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久保田万太郎、あるいは悪漢の涙

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今となっては、俳人としての名が高いけれど、久保田万太郎は、演劇評論家としてそのキャリアをはじめて、小説家、劇作家、演出家として昭和の演劇界に君臨する存在になりました。通して読むと…
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#浅草

市外日暮里渡邊町筑波臺一○三二番地(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十四回)

 関東大震災に遭い、北三筋町の家を焼け出され、牛込區南榎町に仮寓。  大正十二年十一月には市外日暮里渡邊町筑波臺一○三二番地に家を持ち、妻京、大正十年に生まれた長男耕一とともに、はじめて親子三人の生活に入った。  万太郎三十四歳の秋である。 「そこに移ったのは六月の末の、七月から八月にかけて、その年、いつもより暑さのきびしかったにかゝわらず、わたしはいうまでもない、女房も、子供も、決して、東京を見捨てなかった。それほどわたしたちは、この家の、廊下を取卷いたその庭の広さをよろ

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文学者になったのも、失恋も、結婚も、うちを持ったのもなりゆき(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十三回)

 取引先や職人が頻繁に出入りする商家で、跡継ぎでもない総領息子の居場所はない。  まして、経済力もなく二階に間借りするようなかたちで、花柳界から嫁にきた京の肩身の狭さは容易に想像がつく。  奉公人のいる商家では、夫婦水入らずの時間は、ほとんどなかったろう。

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秋風や水に落ちたる空のいろ (久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十二回)

 大正十二年九月、浅草で震災にあひたるあと、本郷駒込の樓紅亭に立退き、半月あまりをすごす、諸事、夢のごとく去る。  秋風や水に落ちたる空のいろ  関東大震災が東京を襲う。  駒形町から転居した北三筋町の家も焼け出される。  天災は、人の人生を大きく揺るがすばかりか、価値観を転倒させかねない。  東京市役所編『東京震災録 前輯(ぜんしゆう)』によれば、9月1日午前11時58分、関東地方南部 を襲った大震災の被災者は、約340万人に及んだ。死者9万1344人、行方不明1万3

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妹を失つた。祖母にわかれた。恋愛に失敗した。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十九回)

 万太郎は『かれは』(昭和三年一月、『新潮』)のなかで、「暗黒の時代」について、次のように書き記している。 「二十六の春から三十の秋までかれは暗黒(旧字)時代をすごした。かれはその五年のあひだにあつて妹を失つた。祖母にわかれた。恋愛に失敗した。不測の病をえて死にはぐつた。火事にあつてまるやけになつた。」  大正七年二月、三筋町の家を焼け出されて禄郎を頼ったことは、既に鏡花の章でふれた。  翌、三月、当時、明治生命大阪支店に勤務していた水上瀧太郎を訪ねている。瀧太郎の小説『

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二十六七の時分、わたくしは、わけもなく日の光をきらつた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十九回)

 この年の十二月、演劇研究のために小山内薫は、シベリアを経てヨーロッパに向かう。出発前には、土曜劇場主催の送別演劇が行われた。 「『土曜劇場』を全くじぶんのものとして愛していた。西洋から帰ったら、一つあいつを自分の思うとおりなものにしてやろうと思っていた。」(小山内「新劇復興のために」)  が、旅先のパリの大使館で受け取った手紙には、土曜劇場の瓦解が報告されていた。  指導者不在のあいだ、ストリンドベリ『父』やイプセン『鴨』の上演が好評をもって迎えられ、有頂天になったあげ

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いつの日かまた、じぶんの戯曲が舞台にのるときがくるのだろうか。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十八回)

 ある日、慶應大学で小山内薫は万太郎に声をかけた。 「『暮れがた』をやらしてもらうかもしれないぜ」  万太郎は本気にせず、 「どうぞよろしく」 といい加減な返事を返した。    それからしばらくすると、連絡があり、田原町の生家の二階で、女形の市川貞次郎が連れだって現れた主事の川村を迎えた。  世間話のあと、川村はスケッチブックを取りだし、「舞台をこうしようと思うのだが」と、大道具の見取り図まで書きはじめたのである。  明治四十五年三月に、小山内薫は、新派の俳優藤澤淺二郎が

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花柳界は、虚実のかけひきのなかで、恋愛を商品とする。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十七回)

 小島政次郎の『久保田万太郎』は、「まだ、対(たい、ルビ)で芸者と遊んだことのない私達は、芸者に対して一種異常な憧れを抱いていた。芸者といえば、荷風の相手であり、十五代目(市村)羽左衛門の相手であった。 そこに何かロマンティックな幻影を勝手に描いていた。」と、当時の文学青年が花柳界に抱いていた心情を語っている。  年若くして華やかなデビューを飾っただけに、万太郎には、実社会の経験もなく、生地浅草と家業の職人の生態のほかには、身をもって知る世界はない。  題材に窮した万太郎は

