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「もう、書けません」

このnoteは以下のnoteコンテスト「なぜ、私は書くのか」の結果発表ページです。

なお、今後コンテストを開催することはありません。詳細はツイッターで告知しました。




「もう、書けません」


そう言って、書くのをやめた物書きをたくさん見てきた。


物書きの筆を折る方法は3つある。

1つはシンプルだ。

反応をしないこと。イイネをしない、感想を送らない、そもそもクリックしない、PVもいつも1ケタ。

「反応がない」状態が続くと、もう書けなくなる。だって読まれないのだから。読まれないのなら書く意味がない。だから、こうなる。

「もう、書けません」と。



私は新卒でとあるWeb媒体の編集部に入社した。媒体の月間PVは数億。数億PVと聞いて私はこう思った。

「じゃあ私が書いた取材記事が掲載されれば、きっとものすごい数の人が読んでくれるんだ!」

と。


だが甘かった。

書いても書いても、誰にも読まれなかった。


たしかに月間数億PVもある大手Web媒体ともなると、1日に媒体を訪れる人は何十万人といる。

しかし、私は失念していた。

媒体を訪れてくれる人は、別に「私の」記事を読みに来てくれているわけではないのだ。


だから、書いても書いても読まれなかった。本当に、一切、まったく、クリックされない。

こんな残酷な現実の中を毎日毎日すごした。


週に一度、編集部全員が集まるミーティングが行われていた。そこでは一人ひとりが「今週の自分の成績」を発表する。

「今週は、自分が書いた記事で80万PV達成しました!」

と。


私は、いつも、最下位だった。



「もう、書けません」

そうやって書けなくさせる方法は、「読まれない」ことに以外にもう一つある。

誹謗中傷だ。


私が所属していたのは、かなり大きなWeb媒体だった。大手のWeb媒体となると、自社の媒体に掲載された記事は「外部の媒体」に配信されることになる。

たとえば、スマートニュースとかYahoo!ニュースだ。自分が書いた記事は自社媒体だけではなく、「他の」たくさんの媒体に配信されるのだ。


ところが。

一つ問題があった。


配信先の外部媒体に「コメントを書き込める機能」がついているケースがあるのだ。たとえば、Yahoo!ニュース。Yahoo!ニュースには記事に対するコメントを書き込める機能がついている。


私がいた媒体にはコメント機能がなかった。だが、配信先の外部媒体のうち、いくつかの媒体には「コメントを書き込む」機能があったのだ。


これが、問題だった。


入社して数か月が経ったある日。上司から初めて

「取材記事を書いていいよ」

と許可をもらえた。うれしくてうれしくて。デスクでうれし泣きするのを必死に我慢したことを今でも覚えている。自分のデスクに飾ってあった、100均で買った小さい観葉植物をじっと凝視して

「仕事中に涙なんか流したらだめだ」

と自分に言い聞かせて、うれしくて跳ね上がる心を落ち着かせたことを本当に今でも鮮明に覚えている。



取材先の選定、取材の申し込み、カメラマンの手配、ライターの手配、当日の段取り。いろんなことが初めてでアタフタしたけど、なんとか無事に取材を終えることができた。

取材原稿もなんとか完成し、上司からたくさんの修正を受けた上で「うん、これなら掲載していいよ」と言われた。


やっと、自分の取材記事を掲載できる。

「私の記事を読んでくれる人は、よろこんでくれるかな」

そう思って掲載ボタンを押した。



しかし、前述のとおり私が所属している媒体には「コメントを書く」という機能がついていなかった。だから自分が書いた記事で、読んでくれた人がよろこんでくれたかがまったくわからなかったのだ。



