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彫刻

 当時は少しずつ深まっていくと思っていたのが、気づけば深まるどころか疎遠になり、今では連絡先さえ知らない関係性というものがある。
 夜、部屋を暗くして、眠りにつこうとしたとき、ふとそういった関係性となった人のことを思い出して、「あの人、元気にしてるかな」と思ったりする。

 友人の手引きで、ある大学の講義に潜っていた頃。同じく潜っていた一人の女性と話をするようになる。彼女は私の友人と先に知り合い同士であったこともあり、三人で何度か食事をしにいく間柄になった。
 一度彼女からの提案で、自宅で鍋会を開こうということになる。知り合い同士とはいえ、一人暮らしの女性の家に、男二人で押しかけるのはどうかな、と気が引ける部分もあったが、「鍋会やろう、やろう」という彼女の熱量に押される形となった。

 私の妄想では、彼女の部屋の壁は本棚で覆われているはずだった。しかし実際は、本棚が一つあるばかりだった。
 「一つしかないのか……」と心の中で呟いたはずが、無意識に口から漏れ出ていたのだろう。「意外でしょ」と彼女が笑いかけてくる。
 棚に並ぶ本には、ある共通点があった。背表紙のタイトルを見るだけではそれに気づけなかったが、手に取って表紙を確認すれば一目瞭然である。
 各本の表紙には、彫刻家・舟越桂の作品が用いられていた。思い出せる範囲で棚に並んでいたタイトルをあげれば、須賀敦子の『ヴェネツィアの宿』『コルシア書店の仲間たち』(以上、文藝春秋)、天童荒太の『永遠の仔』(幻冬舎)『孤独の歌声』(新潮社)がある。須賀敦子の二冊については、当時既に読んでいたので、じっくり考えれば、棚の本の共通項に気づけたかもしれない。

「好きな作品の表紙には、きまって舟越桂の彫刻作品が使われていることに気づいてね。とりあえず表紙になっている本は、買い求めるようになったの」

 彼女はそう口にしたあと、「まだうまく言葉にできないのだけど」と前置きした上で、舟越桂作品の魅力を語り始めた。

「抽象的な形のものがもつ美しさって不思議な感じがする。というのは、確かに美しいものはあって、ただそれをなぜ美しいと感じるのかな、と。たとえば美術にあまり関心がない人でも、富士山は美しいと言ったりする。富士山は抽象形態でしょ。あっちの山よりこっちの山の方が美しい、というのはどういう価値基準から出てくるのかな。」
舟越桂・述、酒井忠康『舟越桂 森の声を聴く』求龍堂、P80)

 そのとき彼女が熱く語ってくれたことと、関連する言葉を、舟越桂自身が口にしている。彼女は舟越桂作品の魅力は、他の作家のそれと較べてどうという枠の外にある、と熱弁していた。つまり比較とは異なる地点から、彼の作品に魅了されていると。
 ならば、どこがどう魅力的なのだろう。この点は、当初聴くことはできなかった。次にもし会う機会があれば、そして彼女の熱中が続いていれば、この話の続きを訊ねてみたいと思う。




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