没頭
「客観的に読む」とは何か、ということを時々考える。
読書の面白さ、および、本の内容や周辺情報について論じることの奥深さに気づいて間もない頃、できるだけ客観的に読みたいという情熱に取り憑かれはじめる。
「取り憑かれ」という表現を用いるのは、そのときの私の読書が、明らかに間違った方向に進んでいってしまったことを、今では反省しているからだ。
当時私は「客観的に読む」を、読書から「感動」を排することだと捉えていた。つまり、読書中に感動するな、心を動かされるな、ということである。
心の動きなんてコントロールできるもんじゃないだろ、と今では笑って指摘できるが、客観的=無感動という等式に真理を見出した人間に、その言葉は通じない。自分で自分の間違いに気づき、訂正していくほかはない。もちろん、そうしたところで「客観的に読む」の本当の意味に辿り着けるわけでもないのだが。
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上記の苦い体験を、最近ある一冊の記述を通して思い出した。次に該当箇所を引用してみたい。
「この本はどういう風に論じられるか」という視点を持つことは、知的に刺激的である。一度、この面白さに気づいてしまうと、なかなかやめられない。非常に中毒性が高い。
本の中身を味わうよりも、それを論じることの方が目的として肥大化してしまうと、作者が生み出した作品の「時空」に存分に浸かれなくなる。現実の我が身を忘れて、小説の世界に没頭するという体験ができなくなる。
……こういうことを書きながら、私は今回も一冊の本を論じるということをしてしまった。やはり論じることには中毒性がある。
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