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「心」の正体

『妙法蓮華経』の『二十八品一覧法華経』の内の第4に「信解品(しんげほん)」というものがあります。

そしてその中に「長者窮子(ちょうじゃぐうし)の喩え(たとえ)」というお話があります。

これは『法華経』の中でも非常に有名な話にもなりますね。

今回は少しその話にちなんだ、ゆったりとしたお話を差し上げたいと思います。


生まれた家に戻ってくる

昔インドに、非常に裕福な子供がいました。

その子供はある出先で両親と離れ離れになってしまいました。

探し歩いてももう両親は見つからない。

同様に、親からしても子供を探し歩いても自分の子供が見つからない。

親子は離れ離れになってしまったんです。

残されたその小さな子供はやはり生きて行かなければなりませんので、引き続き色々な所を親を探しにさまよい歩きます。

その中で色々な家に行って「食事」をめぐんでもらったり「お金」をいただいたりして何とか生きていたんですね。

そしてとうとう最後には「乞食」になってしまいます。

それ以降も色々なところでもらい歩いての生活をしていくのですが、その中である日非常に豊かな「長者の建物」にもやってくることができたんです。

ウハウハですね。

その時、子供は気付いていなかったのですが、その家が実は「自分の生家」だったんですね。

子供は自分の生家の門前に立ったんです。

家の中からその様子を見ていたその子供の父親は「あそこに立っているのは私の子供ではないか?」と、そう不思議と思うんですね。

やはり両親には自分の産んだ子供だということが分かるんです。

そしてその事が事実だと気づき、親はその子供を追いかけました。しかし乞食の子供は恐ろしがって逃げてしまうんですね。

それでも何とかその子供を捕まることができたんです。

その長者の家にはその子供以外にも養子が沢山おったのでしょう。

その養子たちに決してバレないように、その長者の豊かな家の小僧の一人として実の子供でもある、その子を雇って働かせるんですね。

そして色々な仕事を覚えさせていった。

遂にその子供は、その長者の家の番頭にまでなった。

いよいよ両親ももう余命が長くないというところまで来たので、最後に「実はお前は私の本当の子供である。ここにある我が家の財産はすべてお前に授ける」。

こう告げるんです。

このような「長者窮子(ちょうじゃぐうし)の喩え(たとえ)」という昔のお話があるんですね。

奇なるかな、我と大地と有情と同時成道

これは一体何を意味しているのか?

勿論これは『法華経』の中にある一つの例え話になりますが、ここでいう長者さんというのは「お釈迦様」のことを指しておるわけです。

そして離れ離れになった迷い子というのは「我々」の事を指しているんですね。

そこで今回の『普勧坐禅儀』の内容に戻りますが、「他国の塵境に去来している」のは、「我々」であるという事なんですね。

この『妙法蓮華経』の『信解品』のお話の中で、あちこちさまよい歩いているのが実は「我々」で、その我々に対してお釈迦様が「お前は我が子である、私の財産はすべてお前に授ける」と言われているんですね。

奇なるかな、我と大地と有情と同時成道

お釈迦様は今から2000年以上も前に、この言葉を残しお悟りをひらきました。

かの「苦行林」を抜け出した後は、「ブッダガヤ」の菩提樹の元で3週間にも及ぶ静かな「坐禅」をされ、そして最後に明けの明星をご覧になってお釈迦様はお悟りを開いたと言われております。

その時に、

奇なるかな、我と大地と有情と同時成道

とおっしゃたのはあまりにも有名な話ですね。

「不思議だな、大地も私の思いもみんな一緒に救われている」と言われたわけです。

そしてそこから「仏教」が始まったわけです。

満ち足りない思いというものを現代において、誰しもが抱えております。

昔もそうだったことでしょう。

とてもじゃないですがこのお釈迦様が言う様に「みんな救われている」なんていう風には思えないのが現実です。

それでは何故お釈迦様は救われていると思ったのか?

それはこの「心」の正体を考えようとした時にわかってきます。

「心」というのは常に何かを探し求めているんですね。不安だったり、楽しみだったり。「心」というのは常に不安定なんです。

そしてそのように「心」が何かを探し求める状態というのは、「水の中で喉が渇いた」と言っているのと同じことだと言うんですね。

つまりそのように「満ち足りない」状態こそが「心」の本来の正体であるというのです。それでいいと言われるわけですね。お釈迦さまは。

常にそのような満ち足りない「心」であるにもかかわらず、それが心の正体であるにもかかわらず、その「心」で「幸せ」を求めようとしているからいつまでたっても「幸せ」を手にすることはできないと言われるわけですね。

そのままでいいんです。心は。いつまで経っても様々でいい。不安なままでいいというわけです。

そしてお釈迦様が言う「救い」というのはその満ち足りない「心」も含んだ一切が救われる状態のことです。

しかし救いとは、何か?

それは頑張って掴もうとしなくてもいい。そのような心を含めた、我々の目の前に展開する一切のものは、ありのままの姿を現成しているからからです。

「心」であれば満ち足りていないのが正常な状態で、それがありのままの「姿」でありましょう。

「木々」であれば風に吹かれて葉を揺らしていることでしょう。

我々の「身体」だってそうです。

歳月を重ねれば歳を取り、いずれは朽ち果てる。

これら全てが紛れもない「真実」の状態ですね。そしてそれらは常に真実むき出しです。どこにいても真実むき出しです。

この世の全てはこうして真実を展開している。それをお釈迦さまはお救いだと言われたわけです。

そのことをお釈迦様は「奇なるかな、我と大地と有情と同時成道」とおっしゃたんですね。

全ては「救い」の中にあり、ありのままの真実を現成していると。

救われなくていい。心もいつまで経ってもバタバタしていていい。未熟なままでいい。そのように迷っている間こそが何よりも救われていた証だということです。

誰一人絶対にあぶれることのない救いの中に我々は今こうして生きているわけですね。そしてこれからも生きていけるわけです。

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