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棚の中の「私物」たち。

「この棚の物、減らしてもいい?」

時折私は、夫に尋ねる。

彼の部屋の一角に、私の私物を収納した棚がある。奥行き30センチ、幅60センチ、高さ180センチの棚。6段の棚板で区切られたスペースに、大体のものが収まっている。

ノートパソコンと周辺機器。DSとAGBのゲームソフトが数える程度。昔に貰った手紙とハガキ、映画や展覧会へ行ったときの半券、それから勤め人だった頃の給与明細などが入っている箱。下から二段目と三段目に収まる程度と決めて取捨選択した漫画の本と、長らく借りている小説。図録と地図。料理の本とレシピを書き留めたノート。高校の頃に使っていた古文の便覧と百人一首の薄い副読本。エクセルの本や独習C言語、鉄道ジャーナル、遺伝子や建材の本、なんてのもあるけれど、なんとなく気になって買って気が向いたときにだけ頁をめくるので、全然読み進められていない。

思い出深いもの、好きなもの、興味があるもの、と定義されるものたち。けれど、まだ減らせる。

部屋の物が多いと嘆く彼に私は言う。

「この棚を空けて、あなたの物を入れましょう」

「だめです」

「まだ減らせますよ」

「そうかもしれないけど、今じゃなくていいでしょう」

私が自分の持ち物を減らそうとするのを、彼は良しとしない。
以前、ネットの話なんだけどと前置きをして、話してくれた事がある。
それは収集癖のある旦那さんが、趣味の物をお嫁さんに一切合切捨てられてしまった話で、捨てられてからは何事に対しても興味が薄くなって、執着心を示さなくなった、という内容だった。

手放せば手放した分だけ、私が拘りをなくしていくのだと、彼は感じているのかも知れない。棚の中の物は、私が選んで残したものだけれど、これらが今まさに目の前から消えてなくなったとしても、ああそうか、と思うだけな気がする。

そうして、なくなったものは、覚えていられる分だけ覚えておく。出来ることと言えばそれくらいだ。

執着心がないわけでもない筈だけれど、拘りはそんなにないのかもしれない。例えば映画や漫画のネタバレをされても、私は構わない。ここがよかったのと話したくなる気持ちもよく分かるし、むしろ話してくれていい。笑って話して聞かせてくれるともっと嬉しい。

推理小説を結末から読んでも、私は愉しめる。私が知りたいのは物語の構造で、黙々と張られた伏線の回収の手順や、物語を魅せる技巧を味わう、という観点から見ている。むしろ物語はそのうち誰かの手によって明らかにされるという前提でいる。だから、それを伏せて置いて欲しいという拘りは持ち合わせてない。

棚の中の私物を時々見返すと、おや、あれも捨ててしまったのか、と思うときがある。あるものと思っていたけれど、もうここにはない。だから、残しておけばよかったなという気持ちとともに記憶をなぞる。思い返す。

棚の中のものがすべてなくなれば、やはり少しがっかりするのだろう。そうして、まあそんなものかなと思う。心にポッと、仄暗いものが灯って消える。そうして拘りがまたひとつ消えるけれど、まだ今は、今日の終わりに「また明日」と思える。

特別なものが欲しかったかもしれない。

特別になりたかったのかもしれない。

でも今は、そこにもあまり拘りがない。

もうそれは貰ってきた。だからもう十分なのだ。十分、愛して貰ったのだと思う。


私一人いなくても、私の大切な人たちが困らないのが理想的だ。毎日、何かと大変だろうけど、できるだけ体に気を付けて、できれば笑っている日もあるといいとな思う。また話そう。また会おう。出掛けよう。遊ぼう。皆で集まってご飯でも食べよう。手の平の中から指先で交わされた、約束になる前の言葉たち。そういうものが形になるといいなと、微笑みながら少し離れて眺める。

私はいつかまた鳥羽まで行って、スナメリに会いたい。水槽に張り付いて、あの白くて手触りの良さそうな体を眺めていたい。そうしてそのチケットの半券が、棚の一番下の段にある箱の中にしまわれる日が来るといいなと思う。




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もちだみわ
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