だから見に行ってしまった。

自分の記事が配信されている外部の媒体を。その外部の媒体に、どんなコメントが書かれているのか。見に行ってしまったのだった。


そこに書かれていたのは罵詈雑言の嵐だった。

コメントの数はたしか80個ぐらいだったと思う。ここに書けないほど、読むのがしんどい言葉が並んでいた。

全部読んでしまった。全部、読んでしまったのだ。


もちろん、中には建設的な意見もあった。

「は?文章の流れおかしくね?読みづらいわ小学校から出直して来いよ」

みたいな意見だ。だけどそれ以外は、当時の私には建設的な意見にはどうしても見えなかった。



私はまだ新人でピヨピヨの編集者だったから。とてもショックを受けた。定時になり、少しだけ残業をして、いつも通り帰宅するため電車に乗った。その帰りの電車で立っているのがやっとだった。

私には、覚悟が足りていなかったのだ。

文章を書く以上、批判の的になることも絶対にあると。そのことを理解してなかった。覚悟もしてなかった。だから余計に、ショックを受けてしまっていた。


しかも、よりによってその帰りの電車で痴漢にあった。今でも覚えている。小田急線の新百合丘駅行きの特急電車。ものすごい人で身動きがとれないほどの満員電車だった。

痴漢をされたその時は、なぜか

「痴漢なんてされる自分が悪いんじゃないか」

と思った。罵詈雑言の、80個ものコメントを読んだばかりだったからかもしれない。なんだか、「自分に価値なんてない」「痴漢なんてされて当然だ」みたいな考えになってしまっていたのだ。



今もし痴漢をされたらこの時の私とは真逆の反応をするだろう。麻の袋にボーリングの玉をつっこんで反射的に相手の頭をぶん殴り返しそうになるのを

「いや、暴力を振るわれたからって、暴力で返したらダメだ。我慢だ。我慢しろ自分」

と必死に暴力でやり返すのを我慢する。そのことに全力を注ぐだろう。


でも。

当時の私は、「痴漢なんてされる自分が悪いんだ」とまで思ってしまっていた。



編集者としてたくさん記事を書いてきた。たくさんの誹謗中傷を受けた。

そして、他の編集者がそうであるように、そんな中傷を受けることに徐々に慣れていった。

傷つかない。……というよりも、

「この人はこう思ったんだな」

で終わるようになってきた。受け流す、という表現が近いのだろうか。誹謗中傷を受けても「この人はこう思ったんだな」で終わるのだ。

中傷をされても。もうその中傷で傷つく痛覚が。私にはもう、無かった。


痛覚を「ちゃんと」失う。これができなかった編集者はどんどん辞めていった。心が壊れてしまう前に。自分を守るために辞めていったのだった。

何人も、何人も、辞めていくのを見てきた。私は去っていく人たちの背中を一切の感慨もなく見送ってきた。「そうか、辞めるんか」としか思わなかった。



そんなある日のことだった。会社で研修があった。研修の内容は「風評被害についての講習」だった。

中小企業でも大企業でも。どんな企業でも風評被害にあうリスクは必ずある。たとえば、自分が買ったプリンの中にわざと虫を入れて

「プリンを食べたら虫が入ってた!このプリンを作った会社はとんでもない!」

と誤った情報を広める人も中にはいる。実際そういったニュースを見たことがある人もいるだろう。

そういった風評被害を受けないようどう予防すべきか、そして風評被害が発生した場合どう対応すべきか。それを学ぶ講習があったのだ。


講習を担当した講師は、

「誹謗中傷対策の専門会社」

に所属する社員だった。風評被害の対応サポートをしたり、あとは芸能人やタレントが誹謗中傷を受けた際、中傷した人に対して開示請求するのを代行したりするのが仕事なんだそうだ。


講習が終わった後。

その「誹謗中傷対策の専門会社」の担当の人とちょっとだけ雑談をした。その中で、「普段Web編集者が毎日受けている誹謗中傷」が話題にあがった。


すると途端に相手の顔色が変わった。

「もう少し詳しく教えてください」

というので、「こんな感じで記事を掲載するとこういうコメントがいっぱいくるんですよ~」と何となしにそう言ったら、その担当者からこう返された。


あなたがた編集者が1か月の間に受ける誹謗中傷の数は、おそらく普通の人が受ける誹謗中傷の、一生分に当たります。

と。



「そうなんだ」、としか思わなかった。

もう、慣れてしまった。もう私には痛覚がないから。だから「そうなんだ」としか思わなかった。

多分相手は気遣いのつもりでその言葉をかけてくれたんだろうが、当時の私はそれに気づくことができなかった。「1か月で普通の人が受ける一生分の誹謗中傷を受けてますよ」と言われても。

