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Adoの最終目標は、自分自身を愛すこと【ライブMCを聞いて】

先日、Adoさんのライブツアー
「モナ・リザの横顔」千秋楽に参戦しました。
とても良かったので、感想文をば。

彼女が一体何を考え、どんなモチベーションで、何に向かって突き進んでいるのか。直感ですが分かった気がするので、ここに記させてください。



MCに心を打たれた

彼女はMCで、感情を吐露しつつパーソナルな考えを表明してくれるのですが、これがまあ私の琴線にふれるふれる。響き、共鳴する。

彼女はシンプルではありますが抽象的で、スケールの大きい事を言います。これがなかなか輪郭を掴み切れない、芯をとらえるのが難しい。

揺れ動く不定形で大きな言葉を、ワッと投げかけてくる。そんな印象でした。

抱える想いが大きすぎて、上手く言葉にできていない感じもあります。

実際に同行した友人は帰り道、私にMCでの発言の意味がいまいちよく分からなかった、掴めなかったとこぼしていました。

しかし私には、彼女の言いたいこと、伝えたいことがまっすぐに、すうっと心に入ってきました。

彼女が言葉で想い全てを表現出来ずとも、言葉を超えたところで響くものがありました。
感情の伝播、と言っていいのかも。

私は「ああ、彼女は私と同族なんだな。何であれ一人の人間なんだ」と妙な確信を得ました。

同族といってもアレですよ、性格の「型」が似ているというだけです。大雑把に捉えてください。


あれだけの実績を残してもまだ…

彼女は、世界ツアーを成功させ、女性ソロシンガーとして前人未到の偉業「国立競技場単独ライブ」まで成し遂げています。

Apple Music チャートでは「新時代」で日本楽曲初の1位も獲得しています。

歌手としては21歳という若さで、最高峰の領域に達していると言って差し支えないはずです。

その彼女ですが、あろうことかMCでまず最初に、
「自分が嫌い」という言葉を強調する
のです。

圧倒的な実力をいかんなく発揮し、破竹の勢いで一流の世界までのし上がったというのに、彼女は未だ自分自身が嫌いだと明言するのです。

同時に「自分を好きになれるようになりたい」とも語ります。

なぜ彼女は自分自身を、好きになれないのか?
理由は大きく二つあると私は睨んでいます。

かなりの理想主義者であることと、
「Ado」は演じている姿だから。

この二つです。


彼女はかなりの理想主義者

彼女のMCだけでなくSNSなどでの行動を含めて観察していると、どうもかなりの理想主義者なのではないか、と推察されます。

彼女は自分自身に課す理想を、とんでもなく高く設定しているのではないでしょうか。

また自身に対する批判を、すごく敏感に受け取っているようで、その内容をMCで喋るくらいには気にしている様子です。

自分の表現技法を変えるような挑戦をする時に、「そういうのは求められていない」などといった類の批判が、凄く嫌なのだそうです。

おそらく彼女には「全員に認められる存在でいたい」という、自身の理想像があるのでしょう。

歌手として大きな存在になってきているにもかかわらず、旧Twitterで一般人の雑なリプライに真っ向から向き合い、彼女は返答していました。

その姿は、理想主義からくる強い承認欲求の表れだったのでしょうか。

目に入りうる全員に認められるまで、彼女は自身をすべて肯定することができないのかもしれません。これは途方もない理想です。

更に彼女は、
「ボーカロイドと歌い手の文化を守り、日本人として世界に広め、恩返しがしたい」
といった目標を強く掲げています。

これも自身の礎となっているドグマを、周囲にも展開していきたいと望む、理想主義の思想に見えます。そして義理堅さも感じます。

「自分の好きなものをみんなに知ってほしい」
そうした気持ちが非常に強く、それがモチベーションにもなっているのでしょう。


「Ado」を彼女は演じている

Adoという存在が自分から遠く離れていくような感覚

「残夢」ライナーノーツより

上記から分かるように、どうやら彼女は大きくなりすぎたAdoという存在に、自分が追いつかなくなってきたと感じているのではないでしょうか。

そもそもAdoというアーティストは、様々な音楽家から楽曲の提供を受け、それを彼女が歌い、作品にするという制作スタイルをとっています。

要は誰かの力を借りているのです。それは決して珍しい事ではありません。恥ずべきことでもありません。
ですが、それは必然的に自我を思うようには出せないということになります。

周りに助けられながら、自分は成長させてもらっている。自分一人では世に出る事すら叶わなかった。彼女はもちろん理解しています。

それを踏まえた上で、彼女には自分自身をもっと、そのまま表現したい。もっと自我を出したいという願望があるように見えます。

「Ado」がどれだけ称賛されて名を上げても、
それをそのまま自分事として飲み込めるわけではない
のでしょう。

もはや彼女にとって「Ado」とは、彼女自身とは分離した存在なのかもしれません。

そういった事を全部ひっくるめて、「演じて」
いるのです。


自分を表現しようと模索している

どうも彼女は、自分はじぶんのままでいたいと言った強い望みを抱えているようです。

MCでも、「私が私であるために」といった類の言葉を使っていましたし、
自身の懊悩や脆い部分を、ファンに感じてほしいようでした。

MBTIでいうとINFP、INFJ的思考でしょうか?

アイドルグループのプロデュースを始めたり、
かつて諦めたギターを再び手に取ったり、
17歳の時に書いた曲をリバイバルしたり。

彼女の表現は、以前とは違うフェーズに入ったのです。

「モナ・リザの横顔」という題目にもそれが如実に表れています。誰もが一度は見ているモナ・リザだが、その横顔は誰も見たことがない。

今まで誰も見たことがないAdoを見せたかったから、この題目にしたのだとMCで語っていました。

もしかしたら、
彼女のパーソナルな部分を「Ado」として表現することで、彼女を置いて独り歩きしつつある「Ado」を、自身と繋ぎとめようとしているのかもしれません。

彼女と「Ado」が、完全なひとつになる時。
Adoは比類ない存在として、さらなる新境地に飛び立つのでしょう。

その先でさえ、彼女の自分を愛する為の旅は、
終わらない
のです。


やっぱり彼女と私は同族だ

理想主義的、自我をとても大切にしている、自分の「好き」に真っ直ぐ、批判に敏感、病みがち、スケールのでかいことを考えがち、自分を全て肯定できない…

いや~改めて考えてみても似てるなあ…

また、彼女は
「私がつらい時歌い手とボーカロイドに助けられた様に、私の活動が誰かの助けになったらいい」
といった発言もしていました。

これは国立競技場ライブ時の発言ですが、こういったモチベーションにも非常に共感できます。

彼女はこのいびつな世界を、少しでもいい方向に変えたいという、根源的な願いをきっと、持っているのでしょう。

Adoという名前に込められた「誰かの人生の脇役になりたい」という意味も、この根源的な願いをささやかに、含んでいるのかもしれませんね。

僭越ながら、私もこうした根源的な願いを、
モチベーションにしているフシがあります。

とても実現できないと思う程の、大きな理想。

そこに少しでも近づけるように歩き続ける彼女の旅路。同じ願いを持つ者として目が離せません。

彼女は果たして、理想に限りなく近づき、自分を愛することが出来るようになるのでしょうか…


私の行動理念は一流の世界にも通じうる。
そう、背中を押してもらえたような。

そのように思わせてくれた彼女に、畏敬と感謝の念を抱きながら。

私はこれからも、歩き続けることができる。

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