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子がぽつり「『普通』って『はしご』だね」(#7 コンパッショネートなシステム思考を子育てやなんやかんやで使う)

「普通」を決めているのは自分

 「『普通』って『はしご』だね」。昼ご飯を食べながらわが子が唐突にぽつり。何を言われたのか即座に分からず、「え?はしご?」と聞き返しました。

 「『普通は、、、』ってよく言うけど、自分の経験から自分でそう思って言ってるだけで、本当にそうとは限らないよね」。そこまで言われて分かりました。「はしご」とは「推論のはしご」のこと。

 自分が選んだデータに意味付けをして、推論し、結論を出し、それを信じた行動をとる=はしごを駆け上がる。

 それについては、折に触れて子どもと話してきました。最初は確か数年前、友達との間でちょっとした出来事が起き、子どもが感情的になったとき。はしごの図を描きながら、相手の言動から推論して行動してしまうことがあるよね、という話をしました。その後も機会があれば、「あのはしごのやつだね~」と触れてきました。さらに、オンラインで参加した「小学生からのシステム思考」でも、ほかの参加者の子どもたちと一緒にゲーム仕立てで「推論のはしご」を体験。後日送られてきたスライドを見ながら、「こんなんやったね~」と簡単に振り返りもしました。

 そんな長い流れがあっての「『普通』って『はしご』だね」でした。昼ご飯の続きを食べながら、「普通」って人によって違うはずなのに、いとも簡単に、頻繁に「普通は」ってみんな使っているね、という話になりました。

 肌の色から何から何まで多様性のある米国に外国人として住んでいると、自分の中の「普通」は常に揺さぶられています。「普通」が強化されにくい環境にいるにもかかわらず、「普通は」という言葉を結構使っているなあ、と改めて自問した時間。子どもからの思わぬ一言で、自分自身の考え方のくせや習慣について振り返り、自分にどこまでもしがみついてくる「普通は」という言葉について、立ち止まって考えられたいい機会でした。

 そして何より、昼食中の会話に何気なく出てきた「普通は~」という言葉と「はしご」が、子どもの中でつながったことを知ることができた点こそが嬉しい驚きでした。多くの人の助けを借りた上で、自ら気づくことの尊さ。時間の流れを経たおかげで、無意識に「使える」までに至る――そんな瞬間を目の当たりにできたように感じられた、豊かな出来事でした。


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