好きな物はどんなにお金がなくても、売ってはいけないと前の彼女に言われた。そうだろうけれど。その商品が市場価値高いと分かっているから、売りたくなる。またお金がある時に買い戻せばいい。絶対もうオークションに出ないレコードもある。それを手放さないだけだ。50の手習いのような、また明日。
図書館に来て落ち込んでいてネガティブだったけれど、人から直接文章の書き方、本から教わらなくてもライターを目指す人は、隣に座っているミッション系大学の院生のような雰囲気、参考書や問題集が7、8冊ある状態の人から、何かもう少し書くことを学べそうです。50の手習いのような。また明日。
今日の気づき。一度引っ込めた記事をリライトし始めた。1時間強で筆を置いた。どうもテーマが重いので、その異質さ、過剰さを取り除く作業に終始して疲れてしまった。今日はwordA42枚直せた。この作業の疲れ方は、今まで一度も味わったことがない未知の世界。50の手習いのような。また明日。
今日の気づき。朝から一日中お酒を飲んでいた。何か降りてくるかと思ったが、何もない。やはり、朝型、それも朝食前のスタイルを再確認。あと、noteの下書きの取捨選択をした。書くべき時に書かないと、書いてはいないが、自分の中で終わった原稿になる。50の手習いのような。また明日。
今日の気づき。今日も図書館で文章をふたつ書いた。確かに自分の独特な感性を感じるし、一見上質なエッセイ風ではあるが、あくまでも「風」なのである。2ヶ月前の瑞々しい感性が文章に表れていない。何かに慣れてしまってはいないか。落とし穴に少し落ちかけている。50の手習いのような。また明日。
今日の気づき。図書館で久しぶりに文章を書いた。フレディ・マーキュリーの異才のこと。彼に影響を確かに受けているが、フレディの「おかげ」で文章が書けていることを忘れてはならない。俺が俺がの「我」を捨てて、おかげおかげの「下」で暮らせ。中島らもの言葉。50の手習いのような。また明日。
今日の気づき。久しぶりに映画を観た。これからどう生きて行くか、今、自分に必要な要素が詰まった内容だった。フレディ・マーキュリーの映画。彼は異才で、異能だが、人と変わっていても、なんとか周りの協力が得られれば、間違ったアウトプットをしない教えが。50の手習いのような。また明日。
今日の気づき。先ほどの投稿は、あまり深い考えではないが、自分なりの「ファクト」。ほぼ書ききっているし、気持ちを残した感じはしない。でも、なぜだろう、少し虚しい。どこかで、誰かを抑制していないだろうか。でも、すべての人に叶う文章など存在しない。50の手習いのような。また明日。
今朝の気づき。(番外編)どんなに鉄壁な守備陣と豪腕な投手が相手でも、ホームランは観客席には守備がいないし1点。また投手が160kmの速球投手でも、ファールチップを打ち続け、何十球かのうちの1球のボールを見極め、4つ選べたら出塁できる。戦略は大事。50の手習いのような。また明日。
年始の気づき。過去の記事を読んでいると、「だろうが」の多用が安易。「だけれど」も使いすぎると、過多で弱い文章に。その最適解が分からない。分からないのは昼ビールのせいだろうか。年末年始、暴飲暴食注意。50の手習いのような。また明日。