“I(アイ)”がない世界
「日本人ってさ、ほんと『わたしは』とかって主語に付けないよね」
そんな言葉を急に娘に発した学校帰りの道。
お気に入りのK-POPが流れるのをぼんやり聞きながら車を走らせる黄昏時のことだった。
ぼんやりとしかわからなくなった娘の顔をちらっと横目で見る。
意外にも娘はすぐに相槌をうった。
「やっぱ『主張の強いコ』とか『わがまま』って思われちゃうからじゃない?」
そんな相槌にもやっぱり主語はない。
ぼんやりと共通の認識のように話す。女子高生特有の連帯感か、共感能力の高さから若くして身につけた処世術のようだ。
「そうだね。でもわたしは『私は』ってつけることでみんなに意見を押し付けないことにもなると思うんだよね。個人的な意見っていうかさぁ・・・でもそっかぁ、それも『自己主張』ってとられちゃうかなぁ」
答えながら自分が必ずといっていいほど「わたしは」と言って話し始めることに改めて気づかされる。同時に「わがまま」のレッテルを貼られて育った記憶も甦る。
日本は「出る杭は打たれる」文化だ。協調性がない、自己主張が激しいはいかに長所としてアピールできようと現場では欠点でしかない…そんな日本の実情を踏まえての子育てだったのだろう。
「でもさ、それ昔からだよ。古文とかって主語なくない?」
僅かに回顧していた脳だが娘の言葉が更に飛躍させた。昔のレベルが違う。
娘が言うには古文など見ていると主語に当たるものがないらしい。
だから「主語はなにを指すか」なんて問題が出るのだという。
なるほど?
物語とか随筆だからじゃないの?などと言いながら、諳んじて言える作品も互いに多くはなく、話はなんとなくそこで終わった。
わたしの周りでも主語がない人はとても多い。
逆に主語をつける人は「自分は人と違う」「多数派ではない」というように自己を認識している人が多いように思う。
そうでなければここ一番というときに「わたしは」とつけて話すのだろう。
相談ごとを受けるのだが、なんとなく声を潜めて話すような内容の時にはひどいもので、自分だけでなく相手や関係者まで主語を省略してしまうものだから、話が進むうち流石に何が何やらわからなくなってくる。察するにも限界があるというものだ。
こんなことを思ったのはぼんやり聞いていたK-POPのせいだ。
英語は習ったけれど生きた英語を知らないし、韓国語も話せるわけではないけれど、主語が省略されているのを聞いた気がしない。
歌詞の中でも語感優先な世界だと思うけれどしっかり主語が入っている。
勿論翻訳された歌詞では主語はがっつり省略されている。
「わたしは」ということは自己主張なのかもしれない。でも自分に責任を負うことだと思う。
主語を省くことで、自分ではない大多数の意見のようにしてしまえる。
多数決で勝利が決まるかのように、正統派な意見のように装うこともできてしまう。
「わたしは」を付けないのに「あなたは」「それは」と対象を定義する。
わたしにはそれがとてもおこがましくて図々しい行為に思えてならない。だから極個人的な意見として、という気持ちで「わたしは」と言う。
わたしにとって主格「わたし=I」をつけるのは、ささやかな愛の表現なのだ。いつも精一杯の気持ちで「わたし」と言っているつもりなのだ。
勿論、「自分だけは違う」なんてエゴの表現にも使えてしまうけれどね。
でも「わたしは」と発言した分だけ間違っても正しくても関係なく、自分の責任をとれるということだ。
それは主語を省略することで誰からも自分を見えなくするよりも、より前向きに自分と向き合っている行為ともとることができる。
だったらそんなエゴの表現さえも愛おしいじゃないか?
わたしたちは人間だ。
少なくとも今は。
楽しんだり喜んだり、悲しんだり苦しんだり、泣くこと、笑うこと、そんなドラマを味わいたくてこの地球を選んで生まれてきた。
だったら正々堂々と迷えばいい。
正解も不正解もない。
たったひとつ、「自分でいること」がやるべきことなのだから。
他の誰も替わることのできないことなのだから、その場の一時的な視点での結果のために(それもまだ起きてもいない未来のために)「わたし」を殺さないで欲しい。
「わたし」として精一杯生き切る。
それがわたしからの提案。
ささやかながら「愛」を込めた提案です。
* * * * * * *
SSのつもりで書きだしたのですが、途中からセルフチャネリングになっていました。
慣れないことはするものじゃないな。
いや、してみるものというべきか。
ストーリーものを書こうとするなんて学生時代ぶりです。大目に見てやっていただけると笑顔が増えます。
今日もありがとうございました。