都合により、本日から5日間ほど帰省することになりました。そこで夜の記事の更新はお休みします。朝の更新はそのまま継続します。来週の10月4日より、夜の更新を再開する予定です。宜しくお願い致します。「都」というと、最近はヨルシカの「都落ち」を好んで聴いています。軽快な感じが好きです。
僕らは、いつでも「いまここ」に恵まれている。でも、そう思えるようになったのは、様々な経験をしたから。経験が人に氣付きを与えてくれる。大人になって得た氣付きを、自分だけに留めていてはもったいない。だから、それらを出来る限り若い人達に伝よう。そうすれば、それが若い人達の恵みとなる。
美しさは純粋さの中にあり、純粋さは多くの人の共感を得られる。美しさは潔さであり、潔さは多くの人の共感を得られる。美しさはシンプルさの中にあり、シンプルさは多くの人の共感を得られる。人は、純粋で潔くシンプルに生きることができれば美しくなれる。美は不用な物事を落とすことで生まれ出る。
書くことは自問自答をすることであり、自問自答から、新たな気付きを得ることができる。書くことで静寂を生み出せば、その静寂の中から言葉が浮かび上がってくる。気付きとは、自分の中で眠っている真の自分を呼び起こすこと。真の自分と出会うことができれば、人生の新たなページを捲ることができる。
自分を祝福すれば宇宙も祝福してくれる。自分を蔑めば宇宙も自分を蔑む。この宇宙では、自分の思いがそのまま反映されるのがルール。ならば、自分を祝って他者を祝って日々の出来事を祝って祝って祝いまくれば、私の宇宙は祭りとなる。祝うとは祀ることであり己を示すこと。己を示せば祝うことになる。
今がどんな現状であるにせよ、理想とする世界を思い描くことができれば、それが人の気持ちを前向きにさせる。理想があるからこそ、人は行動できるようになる。たとえそれが理に適っていなくても構わない。想いが理に適っていればそれでいい。理想とする世界には、必ず喜びや楽しみが存在している。
「優」には「やさしい」「すぐれる」「まさる」という意味がある。つまり、「すぐれてまさる」には、「やさしさ」が欠かせないといっていい。優しさは調和の意識であり平和へと導く意識である。勝るのではなく優る。まずは自分に優しくなって余裕を持てるようになれば、自然と他人にも優しくなれる。
不自由があるから自由を希求する。不自由さによって自由を知ることができる。もう不自由さはお腹いっぱい。これからは、自らの意志で自由を選択出来るようになっていく。我々には、選択出来る力が備わっている。この選択出来る力を見つけ出し使いこなせるようになると、自由に生きていけるようになる。
子どものような輝きで生きること。子どものような純粋さで生きること。人の中には子どもの心が一生残っている。子どものような輝きを失わない限り人の精神は老いることはない。子どもは小さいけれど、その輝きは大人より大きい。大人はいつまでも子供のような輝きや純粋さを失ってはいけないのだ。
物事をどう観るかで、その後の現象が変わってくる。このため、どんなことでも色々な見方があるということを肝に据えておいた方がいい。ネガティブな思いが浮かんだら深呼吸をして、別な見方がないか考えれば「観」という原因を変えられる。物事の原因は、すべて自分にある。観を自在に操って生きよう。
ミクロを理解できるようになると弥勒(みろく)の世の中がやって来る。これからは素粒子の振る舞いを理解する人が増えていき、自分の思いを現象化できる人が増えていく。願いが叶いやすくなると誰もが喜びに充ちるようになるから世界は平和になる。弥勒の世とは自分の力で自分を救える世の中のこと。
一つのことに集中できるということは、そこに喜びがあるという証拠。一つの意志を心に置くという「一意専心」という言葉の背後には、必ず喜びが存在している。専門家とは自分の喜びを収集し極めた人である。どんなことでも構わない、ひとつでも夢中になれることを見つけることができれば幸せになれる。
福は運ではなく自分で生み出すもの。笑って過ごせば福が来るし、楽しい気分で過ごせば福は必ずやって来る。大切なのは心をふくよかにさせること。ふくよかな気持ちになれば、余裕が生まれて笑って楽しむことができるようになる。 千福万来。喜びというお客様を絶えず呼び寄せるには笑って楽しむこと。