この時は「だから、何?」としか思った。



さて話はガラリと元に戻る。

「もう、書けません」。

そう、物書きに筆を折らせる方法は3つある。一つは読まれないこと。二つ目は、誹謗中傷を受けること。



では、三つ目は何か。

これはきっと、プロの物書きや同業の編集者なら即答だろう。


そう、「褒めること」なのだ。



「天才だ」
「すばらしい」
「あなたは私の神様だ」
「救世主だ、一生あなたについていく」

と、過剰に褒めまくり、崇め奉る。すると何が起きるか。


重圧で書けなくなるのだ。


読者が求めているレベルの文章を、自分はもう、書ける気がしない。

そう思ってしまうのだ。


しかも恐ろしいことに。この重圧は何も「他人から」課されるとは限らない。

自分で勝手に」重圧を背負うこともあるのだ。


私は第一回創作大賞で優秀賞を受賞した。受賞した結果、受賞作品は書籍化され全国の書店に並んだ。

これは、本当にうれしいことだ。今でもうれしいことだと思っているし、ありがたいなと思っている。そこだけは事実だ。


だが、私は受賞した結果、書籍化していただいた結果、書けなくなったのだ。

半年間、一切文章を書けなくなった。


「創作大賞の受賞者だから、きっと次の作品も大傑作に決まっている」
「本を出すくらいの人だから、きっと新作もすごいのが出るよね!」

なんて、誰にもこんなこと言われてないのに。

勝手に自分で「他人からそう思われている」と考えてしまったのだった。今思うと自意識過剰にもほどがある。だが当時は本当にこの状況に陥っていた。


だから、書けなくなっていた。

もちろん、仕事が忙しいというのもあった。サラリーマンを辞め、会社を設立したばかりだったから。本当に仕事でバタバタしていた。

だけど、それでもちゃんと休日はあったのだ。そんなおだやかな休みの日に、筆をとることはできたはずだ。



でも、書けなかった。新作を出した結果、

「つまんなかった」

とがっかりされるのが怖かったのだ。


noteで何も書けなくなったその半年間。私は実は、インスタグラムに逃げていた。

適当につけた別名のペンネームで、インスタでエッセイを書いていたのだ。ここなら、誰も私を知っている人はいない。駄作を書いても誰にもガッカリされない。

おまけにインスタグラムは、そもそも写真を見るためのプラットフォームだ。文章を自由気ままに書いても「たいして読まれずに」済む。たいして読まれないのなら、ガッカリする人だって少なくて済む。

だからインスタという場所をあえて選んだ。その日、近所を散歩中に撮った適当な写真を載せて、フィード投稿の本文で思いっっっっ切り自由に文章をつむいでいた。


だけど、ダメだった。


ある日、恐ろしいコメントが来たのだ。その人はこんなコメントを送ってきた。

「あなたは私の神様です」

と。


すごく長かったから正確には覚えてない。覚えてないけど、とにかく私のことを崇拝するようなコメントが来たのだった。「神様」という言葉が書いてあったことだけは覚えている。



