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こまごまとまとめ

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テキストやトーク、エッセイのような記事などを、あれこれとまとめ。
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#エッセイのようなもの

水に触れると手が痒くなる私にとっての『奇跡』の話。

奇跡とはまた大仰なのだけれど。 この気持ちを忘れてしまうと勿体ないので、書いておきたい。 昨年の夏、私は家族でプールに行った。 娘と一緒にプールの水に浸かって遊ぶ。そういう当たり前の思い出を娘の記憶に結ぶことが、私の夢のひとつだった。さすがに無理だろうと半ば申し訳なく諦めていたので、叶えられて、ほっとしている。 幼い頃から私の両手はあかぎれだらけだった。 指と関節に余すところなく、パックリと割れたひび割れが出来ていた。数えると20、30、細かい傷も併せて勘定すると、4

棚の中の「私物」たち。

「この棚の物、減らしてもいい?」 時折私は、夫に尋ねる。 彼の部屋の一角に、私の私物を収納した棚がある。奥行き30センチ、幅60センチ、高さ180センチの棚。6段の棚板で区切られたスペースに、大体のものが収まっている。 ノートパソコンと周辺機器。DSとAGBのゲームソフトが数える程度。昔に貰った手紙とハガキ、映画や展覧会へ行ったときの半券、それから勤め人だった頃の給与明細などが入っている箱。下から二段目と三段目に収まる程度と決めて取捨選択した漫画の本と、長らく借りている

食器を割った日。

今朝、またもや皿を割った。濃い青の太い縁取りに白い線で青海波が描かれた、お気に入りの皿である。 右手に持っていた四角形の銘々皿が、指先から不意に滑り落ちて、シンクの小皿と大皿を重ねていた辺りに直撃した。 やったか。と反射的に目をつぶった。破片に触れないように皿を動かす。大皿だけが損壊していた。上から落ちてきた銘々皿の衝撃を、小皿ではなくて下にあった大皿が吸収したみたいだった。ううむ、なるほど、と妙な納得とともに、肩の力を少し抜く。 割れたのが皿で良かった。怪我がなくて良

寝ても醒めても好き過ぎて。

ソファでくつろいでいると、ムスメが隣にぎゅっと腰掛けてきて、お気に入りの動画を幾つも見せてくれる。 彼女には、今、推しがいる。寝ても醒めても好き過ぎて、好きに殺されそうになっている真っ最中だ。 「目の前に現れてくれたらいいのに……」 「そりゃあ、切ないね」 恋のようなものである。推しは二次元にいる。会えない切なさは募るばかりだ。 幼い頃から、仮面ライダーにハートを掴まれている子なのだけれど、また違った形の好きなのだろう。先日も、『全てに於いて一番好きな番組は仮面ライ

昼間の見慣れた家並みが、目を細めるほど眩しくなる約5時間。

 午前中に眼底検査をした。  目には特に問題ないのだけれど、年に一回ほど診て頂いている。  まず角膜を開くための目薬を一滴ずつ、右と左の眼に入れる。 「開き切るまで30分ほどかかりますから、前でお待ちください」  看護士にそう促されて診察室を出た。  10分ほど経って両手の平に視線を落とすと、輪郭が少し緩んでいた。診察室のドアの上に設置された電光掲示板を仰ぐと、白文字の時計表示が透明度の高い白の薄絹を纏っているみたいに滲じんでいる。  裸眼でスマートフォンを眺めると、手許か

夜の迷いに背中を押す。どこへ向かうのかわからないけれど、踏み出したいのならば、そこへゆけ。

夜、バスを降りて。スマートフォンを片手に舗道を歩き続けている。立ち止まったり、引き返したりを繰り返していた。万歩計のアプリを起動して数値を見ると、軽く5000歩は歩いている。 ああ、こわいなあ、と思う。 こんなことが果たしてうまく行くのだろうかとも思う。 誰かにひとこと相談をしたい気がする。でも要約しても長くなる気がする。 不安を抱えて、一度、文字を打ってみる。 『ちょっとお話を聞いてほしいのですが、ここに長文の文章を送るか、通話するかどちらが話を聞きやすいですか?』

きみと、心ゆくまで。

 予想外に蒸し暑くなかった梅雨が明けて、しばらく経ったある日の夕暮れに、きみからLINEが届いた。 「ちょいと出掛けてみませんか」  じっと読んでいると、なんだかくすぐったい気分になる。去年の冬以来の、誘いのメッセージだった。  私たちは、なんとなく春か夏に連絡を取り合って、年に一度か二度、出掛けている。  例えば、ある初夏。 「川沿いが好きなんだ、水のそばを歩ければそれでいい」ときみが言って、私とふたりで川原を歩くためだけに、山岳へと続くロープウェイ乗り場の近くまで、

