夜の迷いに背中を押す。どこへ向かうのかわからないけれど、踏み出したいのならば、そこへゆけ。
夜、バスを降りて。スマートフォンを片手に舗道を歩き続けている。立ち止まったり、引き返したりを繰り返していた。万歩計のアプリを起動して数値を見ると、軽く5000歩は歩いている。
ああ、こわいなあ、と思う。
こんなことが果たしてうまく行くのだろうかとも思う。
誰かにひとこと相談をしたい気がする。でも要約しても長くなる気がする。
不安を抱えて、一度、文字を打ってみる。
『ちょっとお話を聞いてほしいのですが、ここに長文の文章を送るか、通話するかどちらが話を聞きやすいですか?』
送信ボタンを押そうとしてためらう。
何でためらうのか、といえば、この人と話すのが怖いからではない。
言おうとしている言葉を、この人に投げるのが本当に適切なのか、この文面を、心当たりのあるうちの誰に送信するのが最良なのかを、考えている。
自分の気持ちに正直なのかを、見極めようとしている。
毎日を暮らしていくというのは、小さな決意の連続のように思う。それを踏まえて、『言いたいこと』を反芻する。
先ずAさんに伝えた方がいい、と思っている。けれど、伝えたところで状況が悪くなるだけかもしれない。そういう、先の展開を何度も仮で組み立てて壊し、また新たに生じかねない問題点を予測した上での不安がある。
私の話を誰も聞いてくれないという結果になるのは全然構わない。人は聞きたくない話を聞けないものだから、当然のことだ。そもそも、私がしようとしていることは、お節介極まりない。
むしろ私が投げかけたい言葉が、なにかよくないきっかけを作ってしまうのではないか、そう予測して、年をまたいで悩んでいる。
迷っていて背中を押して欲しいと思っている。
ならば、それは心が決まっているということだ。だったら、誰かに相談したところで、自分への言い訳になるだけじゃないのか。
そう考え続けて、夜道を歩いている。
アスファルトで舗装された道を歩きながら、進行方向に向かって、右手を左右に大きく、二度三度払った。遮るものは何もないのに、蜘蛛の巣や霧を払うように、手を振った。
払う動作。
雑念を払う。迷いを払う。私の思い込みを払う。言葉を誰かに向ける動作をためらう理由を払う。
私は、誰の話を聞きたいのだろう。と問いかける。
恐れを払う。失敗した記憶からの諦めや憤りを払う。払った奥にある気持ち、諦めを思い知らされた記憶が『私の言葉は役に立たない』と私を諌める。
違う。そうじゃない。と、手を振った。
私はあなたの話を聞きたい。ただそれだけ。
役に立ちたいからではなくて、聞かせて欲しい。そして、出来ることならば、私の話もしよう。
何かにひどく迷うときに、私は自分に問いかける。明日死ぬならば、伝えたいことがある筈だ。近日中に命が尽きるならばと想像したときに伝えたい言葉が思い浮かぶのなら、今伝えたって良いはずだ。
生きる理由は死ぬのが怖いからだけじゃないはずだ。
例えば私がここから何も言わずに離脱したって、きっと人は変わらない。誰の人生も変わらない。世界も変わらない。当然だ、偉人が儚くなったって、世界は動いていた。
そして私は、誰かの人生を明らかに変えるために人と関わってきたわけじゃない。
中立でいることはできない。出来るとしたらそれは何もしないということかもしれない。私の中には誰の味方か敵か、明確な線引きがない。そして、目的もなく心を痛めつけるためだけに戦う気はない。このまま状況が仮に淀む一方だとして、果たして何に後悔する。結び目が緩みかけている人の縁の紐を、間に入ってこの手で結び直したいのか。
いや、後悔はそこにない。
私が私に問いかける。
『何を望む?』
幾つもある答えの一つ。私はあなたに伝えたい。
今、胸の中に、海辺で拾った綺麗な小石みたいな気持ちがある。ならば、言葉にして、文字や声で、伝えねばならない。
けれど、一歩踏み込めば、気分を害されるだろうし、物事をややこしくするかもしれない。届くものかと思う。届けるための準備をしても、話を途中で切り上げて席を立たれたら何にもならない。
今の物事がその姿のままに進もうとしている形とは、違う方向へ舵を切り替えるための働きかけは、基本的には、うまく行くものではない。
人は誰しも自分の道を自分で選んで進む。例えば『そこは袋小路だ』と前もって指摘したところで、そこに歩みを進めて、突き当たりに出くわした時、この方向は行き止まりだったのだと初めて納得するものだ。
私はとても頑なで、『このひとは人の話を聞く耳を持っている』と思える相手以外には心を明かさない。そしてそれは稀なことだ。私自身もそうなのだから、誰しもが、いつだって人の言葉を聞いて意味を推し量ろうとするわけでないのは、わかる。
だけど。
積み重ねてきた時間の中で、目に見えないけれど確かに紡いでいたものや、『こういうものがある』と見えていたものを、私は頼りにしたい。
勘でしかない。
文面を渡す方向が合ってるのかすら、正直、わからない。
なにか。こうするといいのかもしれません、という言葉を、もしも、Aさんに渡すのだとしたら、まずはこちらに向かって、もう一歩譲歩して貰う必要があると、この件に関してはそう思う。
私はあなたにこうあってほしい。こうする方が回り回れば正解なのに、なんて言うのは、結局ただのエゴだ。言いたいけれど飲み込んだり、時には口をついてしまう事もある。けれど、伝えたいのは、そういう事じゃない。
『あなたは自分の意見を曲げたくないので頑固な自分を貫く』。『あなたは自分がこうと決めたことに触れられるのがいやだ』、その主張は、何も、どこも、間違ってはいない。
お互いの正しさのぶつけ合いは、お互いの正しさを見て、知ろうとしていることが前提になるのだと思う。伝えたところで相容れないかもしれない。はぐらかされるのかもしれない。それでも言葉を交えたい。そういう、切実さとも言える。
できることはひとつ。正直であること。
『私はあなたが好きです。だから、伝えたい気持ちがあります。』
好きなんてのは曖昧なものだ。中身が見えないものだ。それでも私は想いが指し示す先を信じたい。
死してもなお伝えたいことがあるのではないか?と尋ねられたことがある。
ひたむきに紡がれた言葉だから、思い当たる節を深く探った。いつか朽ちる体の代わりに残る言葉に託したい、想いの気配に耳を澄ませる。いつだって、全速力の手探りだ。そして、何度も問いかけた。その度に心は『勇気が欲しい』と呟いていた。
また、お前は生きる意味を持っているのだろう?と問われたことがある。確認するように。
大事な言葉に思えたから、逸らし続けていた視線を合わせた。目が合った瞬間、何か持っていると見抜かれた気がする。それは私にとって人に伝えるのが恥ずかしくなるくらい、小さな理由だ。けれど、中身はともかく、何か持っているのを見抜かれることが分かっていて、目を逸らさなかった。
真っ直ぐな目。
正直なところ、私はそこまで強くない。けれど、『強くないなんて考えることすら、言い訳に過ぎないだろう?』と、多分、あの目は言っていた。なんでそんな風に問える。正直、この人は面倒くさいところを常に突いてくる。
幾重もの言葉に促されるように、私が私の、夜の迷いに背中を押す。結果がどこへ向かうのかわからない。けれど、踏み出したいのならば、そこへゆけ、と、怯える心に囁く。
貰った言葉が私の中でどんな風に響いているのかを、今までちゃんと話したことがなかったと思うのだけれど、まあ、時には、こういった感じなんだ。