季節はたまに邪魔をする。夏の暑さが秋にずれ込み、雪の降る日が続いて桜の開花が例年より遅れる。それでも私は今日を生きる。過去を振り返っても仕様がないし明日の心配をする必要もない。今日だけ。そう思うと心持ちが幾分か楽になった。今日は8時には獰猛な日差しが差した。朝食を摂り顔を洗った。
私はものを書くとき、意識して英語を使わない。昔よんだある論評に、「米国人は中国の小説なんかに全く興味がない」とあった。かなりの酷評だが(今思えば)私は日本人で日本でのみ活動する身として産声の「オギャァー」から「卍」、「わしの若いときはのぅ」まで、日本語を大切にしていきたいと思う。
朝からずっとプリンター(EPSON PX436A)とにらめっこ。結局EPSONのお問い合わせセンターに電話をして担当の方が親身に対応してくれました!1時間近くも通話していました(汗)それから製本の矯めにホームセンターと100均を巡ってハリナックスを買いました!疲れた。。
こんばんは。小説家として真剣に活動するにあたって、もちろん応援は嬉しいですが、誹謗中傷なんかも覚悟のうえで、この職業を選びました。厳しい意見やバッシングなんかにも耐えてですね、これからも成長していけたらと思います。そっち系のは書かないんですか?なんてことも言われます。書きません。
「ねぇ、突然の話なんだけどダウン症候群のお年寄りって見たことないわよね」 ダウン症候群の人の平均寿命は30歳前後。
構成と起承転結がしっかり。誤字脱字もない「ぬかりのない」小説は正しい。同感だ。けれどもそれが面白いか、読みたいか、買いたいか。と読者に思わせるにはまず冒頭の数行でいかに読者を引き付けるか。しかしその考え方も正しい。さて、私は正しい小説を書くのか?いや、書きたいとは思わないのだ。
純文学と大衆文学(エンタメ文学)の違いについて。はっきりとジャンル分けをする(大衆文学はラノベや小説家になろう等のサイトの台頭もある)ことははっきり言って必要だと思います。その理由は本を売りやすくするためだから。しかし私の様な書き手側にとってそこを意識する必要はないと思います。
コミックマーケット(コミケ)に参加する人を主人公に、もしくはそれらにフォーカスした三人称で小説を書いたら長編上下巻いけるのでは?と思いながらYahoo!ニュースをみている昼下がりのグループホームです(グループホームなう)。おばあちゃん久しぶりきたけど笑ってくれるかなあ。
20代最後の年。または平成最後の年。だから?なにかどうした?ふーん。という門構えで私は自己防衛している。身を守るために人は自己防衛するが私の場合はそれが「唯一の」性格なのだ。正確に「書けば」、私は小説家で私は僕でもなければ俺でもないし、あたしでもなければわしでもない。私は小説家。
「今日の日はさようなら、また会う日まで」...なんて素敵な歌詞なのだろうか。今日の日はさようなら、だからまた会える、話せる、遊べる。どれだけ楽しい日でも時間は過ぎていって、今日、はそのうち終わる。歌詞の冒頭はこうだ。「いつまでも絶えることなく友達でいよう」。ーじゃぁまたね。ー
noteはじめてみました! Twitterは 山内ゆう @yu_yamauchi0205 です! 宜しくお願いします