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浅草といふ興味多き特種の土地を描く。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十四回)

 明治四十五年 二月二十五日には籾山書店から、久保田万太郎、初の著作集『浅草』が上梓された。  跋は永井荷風である。跋もまた、あとがきに劣らず無愛想な顔をしている。 「旧来のやり方ならば序文や跋は要するに高尚な御世辞であつて、いやに遠回しに言葉たくみにその著者と著作の事を称賛して置きさへすればよかつたのである。否それが即序とか跋とか称するものであつたのだ。」  といわずものがなの前置きがまず、くる。  続いて、美点をあげるのは新進の作家にとって不利であると書き、ならば

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文学に志す以上は父と子の争ひをしなければならなかった。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十三回)

 七月、万太郎は徴兵検査を受ける。  旧徴兵令、旧兵役法は、兵役の適否を判定するため壮丁の体格、身上などの検査を定めている。  毎年、各徴兵区において満二十歳になったものは、検査を受けなければならない。  ただし、万太郎は文部省認可の慶応大学に在学していたために「徴兵ヲ延期」することができたが、六月猶予期限が切れかけたので、ここで一種の賭に踏み切った。  徴兵検査は、その体格に応じて、甲種・乙種・丙種・丁種・戊(ぼ)種に区分され、甲・乙種が現役に適する者、丙種が国民兵役に適

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源之助わすれじの萩植ゑにけり(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第九回)

 明治四十二年、慶應普通部卒業。  父親は否応なしにすぐ店で働かせようと思っている。万太郎もまた、仕方ないと自分でも諦めていた。しかし、卒業間ぎわになると、周囲は騒がしくなる。  ある者は高等学校へ、あるものは、高等商業へ行く。  黙ってそれを聞いているのは辛く、高等工業ならば図案科に入ればまんざら店の仕事と縁のないこともない。父のお許しがでないとも限らないと考えた。 「しかし祖母(としより)や阿母(おふくろ)はさうとは考ひぇやいたしません。何処までも真面目に、上の学校へつ

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脳裏に焼き付いたのは、『三人吉三』のお嬢吉三(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第六回)

 明治三十六年、十三才になった万太郎は高等科四年を卒業し、四月、父親の反対を押し切って、祖母の口添えにより本所錦絲堀にある東京府立三中(現在の両国高校)に入学している。  日清戦争後の国威高揚と人づくりを図る政府は、中学校の充実にちからを入れた。府立三中は、明治三十四年、京橋区築地にあった府立第一中学校分校を改め、創立された。  のちには下町の名門校とされ、一年上に後藤末雄がおり、二年遅れて芥川龍之介が入ってきた。芥川龍之介とは、府立三中、在校時に交友はない。  十二、三

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くッきりと、影あざやかに「夏」の極印。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第五回)

 祖母が万太郎に教えたのは芝居見物ばかりではない。  孫を供に連れての寺参りを欠かさなかった。  五日は水天宮さま、十日が金比羅さま、二十八日が不動さま。月づきの決まった日にお参りを重ねた。  そればかりではない。花見、潮干狩り、夷講(えびすこう)が、身近な年中行事としてあった。  それに加えて、浅草には祭りがある。三社祭である。 「そして、三社さまのおまつりのうはさがきこえはじめて、その水の匂は日に日に濃くなつた。そして十六日の宵宮、はやくも明日を待ちかねてのうき立つは

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遊びといえば、「芝居ごっこ」の立ち回り(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四回)

 祖父萬蔵は、万太郎が七つの歳に亡くなったが、すべてのことに影になり、日向になり心を配ってくれた祖母千代は、万太郎二十九歳の秋まで健在だった。  祖母は、「いへば男まさりの、料簡のしつかりした、ときにつむじを曲げると随分皮肉なこともやり兼ねなかつた人でした。----そのくせものゝいたはりもあれば、人付合いもよく、華奢つ気でしたから始終外をであるいていた」(『秋のこゝろ』)。  出歩く先は、まず第一に芝居と決まっていた。 歌舞伎座、明治座はもちろんのこと、手近の浅草座、常磐座

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茶屋へゆくわたりの雪や初芝居 (久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三回)

 万太郎は、明治二十二年(一八八九)、十一月七日、東京市浅草区田原町三丁目十番地に生まれた。  自筆年譜には、 「父は勘五郎、母はふさ。一人の兄、一人の姉があつたさうだが、ともに早世、名まへも知らない。祖父、萬蔵の代より、袋物製造販売を業とした。」 とある。  父、二十八歳。母、二十一歳。ふたりのあいだに万太郎が生まれたとき、祖父萬蔵は、五十八歳、祖母千代は四十五歳で健在だった。萬蔵夫婦は子供に恵まれず、千代の姪ふさに婿をとり、勘五郎とともに夫婦養子として家業を託した。

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