「会う」と「逢う」の違いは、そこに親しみがあるかどうか。つまり「会う」が「合え」ば「逢う」になる。「会う」ことは容易だが、「逢う」を見つけるのは難しい。「逢う」を見つけるには、自分には何が「合う」のかを知る必要がある。自分の「合う」を知れば必ずよい「出逢い」が生まれるようになる。
生きることは望みを持つことでもある。望みがあるからこそ、生きることを楽しめるし、楽しめるから望みが持てる。また、望みを持つからこそ人は成長できるし自己を拡大していけるようになる。このため、望みの心地よい循環の中で生きていけるようになれば目を輝かせて笑って過ごしていけるようになる。
「達」には完了+αの意味がある。何かを「達成」すれば自信がつくし、「達観」できれば視界が広がる。「達人」は道を極めた人であり、目的地に「到達」できれば安堵できる。小さなこだわりを捨てれば「闊達」になれるし、「達者」であれば明るく過ごせる。「達」は人を幸せにさせる文字である。
人類の夢は、平和で調和的な世界で一人一人が自由に自分の好きなことを夢中になって生きられる社会を実現すること。この夢を実現するには、まずは自分の理想とする世界をいろいろと想像してみること。想像できることは必ず実現できる。そういった強い思いを多くの人が持てるようになれば世界は変わる。
人生をどう捉えるかで現実が創られる。例えば人生を「祭り」だと解釈すればエネルギッシュな人生を送ることになる。祭りには収穫を喜び、その喜びを祀る祭りと、豊作を願って前祝いをする予祝がある。つまり、祭りは思いと結果を一致させるためにある。喜べば喜びが返ってくる。それが祭りの醍醐味。
個は全であり全は個である。これからはオーケストラのように互いの個性をハーモニーのように共鳴させていく時代になってく。我々、一人ひとりは奏者であり主人公なのだ。そのためにも喜びという音を奏で日々を楽しんで生きなければならない。協奏曲は一人ひとりの喜びの総和で生まれる。人生は協奏曲!
この世界には「思いが先、現象が後」という法則がある。このため、雲一つない青空のような気持ちになって、晴れ晴れと生きることができると幸せになることができる。心が晴れ晴れとするということは心の中に抵抗がないということ。心の中を晴れにして抵抗をなくしていけば、楽しんで生きていける。
人は多くのことを知りたいという欲求を持って生きていて、その思いが人を動かす原動力になる。「知る」には、知識として知ることと経験を通じて知ることのふたつの意味がある。好奇心は知識と経験のふたつを求めることになるから知恵になる。経験を通じて知ることは恵みとなり、人の心を豊かにする。
急ですが、所用のため再度、帰郷することになりました。 明日、明後日とお休みし、23日(水)より再開する予定です。 宜しくお願い致します!!
「諦める」という言葉には「明らかにする」という意味が含まれている。なぜかというと、諦めることは自分の向き不向きを明らかにすることだから。自分に向いていないなと感じることをどんどん諦めていけば、やがて自分の本質に近づいていけるようになる。だから、諦めることは何も悪いことではない。
「習」には、練習を重ねて慣れるという意味がある。習慣も何度も繰り返すことで身に付けていく。新しい習慣を身に付けるためには、「やり遂げるぞ」という意思を持たなければならないため熱量が必要になってくる。しかし一度、習慣化できてしまえば自然にできるようになるため、熱量は要らなくなる。
この一週間「しゅう」と読める漢字を書いてきた。「集」「習」「周」「秀」「修」「収」「衆」。どうやら「しゅう」と読める漢字には、共通して「あつめる」「束ねる」「まとめる」という意味があることに氣づいた。今日の「衆」には「多い」という意味。明日は「秋」を書く予定。「秋」は集める季節。
世界陸上のやり投げで金メダルを獲った北口棒花さんが心掛けていることは「笑顔」。インタビュー動画でこう語っていた。「笑顔は何でもいいことを引き寄せるから、いつも笑顔でいるように心掛けています」。母親からの教えだそう。笑顔には、自分の意識を前向きにさせ、困難を喜びに変える力がある。
今日、これから帰省しますので,少しお休みします。15日からまた再開します。宜しくお願いいします!!
