ミケランジェロゆかりの場所を訪れました①
今回の記事は、私にとってお待ちかねの、ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)についてです😆。
もう一生行くことはないだろうと思っていたローマやフィレンツェでしたが、フィレンツェの「ミケランジェロの隠れ部屋(Stanza Segreta di Michelangelo)」というこれまで未公開だったところが、期間・人数限定で鑑賞できることになり、そのチケットが取れたため、7月(2024年)に行くことが出来ました。
この記事はその隠れ部屋以外の、フィレンツェなどのミケランジェロにまつわる写真が主ですが、順番をどうしようかで迷いました。
大きく分けて、本人の辿った履歴…作品などの年代順か、私が行った訪問順か…書籍などを鑑みるとやはり年代順が一般的なのかなと思い、そうすることにしました。
私が訪れた美術館や博物館などを纏めてアップした写真の中に、年代を調べながら別のものを挿入してみました。
もっと効率的で写真のサイズを変えるなど、見やすいやり方があるのかもわかりませんが、その方法がわからなくて……編集の手間もあり、また作品の年代って書籍によって相違することも多く💧所々違和感ありましたら、お許しください。
~1492年頃までの作品 ブオナローティ邸など
まず、カーサ・ブオナローティ(ブオナローティ邸)から紹介しましょう。
こちらはミケランジェロの甥のリオナルドが住み、リオナルドの息子のミケランジェロ・イル・ジョヴァーネが改装して今の建物の形になったと言われていますが、もとはミケランジェロがここの一帯を何件か購入し、工房や弟子たちの部屋にも使っていたとされます。
詳細は資料によって相違があるかもしれませんが、私の創作では(自分の都合に合わせた説を導入)、ここをミケランジェロの住まい兼工房としています。
未だ想像の世界なので、内外含め家の構造は曖昧。だから後世に改装されたとはいえ、現場をしっかり見て来ました(ちゃんと生かせるかなあ…(;'∀')。
上の絵は、ピッテイ宮殿内にあるフレスコ画です。
宮殿内の「王の宝物庫」(旧銀器博物館)にある壁画ですね。
私は今回ピッティ宮には足を運べなかったので、過去に買った絵葉書を載せましたが、この絵、とても好きです♡
上の作品はミケランジェロの初期作で有名ですが、ケンタウルスって下半身は馬なんですね。ミケランジェロは当時、馬を描いたり作ったりが出来なかったので、ここではごまかしているということを、昔カルチャーセンターの講義で知りました。晩年には馬の絵も描いてますけどね。
それにしても17歳くらいでこんなレリーフが作れるなんて、不器用で美術の成績も悪かった私からすると😂いつ見てもすごいわとしか、言いようがないのですが。
実はカーサ・ブオナローティ蔵で有名な、ミケランジェロの初期の作品「階段の聖母」の写真が見当たらないので、載せることも出来ませんでした…😭
「ケンタウルスの戦い」の横に展示してあった記憶があるのです……写真撮り忘れちゃったのかなあ…ケンタウルスの戦いは何枚も撮って、しかも帰りがけ引き返してまた撮っているのに、階段の聖母が全くない😭
撮ったつもりでずっといたから、気づいた時のショックも大きくて。
もしかしたら勘違いで、階段の聖母は展示されてなかった!?とか、いろいろ考えてしまい、写真、ビデオを色々吟味してしまいました。すると…
あ~、確かにある!!映ってる!!ってのがわかりました😂
やっぱり見た記憶が正しくて、この部屋何回も入ったのに、(他の方もいらしたなどで)写真を撮るのを忘れてしまっていたのです。
フィレンツェにはもう行くことはないと思っていたけど、これの写真を撮りにまた行きたくなったりして😂
眼にしっかり納めていた記憶が正しかったのはホッとしたけど、撮影禁止じゃなかったのに、撮り忘れたのは少し残念でしたね。
写真は本を開けばたくさん見れ、サイズも書いてあるのですが、実物はとても大きくて、それだけでも感動ものでした。
「階段の聖母」だけでも日本に来てくれないかな…過去来てくれたことありましたっけ?
