たくさん読み、たくさん書くことの大切さ
文章修行の「王道」とは?
文章力をつけるためには、大量の本を読んで1つでも多くの名文に触れ、自らも大量の文章を書く以外にない。これだけが文章修行の王道であり、ほかに道はない。
もっとも、ここで終わってしまっては、「やせるためには、運動量を増やすか食べる量を減らすしかない」としか書いていないダイエット本のようで、芸がない。つけたりのようなことを少し書いてみよう。
たくさんの本を読むことがなぜ大切かといえば、文章のよし悪しを判断する力はそのことでしか磨かれないからである。よし悪しが判断できなければ、よい文章を書くこともできない。当然のことだ。
たとえば、『文章読本』のたぐいには、「紋切り型を避けよ」ということがしばしば書いてある。使い古された表現を使うと、そこから文章の品格が下がるというのである。
これはまったくそのとおりで、大昔に流行したような紋切り型の表現――たとえば、「天を仰いだ」「事件は一応の落着を見た」「興奮の余韻さめやらぬ」「ガックリと肩を落とした」「くやしさに唇を噛みしめた」など――は、1つ使うだけでも文章全体が古臭く野暮ったくなってしまう。
しかし、たくさんの本を読んでいなければ、どんな表現が「紋切り型」であるのかすらわからない。ゆえに「紋切り型を避ける」こともできないのだ。
また、文章のよし悪しを決める重要な要素の1つに「リズム」がある。句読点の打ち方、言葉の並べ方など、さまざまな事柄の複合作用から生まれる「文章のリズム」のことである。
リズムが軽快で整っていれば、読みやすいし、読んでいて心地よい。逆に、リズムの悪い文章はまことに読みにくい。
そして、この「文章のリズム」ということも、大量の本を読むなかで自然に体得していく以外にない。
名文も悪文も伝染する
手当たりしだいに濫読するのもよいが、なるべくなら名文を選んで読んだほうが、効率的な文章修行になる。なんとなれば、悪文も名文も伝染するものであるからだ。
悪文ばかり読んでいると書く文章も悪文になるし、名文を好んで読むようにすればおのずと文章もうまくなる。
もちろん、それは何年というスパンでの話であって、名文を読めばたちどころに文章がうまくなるような速効性はないけれど……。
もっとも、最初のうちはどれが名文かすらわからないだろうから、とりあえずは名文の誉れ高いものを読もう。
私は、感嘆するほどうまい文章については、何度もくり返し読む。
“写経”(=「手本」となる文章を書き写す)まではしたことがないけれど、気分としては“写経”に近いほど読み返した文章も少なくない。それらの文章の1つひとつが、ライターとしての血肉となっている。
何度も読み返した名文の一例を挙げよう。
以下は、関川夏央さんのエッセイ集『水のように笑う』の一編「グラスに溶かした思い出」からの引用である。高校1年のときに初めて酒に酔った思い出を記したくだりだ。
酔いを「頭蓋骨の内側をこすりながら」広がる渦に喩えた比喩の巧みさ、「おまえ、ちょっと押さえてくれないか」あたりの落語的な「間」のユーモア、引用部末尾の感情表現の絶妙さ……わずか数行の間に、高度な技術がいくつも駆使されている。
しかも、難解な言葉や紋切り型の表現は1つも使われておらず、文章のリズムは軽快で、読みやすく、かつ独創的だ。
この『水のように笑う』というエッセイ集を私はくり返し愛読しており、手元にある単行本は手垢で黒くなっている。
ここに引用した「グラスに溶かした思い出」はわけても名編であり、あちこちに傍線が引いてあり、暗記するくらい読み返している。