今回の帰省途中で集中して読書ができました。そういった中で、集中して取り組んでみたいことが思いつきました。なので、8月一杯は夜の更新はお休みし、朝の一日一字の書だけの更新にしようと思います。目的は新しい習慣作りで、それに集中してみようと思います。後悔のないようにチレンジしてみます。
心の中に豊かな泉があると生きることが楽しくなる。泉を創り出すのは湧水であり、湧水は「喜び」や「嬉しさ」「期待感」に相当する。そして「喜び」や「嬉しさ」「期待感」で心を満たすことができたらなら豊かな泉を作ることができる。そんな泉から流れ出た水が川となり周りに潤いを与える事になる。
秋は喜びの季節。春に蒔いた種は、初夏の雨と真夏の日差しで成長し、秋に実を結ぶ。秋は収穫された実りの周りで祭りを修め人が集い群衆となり各々が秀でた芸を披露する。晩秋は今年の成果を省みて、来年の収穫に向けて習い、冬を迎える準備をする。秋は「しゅう」の季節。様々な「しゅう」を集める時。
地中に広がる根の形が地上の枝葉の形に似ているように、我々の精神も陰の広がりがあるからこそ、陽の広がりを持てるようになっている。海援隊の「贈る言葉」にあるように、人は悲しみが多いほど人には優しくなれる。陰の上に陽があり陽は陰に支えられている。人間は陰と陽の二つを持つことで人になる。
葉は日光を浴びることで光合成を起こし、植物の成長に必要なエネルギーを生産する。人はたくさんの日を浴びることでセロトニンを増やすことができ、精神の安定や平常心を持てるようになって直観力を上げられるようになる。我々も木々の葉を見習って全身で光を浴びれば幸福感を上げていけるようになる。
道は同じ場所を何度も何度も歩いて踏み固めていくことで出来上がる。だから道にを作るには反復や往復が欠かせない。しかし、一度踏み固められた道を造ってしまえば往来が容易になる。道とは自分が歩き固めた歩きやすい路であり、歩きやすい路があれば生きやすくなる。楽しんで道を歩けば道楽になる。
緑を見ると人の心が安らぐのは、植物の緑のお陰で我々は酸素を取り入れることができ、生命の維持ができているからなのかもしれない。日本には沢山の山があり、山があるところには森がある。日本人の精神的な豊かさの源は、そんな豊かな森にあるといってもいいだろう。豊かな森が豊かな人と社会を創る。
影があるから光が際立つ。影と光は二つで一つであり一心同体といっていい。つまり影を知ることは光を知ることであり、影を愛することは光を愛することにもなる。人は光と影の両面を知って初めて成長できるもので、どちらか片方だけでは成長することはできない。影を受け入れれば光になることができる。
不安をベースに生きると弱気になるけど、喜びベースで生きれば強気になる。とはいえ、喜びベースで生きるのが習慣になると強気である感覚がなくなり、それが当たり前になる。強さを一時的なものではなく恒常的なものにできるようなると、出来ることが増えていくため自由に過ごしていけるようになる。
柔よく剛を制す。柔は剛の上に存在する。では剛の上に存在する「柔」とは何か。それは、どんなことがあっても笑える力である。どんなことでも笑えるということは、強さの中にしなやかさを兼ね備えているということでもある。柔の道とは、強い身体としなやかな心を身に付ける道と考えてもいいと思う。
人体は宇宙であり細胞の一つ一つは数多の星です。人の細胞は60兆あるといわれ、まさに星の数ほどあります。この60兆もある細胞に多くの酸素を送り込むことができれば人は元気になり、生命に彩りを与える事ができます。細胞という星を輝かせ、人体という宇宙は躍動させれば喜びが溢れ出します。
