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不安障害になる大学生以前の話~高校3年生後編~とどめの悲劇~

ご無沙汰しています。 

                                 2021年も残すところ1ヶ月ほどですね。

今年は本当に大変でした。                      近況を書きますと、夏ごろに急な引っ越し、就活生まではいかないけど職場探し、加えて障害者手帳は3級から2級になってもおかしくない上に障害年金も受給するに値するとドクターから言われ心身ともに何かと忙しない日々を過ごしています。

更に、自分の身の丈もわきまえず買ってしまった新しいパソコンでこのnoteを書いてます。苦笑                           お金管理も結構得意なほうだと思っていましたが、大好きなブランドの服の納期・発送時期とこのパソコンを購入した時期がまさかの重なり、未だに働くことをドクターストップに近い状態を受けているにもかかわらず管理ミスに落ち込みました。                          ですがいずれは必ず必要となるものではあったので、正直MacBook系と迷いましたが、将来の色んなことを考えて今までお世話になってたパソコンの新し目のものを思いきって購入しました…!               なので貯金を切り崩しながら生活をしているわけですが、障害年金の受給に時間がかかることを思い出すと、自分のためにも1日でも早くやらないといけないなと焦っています。(これが投稿される時はすでに初診日の心療内科に郵送できました・一人でやったので褒めてほしい)

話を戻し、テーマに沿って大学受験のころに特化して振り返って書いていきます。

前回に限らず、今まで書いてきた内容と重複してしまう可能性がありますがそこはお許しください。

大学受験についてですが、私は本当に【私】を出せませんでした。

どういうことかというと自分がやりたいことが心の片隅にあったのに親の顔色や世間体みたいな、今でいう「他人軸」でかなり人生でも大事な局面に他人軸を【無意識】に従って受験を決めていました。

ただでさえ地元ではかなりの進学校だったので勉強や課題が尋常じゃなかったし、それに加えて3年の秋ごろまで部活をし、塾長(の念押しに負けてしまった自分が悪い)の情で続けてしまった塾。

すべてが悪かったとは思いませんが、もっと【私】を大事にすれば良かったと心から後悔しています。                      学年が上がるにつれて成績も下降。                  器用に色んなことができなかったことがもう書いていても虚しいし悲しくなります。

特に1年と3年の担任は、私には肌が合いませんでした。         1年は数学の先生ということもあり数学を中心に少しでも出来ない・・・とマイナスな発言をすればスパルタな言葉が飛んできました。

3年の担任は教える教科なだけあって字が綺麗だった。それくらい。   ほとんど覚えていないです。                     頭がいいクラスや学科の生徒にはかなり人気でした(私は1ミリも好感を持てなかったので吐き気がしますが)。  

3年の担任からの酷い言葉(とどめの悲劇①)             

唯一覚えているのは、職員室で1対1で話したときに「(blueのこの成績ではは国公立なんて無理だから)記念受験すれば?」と吐き捨てられたこと。 今でもその時言われた後の感情や風景は覚えています。         心の中は「なんなんこいつ・・・!怒」が2割、「あ、そうなんですね~(そんな感じなんですね、私って)」が8割。

上記のように分かるように、自分より目上の人の言葉は良くも悪くも【言いなり】でした。それは幼少期からの親に従うに通ずるものを感じます。しかも自己肯定感低い。その先生の言葉にブチ切れても良いくらいの言葉だと思いませんか?自分の担任してるクラスの一人に言う言葉かと、めちゃくちゃ腸まで煮えくり返りそうです。

三者面談もありましたが、それに近い言葉を担任は言ったはずなのに親は私の味方にはなってくれませんでした。本当に悲しかった、寂しかった。

偶然にも、私が歌うことが好きになったきっかけを作ってくれた合唱団の先生のお子さんと3年生で同じクラスだったんです!           そのお子さんは自分の夢のために国公立ではなく私の高校ではほとんど聞いたことない大学に行くことを目指していました。それをやはり担任は良く思わず、合唱団の先生に色々言ったらしいですが合唱団の先生は担任を黙らせるくらいそのお子さんの夢を全力で応援していてそれを担任に言いまくったら担任が黙ったそうです(笑)

それを聞いたのは私が体重が161センチで35㎏になってしまった2019年に故郷に帰ってきた時に、その先生と二人でお喋りしたときに言っていました。そんな合唱団の先生という心強い味方がいたからか、お子さんはいい感じに夢に向かっているそうです。

高校3年の時に中2の時のような症状が出始めた

実はあんまり細かくは覚えてないのですが、特に高3の大学受験の佳境に入っていた時期に私はよく授業中に体調が悪くなり、手がしびれたり、滅多にならない咳風邪が出たり。なので先生が授業しているのを遮ってまでも「気分が悪いので保健室に行って良いですか」と言っていました。

