【個人的な詩論】ポスト・ポストモダンの逡巡
「意味」や「理念」は、常にある種の権威主義、暴力、つまりファシズム的傾向の萌芽があるので、自分の中にあるそうした傾向を押さえ込むことにしています。
それは前世紀の反省を踏まえた私の個人的な反戦、反帝国主義の運動です。僕の中には明らかに、血族の経験から戦争や差別が組み込まれているので。
昨日も祖母の満州脱出の短歌を読んでました。死ぬ覚悟を決めるが、南へ南へ、
「死ぬときは化粧をして、毅然と死ね 母なら諦めるな」と祖父から言われ ピストルと刀をもらいます。
3ヶ月の次男は殺し、長男は3歳でミルクが飲めず病死し、2人の娘だけが残り 2年後ソ連から戻った祖父を、娘は父ではないと疑っていた。
私もそう思います。彼は祖父ではないのではないか?
母が中国で死んでいたら、僕はいないわけです。もちろん祖母に感謝しますが、それは二人の兄弟の犠牲の上に成り立っているのです。
祖母は死ぬべきだったのかもしれない。母のルサンチマンの結果として僕がいる。
これが戦争です。
彼らの暴力性と憎しみは
僕らの時代で終わらせなくては。
これは祈りです。
一方、反暴力、反権威でありながら包摂性を担保するのは簡単ではありまけん。
結局暴力が色々出てしまう。
今は、個人に沈んでいくことでギリギリバランスをとっています。まあ、ある種の出家のようなものです。そういう意味では仏教の一部には、こうした考えが組み込まれています。
とはいえ、宗教は、教義があり、布教は権威主義にならざるを得ません。その維持はある種の生存戦略になります。
私は西行(平安、鎌倉)の詩に見つけようとしましたが、失敗しました。彼もまた、権力闘争の中にいたことがわかったからです。
フランスのランボーやボードレールといった耽美的な詩人は、反意味、つまり悪魔崇拝にそれを見つけ自滅しました。僕は、彼らを今でも崇拝していますが、それもまたある危険を孕んでいます。若く死ななくてはなりません。つまり、どう自殺するか、どう自滅するかこそ、詩人が求めるものとなります。これは人を不幸な気持ちにし、結果文学に閉じてしまいます。即身成仏はこれに似ています。
20世紀のモダニズムの本質は耽美、ミニマム、自殺だと思うのです。
表層を軽やかに逃げることは、ポストモダン(脱構築)の戦略ですが、時代はもうポスト・ポストモダン(オルターモダン)なのでポストモダンの手法はすでに無効のようにも、思えます。
僕もポストモダンの影響下にありますが、時代がすぎ、それを克服するべきだと考えています。
広瀬大志や吉増剛造の詩にはそれを乗り越えようとする明確な意図を感じますが、どうしてもエンタメあるいは神秘主義のどちらかになってしまうようです。
第三の道はないのかそれを追求したいと考えて3年が過ぎました。
今は、第三の道がなかなか見つからないことを表現しています。それが
「巡礼」です
小説、絵画、散文、物語、俳句、短歌、様々な表現手法がありますが、全て過去のものです。
物語は普遍的に人を興奮させますが、暴力性が高い。
抒情詩を書くのも楽しいです。
ただ、感傷や自己憐憫は嫌やなんです。自己弁明のための他者や環境への恨みつらみはもっと嫌です。しかし、他の詩人のそれを否定してはいけない、それすら認める、それは、ある種のパロディとして、それは、ありかと。作家はパロディと考えてなくても、読み手がパロディと捉えることで、成立するのではないでしょうか。
「ミスターアフォーダンス」や「情感の彼方に」では 微かにそれが見つかりつつあります。観念を擬人化し、そいつらにある種のストーリーを演じさせるが、断片でしかない、深刻なのに、間抜けで、ある種の繰り返しの中に、凝固する前の言葉を放り込む。
まあ、何も解決はしませんが、詩の役割を微かに果たせないか、そんな祈りのようなものはあります。
読者がいない、という問題は解決していません。一番の問題です。
これからですね。
運を味方にしないと難しい。
朝から長文すいません。
湖の前で書いていますが、
朝日が気持ちいい。