また20年ほど前にカーサ・ブオナローティを訪れた時は、「レダ」の模写があちらこちらに飾られていたのですが、今回それが1枚もなかったので残念。模写とはいえ、好きだったのに~!!弟子のアントニオ・ミーニがモデルだって言われているのです😊。
ミケランジェロが描いたそのオリジナルのレダは、フランスで後世になって焼却されてしまったのが悲しい😭
↓ロッソ・フィオレンティーノの模写が有名です。
1497-1520年頃の作品 ローマ-フィレンツェを行き来していた頃
ミケランジェロが20-40代の頃の作品などを纏めました。
ご覧くださいませ。
ローマのシスティーナ礼拝堂は、以前にも申しましたが撮影禁止でしたので、残念ながらここに天井画(1508-1502年)などを載せることが出来ません。
↑検索したら画像がありました。「ティティオス」1533年ごろ
ミケランジェロがカヴァリエリにあげたデッサンの一枚です。
他の記事でも述べましたが、この「復活のキリスト」や「ピエタ」が1527年のローマ劫掠で破壊されず、無事で良かったです。
この事件に触れてしまうと「何より無防備な市民や聖職者への攻撃、暴力をやめて欲しかった」となってしまうのですが…。
1521頃ー1534年 フィレンツェを生涯去るまでの作品
フィレンツェのアカデミア美術館に戻りますが、ダヴィデ像に行く途中に、未完成の「囚われ人」の像が、通路の両側に並んでいました。どれもユリウス2世の墓碑に備え付ける予定のものだったのですよね。
ところで、ここは(想像通り)すごい人でした!
ウフィツィ美術館は後日、朝行けば窓口が空いていて、予約なしでもスムーズに入れましたが、アカデミアは予約して正解。予約も午前中はいっぱいで取れませんでした。
ミケランジェロは結局「ヘラクレスとカクス」を制作できず、バッチョ・バンディネッリ(1493-1560)による同じテーマのものが、現在はヴェッキオ宮殿正面に置かれています。
ミケランジェロの模型と比べちゃうと、突っ立ってるだけ⁉とも見えてしまい、またダヴィデと並んでいることもあり酷評も多いらしいですが、単独で見ると悪くはないと思います。
バンディネッリのことは、G.ヴァザーリが列伝の中で批判的に書いていることも影響しているようですね(ミケランジェロほどではないですが、この人の伝記も長いので、いつか読みます)。
「ヘラクレスとカクス」が中断してしまった理由は、サッコ・ディ・ローマの後、皇帝軍と教皇軍が手を組んでフィレンツェに侵略して来たので(フィレンツェ包囲戦)、その防衛で忙しくなってしまったからなのですが、ミケランジェロの任務の一つにサン・ミニアートの丘(現在ミケランジェロ広場がある方向)に要塞を造ろうとしていたとのこと。
でもそれも実現されませんでした(設計図のデッサンは残存していますが、当時どういう状況だったのか、映像的なイメージが湧かないので、私の創作の中でもごまかしています💧)
サン・ロレンツォ教会のファザードは手つかずで終わってしまったのですが、教会に接しているメディチ家礼拝堂の新聖具室の墓碑は、ミケランジェロによるものです。
手は付けたけど、全体としては未完のままになっている状態だということですが…。
彫刻の一つ一つを見れば、やはり素晴らしいですね。
私が一番好きな理由は、「夜」の顔が一番女性的で綺麗に見えるからなのですが、確かに上記のように、体格は男性的ですね、そこが良いと言えばそうなのだけど。
あと他の著書では、ミケランジェロがこの礼拝堂の彫刻の中では、一番丹念に時間をかけて作成したとも記されていました。
少し話飛びますが、上記「ミケランジェロは、自らの同性愛に強い罪の意識を抱いていて…」とあり、他にも同じように述べられている著書も多いのですが、それにしてはこの人、自分の恋愛感情を人に言いふらしているのですが😂。
それに関しては、次の記事で触れる予定です。
ヴェッキオ宮殿の写真の説明で少し触れましたが、1530年のフィレンツェ包囲戦でフィレンツェ共和国が降伏しました。
その際、ミケランジェロが逮捕・死罪から逃れようとして隠れていたとされるのが、上のStanza Segreta di Michelangeloです。
私の第一目的は、ここを見るための旅行だったので、予定通り見学出来たのだから、それだけでも満足しないと、ですね😄
人数・期間限定で今年(2024年)迄公開中、現時点で未だ空きがあることを前回投稿しましたが、今も確認したら12月の平日に少し空きがあるようです。よろしければリンク張っておきます。
⬇
https://www.b-ticket.com/b-Ticket/uffizi/?_ga=2.68613078.679461618.1699420559-989257813.1699275343
この部屋の特集記事は、次回投稿します。
そして私が一番好きな彫刻が、ローマのピエタと、下の像です💛(#^.^#)
ピエタは修繕で鑑賞出来なかったので、せめてこれを目にすることが出来たことに感謝です!
