源之助わすれじの萩植ゑにけり(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第九回)
明治四十二年、慶應普通部卒業。
父親は否応なしにすぐ店で働かせようと思っている。万太郎もまた、仕方ないと自分でも諦めていた。しかし、卒業間ぎわになると、周囲は騒がしくなる。
ある者は高等学校へ、あるものは、高等商業へ行く。
黙ってそれを聞いているのは辛く、高等工業ならば図案科に入ればまんざら店の仕事と縁のないこともない。父のお許しがでないとも限らないと考えた。
「しかし祖母(としより)や阿母(おふくろ)はさうとは考ひぇやいたしません。何処までも真面目に、上の学校へつゞいて行きたいと思つてゐるものとばかり考へて、手をかへ品をかへいろいろに親父を説得して呉れました。勿論親父はなかなか承知しや致しません。(中略)一寸(ちよつと)事が面倒になりかけて来たので、親父も仕方なくなつて、ぢやあもう一二年何でも勝手なやうにしたらいゝだらうといふことになつたのでございます。」(万太郎「半生」大正十二年 発表誌未詳)。
当時、中学で上位何番までに入れば、高等学校、高等工業に無試験で入れた。
安心していた万太郎は、肝心のときに、その枠より下に成績が下がる。
もとより試験を受けるつもりなどない。そこで早速高等工業は取り消しにして、慶應大学にそのまま入ったというのが、進学の成り行きである。
慶應の"文科"は、当時弱体であり、文学をやるならば、早稲田大学にいけと仲間はすすめてくれた。
「が、こつちにすると、ほんきで文学をやるつもりはなく、徴兵猶予の切れるまでの期間を、たゞすこしでも、好きな道でみちくさが喰いたかつたからである。」(万太郎「明治二十二年ーーー昭和三十三年・・・・・」)
万太郎は既に十九歳になっていた。が、この文章からも、日本の近代文学の中心を形成していく国家、父への反抗の主題は認められない。
予科進学を望んではいても、父との全面的な対立には至らない。ただ、黙って流れに任せ、千代のような周囲の理解者が、後押しをしてくれるのを待っている。
この時点では、万太郎にも、家業をつぶすつもりはなかった。進学は、ただの「みちくさ」のはずだったのである。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。