「環」とは輪の形であり端が存在しないことを意味する。自然は循環することで輪を作り和を生み出す。日本がかつて「倭国」と名乗っていたのは、自然の循環の中で生きていた証といってもいいだろう。「倭」とは「人に委ねる」と書く。当時の人たちは自然の循環を大切にして生きていたのだと思う。
収穫の秋到来。夏の強い陽射しは成長を促すから秋の収穫には欠かせない。植物は光と水で光合成を起こして実を宿す。僕ら生物は、水を吸収し光を浴びて発散させ体内の水分を循環させている。循環が保たれていれば自然の法則に収まる。収穫とは自然の法則の一部であり、結果であると同時に原因でもある。
「ある」に注目して生きていると自然と感謝できるようになる。でも「ない」という思いで生きていると感謝の気持ちを忘れさせてしまう。感謝の思いは心地よさを感じさせてくれるが、「ない」という思いは焦燥感を覚えさせる。「ある」の意識は気持ちを穏やかにさせてくれ、穏やかさが幸せを感じさせる。
「修」には、「学問・技術を身につける」の他に「精神を整える」などの意味がある。実をいうと「学問・技術を身につける」ことは「精神を整える」ことでもある。学問とは知識を詰め込むことではなく、身体に染み込ませることであり、染み込ませることが「修める」ことでもある。修めれば整えられる。
「観測によって素粒子は姿を変える」といわれている。つまり「私」がどう思うかで素粒子は姿を変えるということになる。素粒子は変幻自在な可能性であり、その素粒子に意図を与えることで現象化を起こす。「素」とは「もと」であり「素材」でもある。この素材をどのように活かすかは自分次第である。
僕らはいつでもどこでも世界の中心に存在していている。自分が世界の中心なら、しっかりとした軸を持つ必要がある。軸は真っ直ぐで強くなければ上手く回転することができない。逆に言うと、軸さえしっかり持つことができたなら、楽しい輪を創ることができ、和の気持ちで余裕を持って生きていける。
感情の波に飲み込まれないように穏やかさに戻る。穏やかさはニュートラルな意識。心と体が安らぐ意識。氣持ちの揺れを感じたら、生まれ持った穏やかさに焦点を合わせれば、リラックスした自分に戻ることができる。穏やかであれば「いまここ」になることができ、最大限の能力を発揮できるようになる。
「琴線」とは、心の奥に秘められた感じやすい心情を刺激して、感動や共鳴を与えること。もし琴線に触れる何かがあったなら、それに挑戦していくと、それまで知ることの出来なかった新しい自分に出会える。心がジャジャーンと響けば、それが新しい扉を開く合図になる。新しい扉を開けば世界が変わる。
この一週間、テンションを一定に保つために、秦基博さんの「鱗」を何度も聴いていた。歌詞は「鱗のように身に纏っていたものは捨てて泳いでいけ」という所が好き。最近は行書で字を書いている。行書とは楷書を崩した書体で運筆に任せて自然に書ける。楷書の礼儀正しさを手放してみたら楽しかった。
これまで色々あったけど無事にやってこれた。なので自分に満点を与えてみる。いいことばかりではなかったけど、そういった経験を含めて満点を与えてみる。辛い経験が自分を成長させてくれたし、そのお陰でここまでやってこれたから満点。満たされた思いで生きていくと決めて、これからも歩いていこう。
自らの心と書いて「息」。呼吸に意識を向けると自分という生命の息吹を感じることができる。呼吸を観察すれば、自分の心の状態を理解できる。吸って吐くという息一つに、深い意味がある。呼吸に向き合うということは、自らの心と向き合うこと、自らの心と向き合えば「今ここ」を生きることになる。
誰にでも「秀でる」ことがある。この自分オリジナルの「秀」を見つけることができれば生きることが楽しくなる。「秀」を発見・発掘できれば、周りにも貢献できるようになって「私」の可能性が広がっていき、人生に輝きを与える。ナンバーワンではなくオンリーワンの「秀」が、一人ひとりの使命となる。