水色の箱にピンクのリボンをかけておく。
その日は、記念日だった。
思い出せた時には、あと2時間と待たずに一日が終わろうとしていた。
わたしの動きはゆっくりで、当たり前の毎日が少しずつ慌ただしい。時々小走りになりながら、やることを指折り数える。一日に何度もスマートフォンで日付を確認するから、その日が何日の何曜日かは知っていた。だけど、何度見てもそれが記念日だと思い出すことはなかった。
家に帰ってわたしが上着を脱ぐより早く、夫が声をかけた。
「ケーキ、買っといたよ」
言われて、初めて気が付いた。
夫はその日、わたしが娘の眠る時間近くに帰宅することも、わたしがケーキみたいに美味しい油脂をふんだんに使った食べ物を夜に摂ると、あっさり体調を崩してしまうことも、よく知っていた。
「花にしようかとも思ったんだけど。遅くに帰ってくるだろうから、ケーキは難しいかもとは思った」
と夫は続けた。
多分、三人で食べられるようにと、ケーキを選んでくれたんだろう。
うつむき加減の娘を、私はそっと抱きしめた。しっとりした洗い髪が頬に触れる。娘は眠る準備をするために、三人分の歯ブラシを右手に握りしめて、涙を幾粒か零しながら、ちいさく、すん、と鼻を鳴らした。
「今日、お祝いしたい」
わたしの胸の辺りに頭を預けて、しょんぼりとつぶやいた。三人でケーキを食べて、揃って歯磨きするつもりで待っていたんだろう。わたしはその濡れた柔らかな頬を、手のひらで包むように撫でた。
「明日、三人で食べよう」
「明日は今日じゃないよ」
「そうだね。でもお祝いする気持ちは一緒だよ」
「今日がいいの。だっておとうさんとおかあさんの記念日は今日だよ。明日じゃないよ」
目に、長い睫に、涙の雫が光る。
わたしも大切なひとの記念日なら、おめでとうと言って、笑顔を零して祝いたい。けれど、いつもわたしは祝われなくてもいいと思っている。覚えていてくれるなら嬉しい。祝おうとしてくれる気持ちだけで嬉しい。心を貰えればそれでいい。
そうして、わたしはわたしを祝いたいひとの気持ちに、気付けないでいた。
覚えていようとすればよかった。
そうすれば、何日か前に、別の日にお祝いしてねと娘におねがいできたかも知れない。
思い出そうとすればよかった。
わたしがわたしのことをあまり気に留めていなくて、娘の気持ちをしぼませてしまった。
娘は布団に入るまで、口をへの字にしていた。
わたしは布団をかぶって丸くなる娘を、腕でくるむように抱きしめた。ちいさな額に掛かる前髪に、幾つか、キスをする。
「ごめんね。おかあさんが家に帰ってくるまで、お祝いのきらきらした気持ちを渡そうと思って、ずっと待っててくれたんだよね。ありがとう」
娘は口をとがらせて目をこする。泣くのを我慢するように。私は娘に尋ねた。
「おねがいがあるんだけど、きいてくれる?」
かすれた声とともに、「うん」とちいさく頷く。
「おとうさんとおかあさんにおめでとうって言ってくれる?ほっぺにキスもして?」
すると娘は、ぽろぽろ、ぽろぽろと、涙を零して、
「うん」
と蚊の鳴くような声で答えた。
しばらく、娘は泣いていた。
その横顔は、おとなになろうとしていて、こどもの気配をまだ残していた。
わたしは覚えているのがあまり得意ではなくて、祝おうとして待っていてくれた優しい気持ちも、うっかり忘れてしまうかも知れなかった。仕方のないことだけど、それがとても勿体なくて、娘に伝えた。
「おかあさんね、お祝いしてくれようと思ってくれた気持ちを、箱に入れてとっとくよ。箱にリボンを掛けてさ。何色のリボンを掛けたらいいかな」
「……ピンク」
「ピンクか。箱は何色にしよう」
言いながら、水色が似合うと思った。
「……水色」
「水色か。そっか。おかあさんも水色だと思った。じゃあ、水色の箱にピンクのリボンを掛けて、とっておくね。それから忘れないように、今日のこと、書いておくね。来年は、今日お祝いしよう」
娘はもうしばらく泣いてから、
「おとうさん、おかあさん、おめでとう」
と涙声でつぶやいて、わたしの頬にキスをした。