【京都の節分】柊を飾り、鬼門の寺社でお参り|花の道しるべ from 京都
「福は内、鬼は外」。わが家は一合枡に盛った豆を撒いているが、紙で包んで撒けば、掃除も楽で、汚れを気にせず口にすることができると教わった。豆撒きの方法と同じく、節分のお参りも家や地方によってさまざまだ。京都では、節分の日に、吉田神社と壬生寺にお参りする風習がある。
吉田神社は、京都の鬼門である。鬼が出入りすると言われる鬼門は、北東。北を「子」として、時計回りに十二支を配当すれば、丑と寅の間、艮にあたる。私たちがイメージする鬼が、牛の角を生やし、虎の腰布をあてているのは、この丑寅からの連想だ。追儺式で厄を払って改心した福鬼に頭をなでられるとご利益があると言われ、運よく福鬼に出会うと子どもの頭をなでてもらうのだが、子どもが本気で怖がって大泣きするのもお決まりの光景。深夜に古いお札やお守りを焚きあげる火炉祭も、迫力があり見ものである。わが家では、お参りの帰りに、聖護院八ッ橋総本店の節分限定「鬼の生八ツ橋」をいただくのも定番だ。
これに対し、京都の裏鬼門、南西=坤は壬生寺だ。壬生寺では、炮烙と呼ばれる素焼きの平たい土器に、家族の数え年などを墨書きして奉納する。この炮烙が、春と秋の壬生狂言で舞台の上から落とされ、見事に割れると、災いから逃れ福を招くと言われている。壬生狂言は、かね・太鼓・笛の囃子に合わせ、面をつけた演者が無言で演じる宗教劇。1000枚の炮烙が舞台下に落とされる様は圧巻だ。
重要文化財の狂言堂では、節分会にも、壬生狂言が上演される。演目は「節分」。人間に姿を変えた鬼が、打ち出の小槌で後家を誘惑するが、正体がばれて、豆を撒いて追い払われる。誘惑に負けず、マメに働くことによってこそ、福は得られると教えたもの。この演目の舞台上には、鰯の頭を柊の小枝に刺したものが、門口に飾られる。節分と言えば、外せないのが柊。葉先のとげで目を突かれて鬼が退散したという伝説から「鬼の目突き」とも呼ばれる。この枝を燃やしてパチパチと音をたて、鬼を追い祓うのだとも言う。
いけばなでも節分にあたり、柊をいけて厄除けを願う。ただこの柊、葉の色が真っ青で、ともすれば単調に見える。そこで好まれるのが柊南天だ。柊と同じく葉にとげがあり、節分のころには、葉が鮮やかな赤や黄に色づく。紅葉の美しさが特徴だ。折れやすい花材なので、撓めて枝ぶりを矯正することはできず、自然の枝ぶりを生かしていけることになるが、元来、枝ぶりが多様で味がある。屈曲した枝ぶりを見せていけるのがよい。
現代のように医学が発達していなかった頃、人々は花の持つ霊力にすがり、無病息災を願った。特に季節の変わり目は体調をくずしやすく、疫病も流行する。人日の七草粥も、端午の菖蒲湯も、春に行われる鎮花祭も、植物の持つ呪術的な力を借り,厄災招福を祈るもの。
古くより、人と花とは、密接に関わってきた。本来、人も花も自然の一部であり、切っても切れない関係にある。動物もしかり。先日大雪の日に、交通手段の心配ばかりしていたら、友人に野良の子猫は寒波で命を落とすこともあると諫められた。今、私たちに必要なのは、私たちも自然の一部であることを思い出し、動植物に想いを馳せる「想像力」なのではないだろうか。
文・写真=笹岡隆甫
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