「おもしろかったよー」とか「このエッセイ好き!」とか。そういう「もらって嬉しい感想」の類ではない。

そうじゃなくて、まさに「重圧で書けなくなるような」そういうコメントだったのだ。

「あなたの文章に私は救われた」「あなたは私の救世主だ、神様だ」「一生あなたについていく」みたいな、そういうコメントだったのだ。



「あなたは私の神様なんだから、神様みたいな文章を次も書いてね」

と。勝手にハードルを設けられた気がした。そしてその勝手に設けられたハードルを超えろと強要されたように感じた。



その人が何を思って私を「神様」と言ったのかはわからない。本当に神様だと思ったのかもしれない。

だけど、うっすらと悪意が透けて見えた。

「アカウント削除に追い込んでやろう」という悪意が。


多分この人は知っていたんだと思う。「神様」に祭り上げることで物書きが筆を折るということを。



「手慣れてるな」

とも思った。

神だと崇め奉ることで書けなくすることを知っていて。「わざと」、神様だと言ってきている。神だと崇め奉り、私が苦しむ姿を見て楽しむために言ってきている。

正直、私にはそう見えた。



だからもうその瞬間、アカウントを削除した。

たしかフォロワーは7,000人ぐらいだったと思う。頭に7が2つ連続で続いていたことだけ覚えている。「7723人」とか「7798人」とかそういう数字だった。


約7,000人のフォロワー。

これは一般的に多いとみなされるのだろうか。それとも少ないとみなされるのだろうか。

私自身がWebの世界で仕事をしていたせいなのだろうが、約7,000人のフォロワーというのは、ハッキリ言って、かなり、「少ない」。


たとえば私がいた媒体にはSNSで発信することだけを仕事にした「SNS専門チーム」があった。そのチームに配属された新人には

「新しくアカウントを立ち上げ、一か月で1万人のフォロワーを達成」

することが義務付けられていた。目標ではない。必達だ。

だからWebの世界で仕事をしている人間からすると、約7,000人のフォロワーというのは「ぴよぴよの新人が三週間もあれば達成できる数字」という感覚なのだ。


私が削除したアカウントのフォロワーは約7,000人だった。そのアカウントを、私はためらいもなく削除した。

「7,000人のフォロワーなんて新人ですら三週間で達成できるのだから、また一からやり直せば三週間で取り戻せる人数だしな」

という感覚もそこにはあったと思う。そして、

「フォロワーが7,000人台のインスタグラマーなんて掃いて捨てるほどいるから別に私が消えて悲しむ人なんて一人もいないでしょ」

という感覚もあったと思う。



だけど一番の理由は、

自分をフォローしてくれている約7,000人全員が「敵」に見えてしまった

からかもしれない。

「すごく極端な思考に走った」と、今考えると思うよ。でも、「あなたは神様です」とたった一人の人が言ってきたことで、「そのほかの全員も私のことを神様扱いしてるのでは」と怖くなったのだ。



「フォロワーの数なんて、自分に向けられた銃口の数だよ」

これは、かつて友人が言った言葉だ。


友人がこの言葉を放ったその時。私は、「そんなことないよ」「あなたを愛してくれてる人も絶対にいるよ」と、そういう意味の言葉を返した。


だけど自分のインスタのアカウントを削除した瞬間は、まさに同じことを思った。「フォロワーの数なんて、自分に向けられた銃口の数だ」、と。


たった一人、「あなたは私の神様です」と言ってきた人がいたことで。その人以外のすべてのフォロワーまでもが「敵だ」と錯覚してしまったのだ。



平日の、夜のことだった。

何曜日だったかまでは覚えてない。週の後半だったのはうっすら覚えてるから多分木曜日あたりだったのだろう。

夜の11時。布団に入って眠ろうとしている時のことだった。真っ暗に消灯した寝室、ふかふかの布団の中。寝る前にインスタを開いたら「あなたは私の神様です」と書かれいてた。



