなるから尺の問題で全部カットして、知り合いが住んでたからですって言ってしまうんです。そして、知り合いが住んでいたからと言葉を発することによって、相手にわかってもらいやすい、別のストーリーを作り上げてしまう。最近その点ですごく葛藤しているんですけど、時間が決められてるから、もう大人だから、忙しいから、不必要と思われるところはカットしていきます。でも本当だったら、さっき挙げられた磯﨑さんの小説みたいに、「自分の中では一貫性があるけど人から見たら突飛なもの」が今以上に生じていくはずです。

森脇
コミュニケーションの葛藤は九段さんの小説の中で繰り返し出てきますよね。他人から定形化され同定されたり、そこから自動的に語ってしまう私の言葉と、そこからずれる自己認識。たんにエピソードを全部話せばいいってもんでもないし。僕も似たような経験があります。僕としては、今後もっと突飛な九段さんにも期待してしまうところですが。

記憶と忘却のリズム

森脇
ちなみに、この「突飛さ」のリソースとして、聖書があるんじゃないかと思っていたんですがどうでしょう。そもそも『旧約聖書』は展開がすごい突飛なところが多く、僕は読んでいるとつい笑ってしまうのですが、『しをかくうま』にも『創世記』的なところがある。あともっと直接的にはニーチェ的なのかな。『ツァラトゥストラ』は聖書のパロディですから。

九段
すごい!『しをかくうま』が『ツァラトゥストラ』っていうのは今まで言われたことないんじゃないかな。私は最初からメールで編集者にはそう伝えてたんですよ。

森脇
いやいや、「ユーバーメンシュ(超人)」が出てくるんだから、大半の読者には伝わっているはずです。

九段
ニーチェは好きですね。読んでいると元気が出ます。

森脇
ニーチェでいえば、僕が一番愛着があるのは、「生に対する歴史の利害」という短い文章ですね(『反時代的考察』に収録)。要するに、「人間はずっと歴史のことを考えてると重圧に押し潰されて生が硬直しちゃうから、適度に歴史のことを忘れなきゃいけない」というようなことを言っているんです。
ただしニーチェはもともと文献学者だし、歴史について全面的に忘れるというわけでもない。自分の生のリズムを取り戻し維持するために、覚えておくこと(=責任をとること)と忘却することのバランスが必要なのだと思う。こんな元気になるためのエッセイみたいな感じで読んでいいのかわかりませんが(笑)、僕はこういうニーチェのバランス感覚と九段さんの「悪さ」は通底していると思っているのですね。だから「悪さ」というよりは「善悪の彼岸」なのかもしれない。
それは、ピュアな「本当の自分」をさらけ出し世界と対決するというよりは、むしろそのつど仮面を付け替え脱ぎ去りながらその裏をかいて生きていく力です。対外的な自分にとらわれず、とはいえ「本当の自分」にもとらわれない。そのつど適度にやり過ごしつつ、自分の遊びやすい快適な領域をいかに作るか。九段さんからはそういう、したたかな生き延びの力を感じます。

九段
お話を聞いていて、子供の頃を思い出しました。最近インタビューで、「なぜ小説を書き始めたのか」みたいな、根源的な部分を振り返る機会が増えたので、思い出す機会が多いんですよね。子供時代って、学校という世界と家庭という世界があって、ほとんどその二つの世界の中で生きていると思います。ただ私の子供時代は、家で言われることと学校で言われることが逆だったんです。何でもいいんですけど、たとえば学校で先生が廊下を走らないでくださいとか友達と仲良くしましょうとか、そういうことを言うわけです。でも家に帰ると、「田舎の小学校の先生が言ってることなんて一切聞かなくていい」、「同級生とも仲良くしなくていい」って言われるんですよ。母親と父親の言ってることも全然違うし、そこに気持ち悪さを感じていました。

別の世界を作り出す、「書く」行為

九段
その二つの世界の中で生きていくことが大変すぎたから、第三の世界を自分の言語世界で作ろうとしていたことを最近思い出しました。文字を書くっていうのが私の中で一番最初に覚えた遊びのような気がしていて、それは自分の気持ちを別の次元に移すという遊びでした。別の次元に移った自分の言葉を読むことによって自分の気持ちがわかったり、状況を確認したり、思考を整理することができる。言葉って他者とのコミュニケーションのツールじゃなくて、まず自分の思考を整理するための、現実を理解するための装置だなっていうふうに、子供のときから考えていました。

森脇
何かの内面をビビッドに表現することよりは、まさに書くことで自己に跳ね返り、そのつど更新されていく自己認識を受け止めることが大切だと僕も思います。九段さんの場合、家庭と学校のダブルバインドをやり過ごし、自分の現在地点を確かめる場所がまさに「文学」だったということですね。今さっき僕は「生き延びる」とか、「やり過ごす」という言い方をしましたが、九段さんは現在の状況に乗りながら、いつも立ち位置を更新し、次の企みを温めている印象です。

九段
それは小説家としてどうこうじゃなくて、自分の生き方そのものだというふうに思います。私は小説家になりたいと思ったことはなくて、ただただ周りに、文章をそんなに一生懸命書いてるんだったら、小説家になりたいんだろうみたいなことを思われていたんですよ。実際に投稿を始めるとみんなが納得してくれて、私のことを不思議に思わないで放っておいてくれる。小説家を志望しているんだったら、お仕事しないでぶらぶらして、本屋でバイトしながら、就職しないのも自然かなと。

森脇
「書くことは生きること」ですよね。受賞にしたって、説明をいちいちしなくていいように黙らせるっていうか。「芥川賞を獲って一番嬉しかったのはようやく芥川賞のことをいちいち考えなくてよくなったことだ」というようなこともおっしゃっていましたけど、そもそも、一般には文章を書いているだけで変人だと思われますからね。

九段
本当にそうです。いろいろ面倒くさいんですよね。

小説家になれるかどうかは、生まれたときから決まっている?

