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旅に病で夢は枯野をかけ廻る|芭蕉の風景

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書芭蕉の風景(上・下)(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

旅にやんで夢は枯野をかけめぐる 芭蕉

弟子のいさかいから

 元禄七(1694)年冬、芭蕉は大坂で死の床にあった。その模様は同行していた弟子支考の残した『笈日記』ならびに駆けつけた古参の弟子其角が記した「芭蕉翁終焉記」(『枯尾華かれおばな』元禄七年・1694年刊所載)によって知ることができる。

 九月初め、芭蕉は故郷伊賀を出て、奈良を経て、大坂に入った。いさかいあっている弟子二人、洒堂しゃどう之道しどうの仲裁に追われるうちに、寒気、熱と頭痛とにみまわれてしまう。体調をおして、二人が出席する歌仙などの会を繰り返し用意して、芭蕉は仲裁に努力するが、進展は見られなかった。やがて、ひどい下痢をもよおしはじめ、床から起き上がれなくなる。それまで芭蕉は洒堂と之道の家に交代に世話になっていたのだが、十月五日、南御堂みなみみどう(真宗大谷派難波別院)前の静かな家に移る。そこは南御堂に花を納める花屋の貸座敷であった。二人の弟子と関わりのない場所に芭蕉を移したのは、弟子の不和が芭蕉の健康を損なわせていたことを、周りの門弟たちも感じていたからだろう。

 八日の夜、芭蕉は弟子、呑舟どんしゅうを呼んで墨を磨らせ、一句を書き取らせる。それが掲出句である。芭蕉の生涯最後の発句となった。十日、高熱が出て、容体急変。支考に遺書三通を代筆させ、兄には自筆で遺書を残した。十二日、申の刻(午後四時ごろ)、芭蕉は逝去する。なきがらは、舟で淀川を経て芭蕉の愛した湖南の地、膳所ぜぜの義仲寺へと運ばれてゆく。

 掲出句は俳諧追善集『枯尾華』所載。句意は「旅中に病み臥していると夢は枯野をかけ廻っている」。

 今日は、大阪に芭蕉終焉の地を訪ねたい。大阪市営地下鉄(現・大阪メトロ)御堂筋線本町駅下車、駅の案内地図にも「芭蕉終焉の地」と「辞世の句碑」は掲載されている。

 地図に従って、十二番の出口から出る。大通りは御堂筋、大阪を南北に貫く目抜き通りである。向かいに見える大きな建物が現在の南御堂。コンクリート造りの大寺である。対となる北御堂(浄土真宗本願寺派本願寺津村別院)とともに、御堂筋の名の由来となっている。

 終焉の地の碑は緑地帯に建てられていた。タクシー、トラックなどがひっきりなしに脇を通りすぎてゆく。碑の一字一字を確認する。「此附近芭蕉翁終焉ノ地 昭和九年三月建之 大阪府」とある。

 芭蕉の遺跡を尋ねてきたものには、感慨が深い。昭和初期の御堂筋の拡張のために、芭蕉が亡くなった貸座敷跡は緑地帯の中に取り残されてしまった。当時の建物は一切残っていない。碑の近くのビルは、金の地金を扱う店で、ショーウインドウに見本をずらりと並べてあった。商都大阪の風景である。

 南御堂に参る。解説板によれば、京都に東本願寺が建てられるまで、真宗大谷派の本山であったという。大坂という地名自体、この宗派の僧、蓮如が名づけたとのことだ。本堂南側の庭園に掲出句の句碑が建てられている。立入禁止のため、近寄って確かめられないのが残念だ。句の脇に植えられた芭蕉の木が育っている。足下の石に空蟬がすがっているのを見出した。

平生則ち辞世

 弟子である荷兮かけい宛の元禄三年旧暦一月二日付書簡に芭蕉は「四国の山踏み、筑紫の船路、いまだ心定めず候」と書いている。意味は「四国の山を踏破しようか、九州へ船旅をしようか、まだ心を決めていません」。芭蕉は『おくのほそ道』の旅で満足していたわけではない。未定ながら、四国、九州への旅を試みようと意識していた。病によってそれらの旅が断たれてしまう無念が、掲出句には渦巻いている。肉体は滅んだとしても、夢の中ではそのまま枯野という死の世界を進んでいく。最後ながら、芭蕉のエネルギッシュな命そのものを感じる句である。

 掲出句には、同時に「なほかけめぐる夢ごころ」という中七下五の形もあったことを支考が記録していた。掲出句とこの形とどちらがいいか、芭蕉は支考に尋ねている。支考は掲出句がいいと答え、「なほかけめぐる夢ごころ」の季語については、体に障ることを気遣って、聞き損ねる。「枯草や」のように四文字の季語に切字の「や」を置こうとしたのか、想像を誘う。ただ、発句としては形がまとまりすぎで、掲出句の荒々しい句形のほうが上だろう。それにしても、死の三日前にして芭蕉の句への執念はものすごい。この後、芭蕉自身も支考に句への妄執を恥じることばを伝えている。そして、俳諧を忘れようとも言っている。

 掲出句には「病中吟」と前書がある(『おい日記にっき』)。芭蕉は辞世の句として、詠んだのではない。弟子、路通は『芭蕉翁行状記』の中で、「平生則ち辞世なり」という芭蕉のことばを記録している。「先生はふだんの句がそのまま辞世の句ですと言っていました。そういう方にどうして臨終の折に辞世の句がありましょうか」と路通は書いているのだ。「平生へいぜいすなわち辞世」という意識が、芭蕉に数々の名句を作らしめてきた。芭蕉のもっとも重要な遺語のひとつ。厳しいことばだ。ぼくにこの覚悟はあるかと、問いかけてくる。

芭蕉の葉破れに破れかつ黄ばみたり 實
空蟬の吹きとばされず石の上

※この記事は2008年に取材したものです

本日、11月28日(旧暦10月12日)は松尾芭蕉の命日です。
本書で紹介されている209句の紀行のうち、31句を転載してきたこの連載も、これが最終回となります。芭蕉の旅の足跡をさらに深く知りたいと思われた方は、ぜひ本書をお求めください!

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小澤 實(おざわ・みのる)
昭和31年、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。


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