そしてよく保健室で自分の教室がある棟を眺めていました。視力が悪いことと、体調がしょっちゅう悪くなることもあり高3の後半は一番前もしくは前から2番目に席替えで毎回のように指定させてもらってました。

もうこの時からも大学生になり心療内科で診断名くらっていてもおかしくない状態にいました。そんな状態の中で以下のようなことを考えていたり、行動せざるを得ませんでした。

今思えば、大人の味方が居てくれなかった。  居てほしかった。

母親は自分の仕事の合間に、私がポツリと言った「この学科気になる」とか言った大学を検索していたとは言っていました。ですがお互いにじっくりとコミュニケーションとる暇がなかったので検索していたという事実を2019年くらいに聞きました(遅い)

固定記事にも貼っていますが、私は大学を2回経験しています。その2回目に入学した大学を休学しながらもなんとか2019年の9月にできました。前期試験が終わった後はもう完全燃焼した気分で、疲れとストレスで私が体重が161センチで30㎏台になってしまいました。

それが何でそこまで自分を追い詰めないと生きていけなかったのかは、じっくりにはなると思いますが書いていきますので「こん風な人もいるんだなあ」と思いながら読んでくださると嬉しいです。

高校三年生の時の私には「心から相談できる大人」が居ませんでした。

一般的には、親が一番の味方になってくれると思うのですが、今でも昔の話で思い切って打ち明けた時に「ごめんね。」よりも先に「本当に仕事で手がいっぱいいっぱいだったんだ。そんな中、育児もやっていたんだ。」みたいなニュアンスで言ってきた時は「自分の親なのに心から助けてと言うことを許されないんだ」と悟り、胸が苦しくなり心で泣きました。

行動では私のことを思ってやってくれてるのは伝わるときもありますが、いざ言葉にしてもらってるかと言われたら「?」でした。

父親からの酷い言葉(とどめの悲劇②)

前期受験は知らない土地に行くことになったので両親が有給休暇をとり、近くに居てくれましたが、前期が不合格のことが分かると特に父親が一変して「次はお前一人で行ってこい!」と怒鳴り散らし、「お前は俺の子じゃない」という感じの「こんな出来損ない、本当にお前は俺の子か?」みたいな感じで言われたときは今でもまだ信じられなくて。

言葉にできない何かが当時の私はベースに「親のロボット、お飾り」の人生だったのでそれを言われたあたりから親に対して不信感のようなものが生まれ、心に傷が残っています。

後期受験なんてもっと難易度が上がるのに私は確実に受かるところもリサーチせず前期と同じところを受けました。結果は前期と同じでした。

そんな国公立に、有名私立大にも受かるような頭では無かったことを後頭部から大きい金づちで打たれた感覚でした。

でも私は、少なからず18歳で入学した大学に魅力は感じていた。

結果、いくつか滑り止めで受けたうちの1つに通うことに決まりました。

その大学は故郷の私立大学で、高校生後半時期に大学説明会というものに友人と行ったときにその場所にいた教授だったか、事務の人だったか忘れましたが、そこの大学の説明がその会場に来ていた大学の中で唯一と言って良いほど聞いていて「ワクワク」しました。

だから、勉強を頑張る気持ちになれ切れなかった自分にも悪いところはありますが、ある種前期と後期に受けた大学の学科とほぼ一緒な上に頑張れば3つの教員免許が取得できるというところと環境問題系もかじれるということだったので浪人してまでもう高校までの勉強がしたくなかった私には、その大学に行くことしか道はありませんでした。

まとめとしまして

私は自分の中で「幸せ!」という年~「なんでこうなるの?」という年の周期があります。

高校は1年生が比較的「幸せ」に値する年で、2年の時は中学時代から友人と思っていた人からの酷い一言でそれまでかろうじて楽しく過ごしていた「幸せ」の気持ちが木っ端微塵に。3年はまさかの同級生だけに関わらず大人に味方が側にいてくれてると感じられなかったこと。

楽しくなかったと言ったら噓になりますが、もちろん楽しかった出来事もありましたし。

でも、もっと自分が自分らしくいられる人や場所があったのではないかと思ってしまいます。

それはつまり自分を本当の意味で大事に、そして自愛できてなかった事。

それが出来るには基盤には①家族(またはそれに同等に値する他人)、その上に②友人、そしてその上に③先生など程よい距離感で気持ちよく接してくださる大人。                            これは私の持論なので「ふーん」くらいで良いです。          それが私にはこれが構築できなかった。

だから今もなお、不安障害、アダルトチルドレン、うつ病として大人になるにつれて幼少期から思春期に味わえなかった色んな「温かい愛」を感じることが叶わず苦しんでいます。

やっと次回から大学編が書けると思うと少しホッとします。

長い道のりにはなりますが、またこうやって書けたらと思ってます。

ここまで読んでくださりありがとうございました。

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