森脇
しかし九段さんは発表した全ての作品が賞に絡んでいて、デビュー後はいわば負け知らずでしょう。

九段
でも新人賞取るまでが長かったですから。五年かかって……。新人賞の方がやっぱり難しいと思います。全然知識がない状態で審査員は読まされるわけで、そこを通るかどうかってめちゃくちゃ難しい。芥川賞より難しいと思います。デビューして担当がついたら、賞について蓄積した知識もあるしアドバイスももらえます。その上で評価されるっていうのが芥川賞で、新人賞は、何もないところで一人で孤独に書いて編集一切なしですよ。それで新人賞を取るってすごく難しいと思うんです。最初にも言いましたけど、結局読んでくれる人がいて、読み手がいるから書き手もちゃんと成長できるし、作品ってコミュニケーションの中で作られると思っていますから。

森脇
たしかに、デビュー作には独特の戦略が必要にはなってきますよね。文学は作者と読者の二元論で語られがちですけど、編集者の存在も大きい。九段さんの作品は読み手からのリアクションも含めてネタにし盛り込みつつ、それを独自に跳躍させるようなところがあるので、とくにそうかもしれません。
新人賞の独特のエコノミーで言えば、僕は読んでいないのですが、最近『文學界』の下読みの方のアンケートみたいなものが文学フリマに出されていて、プチ炎上していました。やはり僕もこういう状況には正直、抵抗感がありますね。書きたい人が供給過多な状況で、文芸誌自身が「こうやったら獲れますよ」と言い出す謎の経済構造になっていて。九段さんも、「これから書きたい人に一言どうぞ」と言われることありませんか?

九段
ありますあります。好書好日のインタビューでは、「小説を書きたい、デビューしたいと思ってらっしゃる方に何か一言アドバイスはありますか」と聞かれて、ないです、とお答えしました。小説家になれる人となれない人って生まれたときから決まってるのでそれはないですって言っちゃったんですよね。バレエダンサーなんかもそうだけど、身体能力が物を言うような職業と同じです。でも、本当は小説家になれる体を持って生まれたんだけど、そこに気づかないまま一生終わる人もたくさんいて、そこに気づけるかというところも大きいです。
ただ小説家という肩書きが欲しいっていうのであれば、ハウツーとして養成講座に通うとかいろんな方法あるかもしれませんが、芥川賞となったらもうちょっと考えなきゃいけないですよね。自分で自分の書き方、自分のスタイルを発見してかなきゃいけないわけで……。

森脇
そこまで言い切れる快活さ・爽快さが九段さんの魅力だと再認識いたしました(笑)。僕は「書ける人にしか書けません」とまではきっぱり言えませんが、一般には「あなたもクリエイターになれますよ」という甘言ばかりなので、聞いていて目が覚める思いです。
僕は連載の中でちょっと露悪的に「ワナビー資本主義」という言葉を使っています。たんにハウツー本ブームがずっと続いていると言ってもいいですけど、たとえば僕が属してる哲学の業界でも最近はとにかく入門書が出まくっていて、「門は乱立しているが城はない」みたいな居心地の悪さを感じなくもない。カフカ以上に不条理な状況ですよね。
文学に関しては、読者が少なくなっていくなか、作り手予備軍を最後のお客さんにしてその創作意欲を金にするような傾向は、ビジネス的にも大変不健康な内向き状態だと思う。門の通行料金で生計を立てているみたいな(笑)。ハウツーも入門も決して悪くはないけれど、ただそこにいて、状況を眺めている通りすがりの鑑賞者を増やす、そうした鑑賞者たちに誠実に向き合う、ということをもっと考えたほうがいいと思うんです。
しかしともかく、九段さんがようやく賞の圧力にわずらわされず小説を書いていけるという意味で、芥川賞受賞はほんとうに祝うべきことだったのだと思います。今後もう少し落ち着いた段階で、より豪胆で突飛な「悪い」作品が出現するのを楽しみにしたいと思います。


著者プロフィール

森脇透青
1995年大阪生まれ、京都大学文学研究科研究員(現在博士論文執筆中)。批評家。専門はジャック・デリダを中心とした哲学および美学。批評のための運動体「近代体操」主宰。著書(共著)に『ジャック・デリダ「差延」を読む』(読書人、2023年)。『25年後の東浩紀:『存在論的、郵便的』から『訂正可能性の哲学』へ』(読書人、2024年)。


©新潮社

九段理江
1990年生まれの小説家。ザハ・ハディドによる新国立競技場が完成したもう一つの東京で、著名な建築家・牧名の目を通した社会を描く『東京都同情塔』が第170回芥川賞を受賞。生成AIを用いた執筆方法にも注目が集まった。
その他の作品に、『悪い音楽』(第126回文學界新人賞受賞)、『Schoolgirl』(第166回芥川龍之介賞候補、第35回三島由紀夫賞候補、芸術選奨新人賞受賞)、『しをかくうま』(第45回野間文芸新人賞受賞)等がある。


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