それを見て、もう何もかも、イヤになった。

私はインスタの設定画面に行き、「アカウントを削除する」を押した。

本当に、なんの、ためらいもなかった。

だって、そこにはもう、私の居場所はなかったから。



私のアカウントがなくなって、約7,000人の他のフォロワーはどう思ったんだろうか。

「あれ、フォローしてる人が一人減ってる、誰かがいなくなったんだな」

ぐらいで終わったんだろうか。

「あれ、あの人、アカウント消したのか。少し寂しいな」

ぐらいで終わったんだろうか。



私のことを神様だと言ったあの人は今頃、どう思っているんだろうか。

「嬲って遊べるオモチャがいなくなって、つまんないな」

そう、思っているのかもしれない。



結局、重圧に負けた。

「きっとこの人なら神様みたいな文章を書いてくれるだろう」という重圧に、私は負けたのだった。


編集者の仕事をしているから、もちろん仕事で文章は書いている。ライターさんから納品されてきた原稿も編集するから、「ライターさんと一緒に文章を完成させていく」という形で文章は書いている。

だけど、

「自分という一人の個人」として文章を書くことは、もう二度とないのかもしれないな

と思った。



そんな日々を過ごしていたある日。

仕事でZoomミーティングが終わった後、Zoomを終了せずにとあるライターさんとちょっとだけ雑談をしていた。

彼女は雑談の中でこんな言葉を教えてくれた。

「駄作を生み出す勇気」

という言葉だ。


私が書くということの重圧に苦しんでいることが、ちょっとだけバレていたのかもしれない。だから、なんだか励ますような言葉をかけてくれたのかもしれない。

彼女は、私にこう言ってくれた。

「最高傑作を書かねばならない」という重圧に負けちゃだめですよ。

もっと力を抜いて、リラックスして、「誰にどう思われたってかまわない」という気持ちを「適切に」持たないと、絶対に書けなくなりますよ。

と。


これが「駄作を出す勇気」だと。彼女は教えてくれたのだった。その勇気を物書きならば持たねばならないと、そう教えてくれたのだった。



ずっとnoteという場所から逃げていた。

創作大賞の受賞者、応募作品の書籍化、そういう自分の実績を勝手に重圧にして書けなくなっていた。

そう、まさに「駄作を生み出す勇気」を私は持っていなかったのだ。


「駄作を生み出す勇気」、か。

怖かったけど、この勇気を持って新しく文章を書いてみる価値はあると思った。



だから一つのnoteを書き上げた。

結果、何の反応もなかった。

イイネもPVも、過去の作品に比べて恐ろしく少なかった。

結局、私が勇気を出して書いた新作は、駄作だった。



でも別に、それでいいと思った。

「そうか、今回のは、つまんなかったんだな」

そう反省して次に活かせばいい。そう思ったのだ。「そうか、これが駄作を生み出す勇気か」と。少しだけだけど、その勇気を持てた気がした。



ところが。その「駄作」を掲載して数か月が経ったある日。

コメントが来たのだ。

「読んでよかった」

という意味のコメントだった。


そのコメントをもらった時、私は有楽町駅に居た。

有楽町の駅前の高層ビル、たしか7階あたりだったと思う。7階にある会議室でクライアントとの打ち合わせが終わり、1Fのエントランスを出て、有楽町駅前にあるヨドバシカメラに入ろうとしたその時だった。

その「読んでよかった」というコメントをもらったことに気づいたのだ。


有楽町のあのにぎやかでガヤガヤとした駅前のヨドバシで。スマホを持って立ち尽くした。「読んでよかった」と、書いてあったそのコメントをじっと凝視した。

「そうだ」

と思い出した。


私、伝えたいことがあるから、文章を書いてるんだった。

伝えた結果、「読んでよかった」と思ってもらいたいから書いてるんだった。


そうだ、そうだった。

だから書いてるんだった。

なんでこんなこと、忘れてたんだろう。

勝手に自分で重圧をかけて、勝手に書けなくなるまで自分を追い込んで。

なんでこんな簡単なこと、忘れていたんだろう。


そのコメントをくれた人のアイコンはオニギリのイラストだった。だから私のパソコンには、オニギリのステッカーが貼ってある。ロフトで300円くらいで買ったオニギリのステッカーだ。