マンドラゴラが降ってくる。

「もし、あなたの描いているものしかネットに情報として残らなかったら、それが自分たちをあらわす全部ってことになるよね」 と、彼が私に言ったのは、つい先日のことだった。 日中には38度を超えた暑い八月。とある朝。私たちは食卓を挟んで向かい合わせに座っていた。彼は一足先に朝食を済ませて、ムーミントロールが描かれたマグカップで麦茶を飲みながら、片膝を立ててくつろいでいる。私は味噌汁が入った木製のお椀に口をつけながら言葉を返した。 「はあ、なるほど。じゃあ、あなたはムスメと踊って

水色の箱にピンクのリボンをかけておく。

その日は、記念日だった。 思い出せた時には、あと2時間と待たずに一日が終わろうとしていた。 わたしの動きはゆっくりで、当たり前の毎日が少しずつ慌ただしい。時々小走りになりながら、やることを指折り数える。一日に何度もスマートフォンで日付を確認するから、その日が何日の何曜日かは知っていた。だけど、何度見てもそれが記念日だと思い出すことはなかった。 家に帰ってわたしが上着を脱ぐより早く、夫が声をかけた。 「ケーキ、買っといたよ」 言われて、初めて気が付いた。 夫はその日

"Dance with me now !"

第一印象は、「変な帽子をかぶっている人」だった。 仕事で同じ部署に配属された時は、まだお互いに直接の関わりはなくて、顔合わせの時にひとこと挨拶を交わしただけだった。 私がデスクのそばまで行って名乗ると、彼は座ったまま、お辞儀をした。変わった帽子をかぶった人だった。浅めのお椀かどんぐりのかさみたいな形をした、黄色と茶色の縞模様の帽子で、みつばちのおしりみたいな色合いだった。 その人と、人生の半分以上の時間を、ともに過ごしている。 あらためて文字に表すと感慨深くもあるけれど

とある晴れた日の、とっ散らかった文章。

ティファールがお湯を沸かしてくれている間に、魔法瓶を洗っている。 シンクの蛇口から出る水の冷たさに指先をじんとさせながら、頭の裏側で数分先の作業を縦一列に並べる。 魔法瓶を拭いて、ほうじ茶を淹れて、お客さんが来るまでに掃除を済ませたい。まず洗面台の下からマジックリンを取ってきて、次にポーチからビニール手袋を出して、台所へ戻って急須にお湯を注いで、茶葉が開くのを待つ間にプラゴミを分別して、それから。 ああ、そういえば、昼と夕方にも来客があるんだっけ。時間通りに動けるだろうか。

いつもの毎日、好きの代わりにキスをする。

毎夜、眠る時。好きと言う代わりにキスをする。 布団にくるまる彼女の、柔らかくて小さな頬に片方ずつ、おでこにひとつ、合わせてみっつ、キスをする。 私の腕にすっぽりおさまってしまうくらい小さかった彼女は、もう大きさ的には「小さいひと」というよりも「中くらいのひと」だ。慌ただしく日々が過ぎていくそのうちに、大人になってしまうだろう。 中くらいのひとは私の首に手を伸ばすと、捕獲するみたいにしがみついた。 私の鼻先に長いキスをひとつ、返す。 頭を抱え込まれるような無理な姿勢に

アイシテルとは、いわないで。

愛するか愛されるかのどちらか片方しか選べないとしたら、愛する方を選びたい。 とはいえ、日常生活で愛を囁き合っているかというと、大好きと声に出すのも割と勇気が要る程度に照れ屋だ。noteのスキもTwitterのいいねも、押しますね!と割と気合いを入れてする。最初の頃など緊張しすぎていちいちぐったりしていた。 なので神前で愛を誓ったことはあるが、面と向かって愛してると言ったことは、まだない。 結婚というのは、ふたりで新しい生活を始めるという、周囲への大々的な告知であり、新し

ありがとうって、思ってる。

 思い出したら、なんとなく心の中にしまっておけなくなってしまったので、ここに書き零していきます。真夜中のひとりごとのようなものです。もっと面白おかしく話せるといいんですけど、そこはもう、私なりで。  24歳の半ば頃に、「来年、結婚するんだよ」と祖母に報告をした。  祖母は白いベッドに体を横たえたまま、 「まだ早い」 と渋い顔でぼそりと答えた。そうしてお見舞いに来た私や母に、いつも通り「腰が痛い、体が痛い」と一頻り零したあと、眠ると言って目を閉じた。  当時、私は平日休日