制作年が資料によっては、1530年頃というのもあるのですが、モデルがミケランジェロが惚れたトマソ・カヴァリエリか否かにこだわると、完成年が気になるところですね。そうだとする研究者は、必ず上記の年代にしてありますね、出会い(1532年)からの計算が合わなくなるので。私の個人的なイメージでは、この顔は弟子のウルビーノ(アントニオ・ミーニの後に着任)なのですが。
ちなみにカヴァリエリとの出会いもあって、ミケランジェロはこの像をフィレンツェに残したまま、終の棲家がローマになります。
理由はそれだけじゃなくて、やはり共和国の崩壊と、その後の色々でしょうね。
そのドラマは、いずれ自分の創作の中で述べていくつもりですが…難しいのでいつになるか、うまく作れるかですが…。
1536年頃 ヴィットリア・コロンナとの交流の場
ミケランジェロが唯一親しかった女性、侯爵夫人(未亡人)ヴィットリア・コロンナ(1497-1547)と知り合ったのが1535、6年頃となっていますが(トマソの紹介だったという説もあり)、ミケランジェロに関する書籍を読むと、ヴィットリアさんがローマで暮らしていたのは「サン・シルヴェストロの修道院」とか、2人が交流をしていた場所は「サン・シルヴェストロの教会」と記載されていたので、訪れたくてもそれがどこにあるのか、ずっとわかりませんでした。
スペイン広場の近くに、サン・シルヴェストロ広場(中央郵便局の傍)というところがあり、その辺りなのかと、過去探し回ったこともありました😅
2人の交流場だったところは、今はもう存在しないのかなと、諦め忘れかけていたのですが、思わぬところで判明しました。
「ローマ劫掠」のことを調べるために購入した、「ローマ劫掠 1527年、聖都の悲劇」(A.シャステル著)に記載されていたのです。
この文章をたまたま目にするまで、この「サン・シルヴェストロ・アル・クイリナーレ教会」の正式名称もわからなかったし、以前にローマに来たのはスマホもなかった時代。
残念ながら、ここは日曜日の午前中しか公開されておらず、それがわかったのは、もう自分の旅行の日程を決めてしまった後で、日曜日は重なりませんでした。
ダメもとで、平日や、土曜日の午前中に足を運んだりもしたのですが、やはり入口は閉ざされていたので、正面の写真だけ撮りました。
ここ、バスで何度も通った道沿いだったのですよね……。
これまで何度もローマを訪れ、日曜日に重なった時もあったはず。素通りしてたことを思うと、もっと早くわかっていればと、やはり悔やまれましたね。
サン・シルヴェストロ・アル・クィリナーレ教会 - Google マップ
Googleの口コミや写真を見ると現在この教会の内部は、バロック以降の装飾で占められているようですが、ミケランジェロとヴィットリアとの交流の場だったこと、ご存じの方も結構いらっしゃいますね。
出来ればミケランジェロたちが訪れていた時の内部が残されていたら、写真で良いから目にしたかったのですが、これもウルバーノ・バロッコ(バロック時代の建設ラッシュで、中世からの建物の多くが消滅。ローマ劫掠による破壊の影響もあると推測される)の一つでしょうか。
ヴィットリア・コロンナさんは詩人として有名ですが、どんな方だったのか調べていくと、カトリックとプロテスタント(ルター派)の和解、融合に努める活動をされていたとか。