「なぜ、書くのか」を思い出させてくれた大切な人だから。「なぜ、書くのか」を思い出させてくれた人だから。

この人に恥じない文章を書けるよう、「なぜ、書くのか」を二度と忘れないよう。文章を書くときはいつもこのステッカーを見て書いている。


私は、この人のおかげで、書くことができているのだ。



そうして少しずつ、書けるようになってきた。

noteでいろんな文章を書けるようになってきた。PVやイイネの数は確かに気になる瞬間ももちろんあるけど、でも、「単なる指標の一つにすぎない」ぐらいの気持ちで自由に書いていこうと思った。



……そんなある日。

すっごく素敵なエッセイに出会った。朝起きて布団の中でスマホをひらいてなんとなくクリックしたエッセイが。

とっても面白かったのだ。

すごく衝撃的だった。エッセイが面白かった、というのもある。それもあるんだけど、そのエッセイを書いている人自身が

「書くのが楽しくて仕方がない」

と。そう思って書いてるのが目に浮かぶような文章だったのだ。


まさに、ダンプカーに轢かれたような衝撃だった。ダンプカーに轢かれる前は「瀕死の状態だけど、何とか頑張って震えながらビクビクおびえながら書いていた」のに。

ダンプカーに轢かれた後は「もうこの人みたいに思いっきり楽しんじゃお!」と元気が出たのだ。


逆じゃないか、普通。

ダンプカーに轢かれたら瀕死になるはずなのに。ダンプカーに轢かれた後のほうが元気モリモリ(死語)になるなんて。


それからは毎朝、布団の中で起きた時にスマホを取り出し、その人のエッセイを読むようになった。

「新作、出てるかな」

そう思いながらスマホを開いて、「n」と書かれたあのnoteのアプリを開くのが毎朝の楽しみになった。


その人のエッセイを読むと、すごくすごく書きたい意欲がわいてきた。その人のアイコンは、黄色い丸にかわいい顔が描いてあるアイコンだった。その日から、noteを開くたびに黄色いアイコンがあると反射的にクリックして楽しく読むようになった。


毎日読むうちに、私はこう思うようになった。

私もこういう文章、書けるようになりたい。

そう本気で思った。私の文章を読んで、「書きたい意欲がわいてくる」。そんな文章をつむぎたいと思った。



だから、書いて書いて書きまくった。

そしたら本当に、「あなたの文章を読むと書きたい気持ちがわいてくる」と言ってもらえるようになってきた。

一人や二人じゃない。すごい数の人たちが

「なんでだろ?この人の文章読むと書きたくなるんだよね」

と感想ツイートをしてくれるようになった。

そういうコメントをもらうたびに、私はそのコメントをスクショして宝物にしている。私も、あの黄色いアイコンのあの人に一歩近づけたような気がしたから。



……だけど。

雲行きが、あやしくなってきた。


あのときインスタグラムでもらった「あなたは私の神様です」みたいな空気を、ほんのりと感じ始めた。

私のことを

note界では知らぬ人などいない超有名人
note文芸界のカリスマであり神様
向かうところ敵なしのクリエイター

と言っている人を見かけて。


本当に、怖くなった。



私のことをそう表現する人のことを非難しているわけでは全く、ない。

そうではなくて

あぁ、また、書けなくなる。


そう思ったのだ。


私のことを「note界では知らぬ人などいない超有名人」と言ってる人を見て、正直、邪推した。「そう重圧をかけて、書けなくしてやろう」としているのではと疑ってしまったのだ。


試しにnoteの中でエッセイストを検索してみた。フォロワーが数万人もいる人なんてゴロゴロいた。そして本当に申し訳ないんだけど、正直、私はそのうちの誰も知らなかった。


そういえば私のフォロワーは何人なんだろう?

