展覧会[信長の手紙]室町幕府滅亡直前の様子を物語る、新たな書状現る(東京都文京区・永青文庫)
新たな文書は、2022年に永青文庫と熊本大学永青文庫研究センターが共同で行った調査によって見つかったもの。室町幕府滅亡直前の、信長の新たな一面を明らかにするものでした。
永禄11年(1568)、足利義昭を室町幕府第15代将軍に擁立した信長ですが、これまでは、信長が義昭を排除して実権を握ろうとしていたと言われてきました。ところが最近の研究では、信長は義昭と共に幕府体制を続けようとしていたという説が有力とされています。では、なぜ信長と義昭は決裂したのでしょうか。
信長と義昭が決裂したワケ
義昭と幕府体制を樹立したものの、元亀元(1570)年に信長は越前(福井県)の朝倉義景、浅井長政らと戦い(姉川の戦い)、元亀2(1571)年9月には義景が逃げ込んだ比叡山を焼き討ちします。このことから、朝倉・浅井・大坂本願寺・比叡山と反信長連合ができてしまいます。この事態を懸念した奉公衆*である上野秀政らは義昭に甲斐(山梨県)の武田信玄を頼ることを勧め、家臣たちも信長から離れていきました。
信長が実権を握ろうとして義昭を退けたのではなく、信長が義昭の側近らと対立したことが引き金となって、信長と義昭は決裂します。
義昭の家臣の中で藤孝だけが信長の味方だった
今回新たに見つかった文書により、元亀3(1572)年の初めには、義昭奉公衆のうち細川藤孝ただ一人が信長と内通していたことが明らかになりました。
この文書で信長は藤孝に対して「あなただけが頼りです(下記参照)」と協力を求めています。
信長のサインと歴史的背景で年号を特定
この書状の日付は、室町幕府滅亡の約1年前の元亀3年(1572)8月15日。藤孝がこのころから幾内の領主たちを信長の味方につけて力を蓄えていたことは、義昭の失脚、室町幕府滅亡に大きな影響を与えたことが窺えます。
当時、書状には年号を書かないという作法がありましたが、稲葉教授は花押型(文末にある信長本人のサイン)*などから年号を推測。信長の花押型の変化を他の文書と照らし合わせ、歴史的背景を踏まえた上で、元亀3年(1572)の文書であることを特定しました。
「(この文書を見た時)これだけのものが今まで誰も認識せずに21世紀まで至ったのかと非常に驚きました」と調査にあたった稲葉教授。
現存する信長の書状は800通ほどと言われていますが、信長の家臣であった武将、その一族は多くが滅びてしまい、書状がひとつの場所にまとまってあるのは細川家が最も多く、次いで小早川家に残されています。
信長は、一般的に攻撃的な印象が強いですが、本展覧会で残された書状を見ると、実に細やかに家臣を気遣っていることがわかります。「藤孝や光秀ら家臣に対しても、やたら攻めるのでなく、調略して勢力を広めていくことを考えなさいという手紙がかなり多い」とは稲葉教授。信長はしっかり根回しをして、周囲の人々を自分の味方につけるようにしていたといいます。
本展覧会ではこのほか、信長直筆の書状、明智光秀が本能寺の変の7日後に書いた書状も展示されています。
信長の直筆であることが唯一確実な書状は、室町幕府滅亡から4年後、天正5(1577)年に信長に謀反を起こした松永久秀の片岡城攻めで軍功をあげた細川藤孝の息子・忠興を称えるものでした。
また、天正10(1582)年の本能寺の変で明智光秀が信長を倒した数日後に光秀が藤孝に協力を求めるために送った書状も展示されています。
藤孝と忠興はこの書状をもらいながらも、味方になることはありませんでした。この後、細川家は豊臣秀吉、徳川家康に仕えて、江戸時代には3代忠利が肥後細川家の初代大名となります。「藤孝は大名たちをとりまとめるためには誰が天下人になってもいいと考えていたのではないかと思います。政治的感覚が非常に優れた人でした」と稲葉教授。
激動の戦国の世において、藤孝がブレーンとして信長、秀吉、家康に仕えることができたのは、和歌にも優れた当代一流の文化人であったことも理由の一つであるとされています。
信長の手紙で歴史をたどる企画展。武将の甲冑や美術品なども展示されるので、この機会にぜひお出掛けください。永青文庫のとなりにある肥後細川庭園でのお散歩もおすすめです。
文・写真=西田信子
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