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展覧会[信長の手紙]室町幕府滅亡直前の様子を物語る、新たな書状現る(東京都文京区・永青文庫)

2022年に新たに発見された書状を含む織田信長の手紙全60通を中心とする展覧会が、12月1日まで永青文庫で開催されています。永青文庫は都内で唯一の大名家の美術館で、かつて熊本藩主であった細川家の江戸下屋敷の一角にあり、細川家伝来の美術品や歴史資料を所蔵。新発見文書を除く信長の書状59通は全て国の重要文化財に指定されています。

新たな文書は、2022年に永青文庫と熊本大学永青文庫研究センターが共同で行った調査によって見つかったもの。室町幕府滅亡直前の、信長の新たな一面を明らかにするものでした。

9月6日文部科学省での記者会見の様子。左が永青文庫の理事長であり、藤孝の子孫である細川護光氏、右が熊本大学永青文庫研究センター長の稲葉継陽教授

永禄11年(1568)、足利義昭を室町幕府第15代将軍に擁立した信長ですが、これまでは、信長が義昭を排除して実権を握ろうとしていたと言われてきました。ところが最近の研究では、信長は義昭と共に幕府体制を続けようとしていたという説が有力とされています。では、なぜ信長と義昭は決裂したのでしょうか。

信長と義昭が決裂したワケ

義昭と幕府体制を樹立したものの、元亀元(1570)年に信長は越前(福井県)の朝倉義景、浅井長政らと戦い(姉川の戦い)、元亀2(1571)年9月には義景が逃げ込んだ比叡山を焼き討ちします。このことから、朝倉・浅井・大坂本願寺・比叡山と反信長連合ができてしまいます。この事態を懸念した奉公衆*である上野秀政らは義昭に甲斐(山梨県)の武田信玄を頼ることを勧め、家臣たちも信長から離れていきました。

信長が実権を握ろうとして義昭を退けたのではなく、信長が義昭の側近らと対立したことが引き金となって、信長と義昭は決裂します。

*義昭の意思決定に大きな影響を与えた側近たち

義昭の家臣の中で藤孝だけが信長の味方だった

今回新たに見つかった文書により、元亀3(1572)年の初めには、義昭奉公衆のうち細川藤孝ただ一人が信長と内通していたことが明らかになりました。

信長の手紙(大きさ縦13.7センチ×横84.4センチ)
「織田信長書状」 細川藤孝宛 (元亀3年〈1572〉)8月15日 永青文庫蔵

この文書で信長は藤孝に対して「あなただけが頼りです(下記参照)」と協力を求めています。

「今年は「京衆」 (義昭奉公衆)の誰一人として手紙や贈物をよこさないのですが、その中にあってあなたからは、初春にも太刀と馬とをお贈りいただき、例年どおりにお付き合いくださる……あなたには方々で骨を折っていただき心苦しい限りではありますが、ここは、 「南方辺」 (山城・摂津・河内方面ー京都の南から大阪周辺)の領主たちを味方に引き入れてください。あなたの働きこそが重要なのです」

信長のサインと歴史的背景で年号を特定

この書状の日付は、室町幕府滅亡の約1年前の元亀3年(1572)8月15日。藤孝がこのころから幾内の領主たちを信長の味方につけて力を蓄えていたことは、義昭の失脚、室町幕府滅亡に大きな影響を与えたことが窺えます。

当時、書状には年号を書かないという作法がありましたが、稲葉教授は花押型(文末にある信長本人のサイン)*などから年号を推測。信長の花押型の変化を他の文書と照らし合わせ、歴史的背景を踏まえた上で、元亀3年(1572)の文書であることを特定しました。

*当時、書状は書記官が書くもので、最後の花押型のみ本人が書いていた。

「(この文書を見た時)これだけのものが今まで誰も認識せずに21世紀まで至ったのかと非常に驚きました」と調査にあたった稲葉教授。

会場で信長の書状を前に話す稲葉教授

現存する信長の書状は800通ほどと言われていますが、信長の家臣であった武将、その一族は多くが滅びてしまい、書状がひとつの場所にまとまってあるのは細川家が最も多く、次いで小早川家に残されています。

信長は、一般的に攻撃的な印象が強いですが、本展覧会で残された書状を見ると、実に細やかに家臣を気遣っていることがわかります。「藤孝や光秀ら家臣に対しても、やたら攻めるのでなく、調略して勢力を広めていくことを考えなさいという手紙がかなり多い」とは稲葉教授。信長はしっかり根回しをして、周囲の人々を自分の味方につけるようにしていたといいます。

細川藤孝は、信長と同じ1534年、幕府家臣の三淵みつぶち家に生まれる。第13代将軍足利義輝に仕え、義輝が暗殺された後は弟の義昭を信長に引き合わせた
「細川幽斎(藤孝)像」 伝田代等有筆 江戸時代(17世紀) 永青文庫蔵

本展覧会ではこのほか、信長直筆の書状、明智光秀が本能寺の変の7日後に書いた書状も展示されています。

信長の直筆であることが唯一確実な書状は、室町幕府滅亡から4年後、天正5(1577)年に信長に謀反を起こした松永久秀の片岡城攻めで軍功をあげた細川藤孝の息子・忠興を称えるものでした。

重要文化財「織田信長自筆感状」 細川忠興宛 (天正5年〈1577〉)10月2日 永青文庫蔵

また、天正10(1582)年の本能寺の変で明智光秀が信長を倒した数日後に光秀が藤孝に協力を求めるために送った書状も展示されています。

重要文化財「明智光秀覚条々」 細川藤孝・忠興宛 (天正10年〈1582〉)6月9日 永青文庫蔵

藤孝と忠興はこの書状をもらいながらも、味方になることはありませんでした。この後、細川家は豊臣秀吉、徳川家康に仕えて、江戸時代には3代忠利が肥後細川家の初代大名となります。「藤孝は大名たちをとりまとめるためには誰が天下人になってもいいと考えていたのではないかと思います。政治的感覚が非常に優れた人でした」と稲葉教授。

本展覧会の会場であり、肥後細川家に伝わる美術工芸品や歴史資料などを収蔵する永青文庫

激動の戦国の世において、藤孝がブレーンとして信長、秀吉、家康に仕えることができたのは、和歌にも優れた当代一流の文化人であったことも理由の一つであるとされています。

信長の手紙で歴史をたどる企画展。武将の甲冑や美術品なども展示されるので、この機会にぜひお出掛けください。永青文庫のとなりにある肥後細川庭園でのお散歩もおすすめです。

熊本県指定重要文化財「紅糸威腹巻」 伝細川藤孝所用 安土桃山時代(16世紀) 永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)

文・写真=西田信子

[会期]2024年12月1日(日)まで
[休]月曜日(11月4日は開館し、5日は休館)
[時]10:00〜16:30(最終入館時間 16:00)
[会場]永青文庫(東京都文京区目白台1-1-1)
[料]一般:1000円、シニア(70歳以上):800円、大学・高校生:500円
☎03-3941-0850
[公式HP]https://www.eiseibunko.com/
[公式X(旧Twitter)]https://x.com/eiseibunko
[交通案内]
《バス》JR目白駅(「目白駅前」バス停)・副都心線雑司が谷駅 出口3(「鬼子母神前」バス停)より、都営バス「白61 新宿駅西口」行きにて「目白台三丁目」下車徒歩5分
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