凄い立派な方だったのだなと思いましたが、晩年、亡くなるころは弾圧に遭い、宗教裁判にかけられたり、悲惨な状況だったようですね。
立派なことをされていたし、コロンナ家というと、今でも邸宅がローマにある名家なのに何故!?という疑問が心に残っていました。
そしてnoteを始めて、ミケランジェロの創作をしていくにあたり、この時代のローマの歴史のことを調べて行くと、コロンナ家は当時かなり勢力も強く、時の教皇と対立関係にあったということがわかりました。
1527年のローマ劫掠の要因の一つにもコロンナ家が関わり、ローマを破壊した神聖ローマ帝国の皇帝側に付いていました。
さすがにサッコ・ディ・ローマでは、想像を絶する程破壊されたローマを目にし、対立していたコロンナ家の枢機卿は涙を流し、教皇と和解したとのこと。
しかしその後も度々対立があったようで、サッコ・ディ・ローマの30年後にはまた政情不安になり、皇帝軍のスペイン兵がローマに侵攻して来る羽目になるのですが、それにもコロンナ家が絡んでいるようです。
ちなみにこの時ヴィットリアさんはとっくに亡くなっていて、80代になったミケランジェロは、若い弟子だけ連れてローマから逃亡、スポレートに落ち延びてます(こいつ自分だけ助かりゃいいと思ってるんだな。彼はどうしたんだ⁉彼は💢)。
話を戻しますが、当時のプロテスタントへの弾圧の他、そういった血筋のこともあったのかなと…推測ですけどね。
でも、ミケランジェロと親しくされていた頃は、ここで聖書や芸術のことを論じあったりして、穏やかに過ごされていたようです。
束の間かもしれないけど、そういう平和な時期があったと伝記では述べられています。
ミケランジェロの作品については、ほぼここで取り上げました。
今後はフィレンツェの「ミケランジェロの隠れ部屋」、そして少し残っている晩年の作品の写真と、ちらりと述べたスポレートへの逃亡劇(想像含む)を取り上げようかと思っています。
こうやって物価高と円安の中(7月は特に円安でした)、何とか格安で済ませようとし、それでも好きなところに好きなように行けたのですが、他の方の記事にもありましたけど、そういう形式で海外に行くは良いけど、ハプニングも付きものでしたね、ストライキとか、オーバーブッキングとか😂
挑戦と言ったら大げさでしょうが、私としては他に挑戦するようなことも、今は見当たらないし…あ、創作大賞は今年も応募したか。
初めてミケランジェロのドラマをイメージしたのは、20年以上前でしたね。現地へ行き作品を鑑賞したり、伝記や本人記載の手紙や文書、ミケランジェロに関する美術書などを目にしたりして、ぼんやりと断片的に色々なシーンが浮かんできました。
ずっと断片的なイメージから進歩せず、世に出す機会もなかったので、20年余り秘めたままだったのですが、昨年noteの創作大賞に応募する機会を得、今に至ります。
私の創作など、まだまだ未熟で選考に選ばれるとか、足元にも及びませんし自己満足だけかもしれませんが、自分の想像の世界が表に出せたこと、また旅行記なども投稿出来、フォロワーになっていただいたり、スキを付けていただいたのはもちろん、ご覧いただいた皆様には感謝いたします。
想定より長くなってしまいましたが、ここまでご覧いただき、ありがとうございました。