友達には「noteは任意で見てください」ってしといて良かった。見てるかどうかは分からないけど。今までの話を10割出したら共感能力が高い人や似たような経験をした人は苦しくなる可能性があったから抑えてた。だが話の中で2割に抑えても重いと分かったからnoteで発信に切り替えて良かった。
俺がnoteで発信して現実世界で言わないのにはもう一つ理由がある。本質は見抜けていても俺も人間だから全てできているわけではないからだ。できていると完璧に言えるのなら言ってもいいとは思うがそんな人間はいない。だから言うこともできなくなる。寧ろ学ぶ姿勢でいた方が断然有意義な物となる。
なぜ学習記録に時間を記録しているかといったら、過去にこの記録だった場合、さらに深度のある内容にはどのくらいの時間がかかって、どの隙間時間に理解できるのかを考えるため。俺の学習記録の内容って、人に話す話じゃないからアウトプットの場が無いのよね。だから、noteで発信するのだよ!