市外日暮里渡邊町筑波臺一○三二番地(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十四回)
関東大震災に遭い、北三筋町の家を焼け出され、牛込區南榎町に仮寓。
大正十二年十一月には市外日暮里渡邊町筑波臺一○三二番地に家を持ち、妻京、大正十年に生まれた長男耕一とともに、はじめて親子三人の生活に入った。
万太郎三十四歳の秋である。
「そこに移ったのは六月の末の、七月から八月にかけて、その年、いつもより暑さのきびしかったにかゝわらず、わたしはいうまでもない、女房も、子供も、決して、東京を見捨てなかった。それほどわたしたちは、この家の、廊下を取卷いたその庭の広さをよろこんだ。真っ青な芝生、茂り交した老木、高い崖の上という何よりの強みの、遠く、自由に、本郷台を一と目にすることの出来るほしいまゝな眺め。・・・・・・町育ちのわたしたちにとっては、みるものすべてがたゞめずらしかつた。・・・・・・ことに、夕方、下りそめたうす暗の、水のように、町々の灯影をあくまでしづかにしづめたその眺めは、遠くもわれは来つるかな、そうした心弱さ、泪ぐましさをさえ私に与えた。」(「週刊朝日」昭和六年十月)
下町には緑が乏しい。路地の鉢植えを仕舞た屋の周囲に所狭しと並べるその風景は、今も浅草や佃のあたりへ行けば残っている。
そんな環境のなかで育った万太郎夫婦にとって、芝生、老木のある庭は、途方もない贅沢に見えたろう。
しかも、高台にある家は本郷台を見下ろす。東に足を向ければ、万太郎が生まれ育った町も望むことができた。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。