命の雲:形と愛と時の共有:生命流体論

人類史批判の集大成:自己嫌悪に代表されるあらゆる嫌悪感の構造解明
「全体に対し部分的なものはすべて呪われている。」
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昨年を振り返るが如く有史を振り返り、
一生を振り返るが如く生命史を振り返る。

我が過去は宇宙のそれと一体であり、
その未来もまた同一である。

生命とは実体の有無に関わらずこの空間を埋め尽くす無限の連続複雑系の総称である。
生命体とは生命の一端を担ぎ、代謝を行う散逸構造的な存在のことである。それは渦や流れとも呼ばれる。それらは境界を認知されることによって初めて存在する。すなわち観測者(主観)による「線引き」こそが存在の条件である。

あらゆる生命体は個として抽出、観測された瞬間に全生命から剥離される。神秘を神秘のまま観察することは原則的に不可能である。ゆえに生命体は入滅するまではみな非神秘的である。全体に対し部分的なものはすべて「呪い」を受ける。それは劣等感や恐怖、孤独や不安と呼ばれる。

また言語は世界の全容を説明するには能わない。
言語は世界の中の一機構にすぎず、それによって全体の動きを緻密に説明することはできない。
世界はそれ以上不可分な様々な素子の集合体であり、その全てを知慮した実現象こそが世界を最も端的に説明する過不足ない表し方である。

記号や象徴としての言語的理解には限界があり、厳密な説明には素子レベルに緻密に定義、関係づけされた抽象的記号の開発、普及が必要でありそれには莫大な時間と労力がかかる。さらに、それは世界をもう一つ作ることになるだけであり、この世の説明にはならない。

バーバルは空々しい。ゆえに「色即是空」なのであり、この世が空なのでは全くない。ノンバーバルには実体がない。しかしそれは差異を含んだ反復により連綿と確かに引き継がれる(ミーム)。「今ここ」にすべてが詰まっている。
それはもはや自明であり、わざわざ感じ取る必要もない。むしろ知覚することによって、それは部分的になる。

究極的な生命論的パラダイムにおいては、認識そのものが過ちと判断されるに違いない。認識なき判断など不可能であるという矛盾はあるが仕方ない。
現象から個体あるいは集合をそれとして識別するのは人の都合の話でしかない。それはえてして人間至上主義につながる。
あらゆる生命体は全体で一生命として存在し、本来は一切不可分である。

作為の感知は自己を認識することで始まる。
そして自己意識には必ず作為が宿る。
自我を持つことそれ自体が利己的なのである。

自然は生の私物化を許さない。
自然的なものには始まりも終わりもない。

生命体がみなどこか不自然であり、
その様相がみなどこか奇怪に映り、
その嫌悪感に煩悶し苦悩するのは、
自然が自我を必要としないからである。

ゆえに自己は主体にとって半永久的に最も恨めしい存在であり、(そうでなければ倒錯であり、)

精神の存在こそ自然にとっての疾患である。

(R2.8.26)©かかし


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