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ムダに教養がつくかも知れない不定期な雑学講座の連載(講義中は寝ないこと)~世界宗教の基礎知識2「仏教」をひもとく  第2講 大乗仏教の成立 その4


般若経典の「根本」は「空」の概念

最古のお経と言われる「スッタニパータ」 には、
以下のような文脈の中で「空」という言葉が使われています。

「〈ここに自分というものがある〉という想いを取り除き、
この世のものは空であると見よ」

  つまり、 「私」というものも、いろやかたち、温度、重さなど、
様々な要素の寄せ集めで作ら れた架空の存在で、
ここに「ある」ように見えるけれど、
実際には存在しない虚像ということになります

般若経においては、すべての基本的な要素には、
そもそも実体がないのだから、それが生まれたり、
消えたり汚れたりきれいになったり
増えたり減ったりするように見えること=諸行無常すらも、
すべて錯覚である
というスタンスをとります。

 すなわち、人智を越えた「超越的な宇宙の法則」こそが、
「空」であるという論理になります。
このことで、「人は生きている存在」であることが、
いわば悟りへのエネルギーとしての
「善行」という概念を打ち出しました。
そして、この「空」を知ることによって
ブッダとなれる「悟り」を得られるスキームを考え出したことになります。
このプロセスこそが「大乗仏教」の要となるのです。

六波羅蜜について

般若経においては大切な心がけとして、
六波羅蜜という6つの項目を挙げています。
一つずつあげると、

「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」の6つです。

あくまでも「生活するうえでの心得」ですから、
ぶっちゃけた言い方をすれば、

見返りを求めず人と接し、
自分を常に戒める姿勢と、
冷静に自己を見つめて生活しなさい。


という、正しい日常を送れというメッセージです。
このベースがあって、「智慧」
これは般若波羅密多という、「完全な智慧の体得」
ということになるわけです。

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お経が「ブッダ」である

また、「お経」そのものが
「ブッダの化身=法身」という考え方が生まれます。

ですから、経を読むことが
そのままブッダを供養し崇拝している理屈になります。

何度も輪廻してブッダに出会わなくてはならないが、
簡単には会えないとなれば、
「法身」であるお経を何度も読めば、
それだけ「ブッダに出会えた」ことにしても
「ブッダの教え」に出会えるわけですから、
確かに理に適ってはおりますね。

ですから、「ブッダ」に何度も会える方法として
読経や写経が意味をなす
というわけです。
このことは「般若経」が広く行き渡る
合理的な方法でもあったとも言えます。
般若経には、この経を唱えたり書いたり広める事を
「供養である」と記していますから、
実に効果的な「自己増殖プログラム」でもあったわけです。

龍樹さんの功績

「般若経」の一連の考え方は、
保守的な仏教の立場からいえば
ある意味「異質」であったろうと思います。

「空」の概念は、般若心経の内容にもあるように
「四諦」すら「ない」といっていますから、
何言ってるんだ」ということになりましょう。

 ところが、これを理論的に整理し、
ゴータマ=ブッダの教えと結びつくという考えに変化していきます。

この流れを作ったのが、
龍樹(ナーガールジュナ)という南インドの学僧です。
 2世紀頃に活動していました。

龍樹は、仏教を哲学的に考察しました。
僧というよりむしろ仏教研究者です。
この人は、大乗仏教の要である「空」が
ブッダの教えの延長線にあるという論理で、
本来の原始仏教と変質した
大乗仏教の垣根を論理的に取り払ったわけです。

 神秘的要素をある意味残したうえで、
論理的な結節を完成させたという点で、
龍樹なくしては「大乗仏教」そのものが
成立しないということになります。

つまり、般若経は「呪文」としての力がなくては、
本来の意味を失う
からです。

大乗仏教には人智を越えた「大きな力」の存在が
どうしても必要だからです。
これをレトリックとはいえ、
うまく理論に持っていった龍樹は
偉大だということが言えるでしょう。

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