脳裏に焼き付いたのは、『三人吉三』のお嬢吉三(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第六回)
明治三十六年、十三才になった万太郎は高等科四年を卒業し、四月、父親の反対を押し切って、祖母の口添えにより本所錦絲堀にある東京府立三中(現在の両国高校)に入学している。
日清戦争後の国威高揚と人づくりを図る政府は、中学校の充実にちからを入れた。府立三中は、明治三十四年、京橋区築地にあった府立第一中学校分校を改め、創立された。
のちには下町の名門校とされ、一年上に後藤末雄がおり、二年遅れて芥川龍之介が入ってきた。芥川龍之介とは、府立三中、在校時に交友はない。
十二、三歳になると、万太郎は小説を読むこと、芝居を見ることを禁じられた。
父勘五郎は、家業の跡継ぎとして長男を見ていた。
当時としては、当然の成り行きである。
店の若旦那が芝居にうつつをぬかす風流人では、商売がたちいかなくなる。父親は、万太郎の小説や芝居への惑溺が、案じられたのだろう。
祖母は代わりに、妹を連れてでるようになった。
「『おばァさんがあまいから……』
かなりあとまで、わたしは、親たちからさういはれました。----さういはれると、わたしは、冷たい秋かぜの身うちをめぐるのをつねに感じました。」(万太郎『秋のこゝろ』)
以来、万太郎は、ひとりで宮戸座や常磐座に通うようになる。
これまでのように桟敷や平土間ではない。立見である。
現在も歌舞伎座にかろうじ残っているが、舞台からもっとも遠い二階奥に「大入場(おおいりば)」と呼ばれるに立見があり、万太郎は小遣いをやりくりしての芝居見物をじぶんの意志ではじめた。すでに芝居の虜になっていたのである。
その頃の宮戸座の立見を描いた小説に、永井荷風の『すみだ川』がある。
「長吉はいかほど暖かい日和(ひより)でも歩いているとさすがにまだ立春になったばかりの事とて暫(しばら)くの間寒い風をよける処をと思い出した矢先(やさき)、芝居の絵看板を見て、そのまま狭い立見(たちみ)の戸口へと進み寄った。
内(うち)へ這入(はい)ると足場の悪い梯子段(はしごだん)が立っていて、その中(なか)ほどから曲るあたりはもう薄暗く、臭い生暖(なまあたた)かい人込(ひとごみ)の温気(うんき)がなお更暗い上の方から吹き下りて来る。
頻(しきり)に役者の名を呼ぶ掛声(かけごえ)が聞える。それを聞くと長吉は都会育ちの観劇者ばかりが経験する特種(とくしゅ)の快感と特種(とくしゅ)の熱情とを覚えた。」
絵看板、狭い戸口、足場の悪い梯子段、薄暗い立見、小芝居の細部が、荷風の筆によって再現されている。
「都会育ちの観劇者ばかりが経験する特種(とくしゅ)の快感と特種(とくしゅ)の熱情」。
それは、長吉のみならず、宮戸座の立見に通った万太郎を満たした思いだったろう。万太郎は、荷風の小説の中にじぶんの分身を見出したのである。
天井桟敷から見た宮戸座の舞台の中心で見得を切っていたのは、「田圃の太夫」と呼ばれた四代目澤村源之助であった。
万太郎が書いた唯一のまとまった俳優論は、源之助についてなのである。
遠く鳴る拍子木。源之助は、明治三十七年五月からは、宮戸座に毎月出演し、座頭として君臨する。市川鬼丸(のちの尾上多賀之丞)、尾上菊四郎、大阪からきた嵐芳三郎とともに、顔ぶれとしてはさびしいが、大芝居とは傾向の異なる演目を売り物としていた。
四代目澤村源之助は、三代目澤村田之助の当たり藝を受け継ぎ、「切られお富」「女定九郎」のような毒婦や伝法肌の女性を得意とした女形である。
立役もかね、若衆姿もよかった。四代目源之助は、安政六年生まれ。屋号は「紀伊國屋」。定紋は、丸にいの字。俳名は、はじめ「秋香」のちに「青岳」と改めた。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。