フォロワーの人数なんて、もうここ数か月気にしたことがなかった。人数なんてどうでもいい。こういう、「数字を追うこと」に疲れたから会社辞めて独立したのに。フォロワーの数を気にするなんてことで疲労困憊したくなかった。だから全く気にすらとめていなかったのだ。


でも、今回ばかりは確認しないといけない。だから、自分のアカウントトップに飛んでみた。私のフォロワーの人数は、「フォロワーが数万人もいる超有名noter」の足元にも及ばなかった。


そのこと自体は、別に問題じゃない。足元にも及ばないこと。それが問題なのではない。

というかむしろ、私のフォロワーがたとえ30人だったとしても

「この人たちは私の文章を読みたいと思ってくれているんだ」

とうれしい気持ちになる。だから数は問題じゃない。



問題はそこじゃなくて、「他の有名エッセイストの足元にも及ばないようなフォロワーの数」なのに、どうして

note界では知らぬ人などいない超有名人
note文芸界のカリスマであり神様
向かうところ敵なしのクリエイター

と言われるのか。意味がわからなかったのだ。本当に、今でも、意味がわからない。


やっぱり正直、一瞬だけ邪推もした。

あの時インスタグラムで「あなたは私の神様です」と言ってきたあの人みたいに。「書けなくしてやる」という悪意を持ってそう言っているのかと一瞬だけ邪推してしまった。


だが、そんな悪意はなかった。シンプルに、

「文章の流れの都合上、『note界では知らぬ人のいない有名人』という前置きが必要だから、ただそう表現している」

ただそれだけだった。そこに悪意は感じられなかった。



他のnoteでも書いたことだが。

私が書く理由はたった一つだ。

「伝えたいことがあるから」書く。

だから「伝えたいこと」を書き終えたら私はnoteからいなくなるだろう。



「伝えたいことをすべて書き終えたら、noteはやめる」

これは最初から決めていたことだ。

私は、「伝えたいこと」を書き終わったらもう書かない。

なぜなら、私が書く理由が「伝えたいことがあるから」だからだ。伝えたいことを伝えきったら、書く理由がない。だから、やめる。ただそれだけの話だ。


「これから書く予定のネタ一覧」が書かれたネタ帳を改めて見てみた。書きたいと思っているネタは「残り18個」だった。

18本のnoteを書き上げるのにどれくらいの期間がかかるのだろうか。3か月か。3年か。それはわからないが、この18個を書き上げたら私はここから立ち去る。

なぜなら、もう書くことがないからだ。



だけど。

その「伝えたいこと」を書き終える前に「書けなくなる」状態になるのは、どうしてもイヤだった。

だって伝えたいことがあるから書いてるのに。伝えたいことを伝えきる前に書けなくなるなんて。

絶対に、イヤだった。


だから、

みんなに「書く」理由を聞いてみた。


今回、私は「なぜ、書くのか」というコンテストを開催した。このコンテストの概要にも書いてある通り、このコンテストの目的は2つあった。

一つは、「創作大賞の準備運動として使ってもらうこと」。

そしてもう一つは、この「なぜ、書くのか」というコンテストを通じて

「他の人の『書く理由』を知ることができれば、『もう、書けない』と思った時に自分を救えるかもしれない」

ということだ。


「そうか、こういう理由で書いてもいいんだ」と、新しい発見があればそれはその人の救いになるかもしれない。だから、そういう「救いになるような場所」をつくりたかった。

「新しい発見があればそれは、誰かの救いになるかもしれない」

とたった今書いたばかりだが。今思うと、この「誰か」の中には自分自身も入っていたのだろう。



note界では知らぬ人などいない超有名人
note文芸界のカリスマであり神様
向かうところ敵なしのクリエイター

こんなことを言われて、書けなくなりそうで怖かったから。だから、助けてほしい。そういう気持ちが、自分の中にきっとあったのだろうと思った。


「なぜ、書くのか」。

これをコンテストのテーマにすることで、たくさんの人が「なぜ、書くのか」という質問に答えてくれた。

ある人は、こんな答えを私に話してくれた。




心が震える、伝わる文章を書きたいから。

あぁ、私と、同じだ

と思った。

私も、伝わる文章を書きたいから書いている。

「同じ人がいた」。少し、うれしくなった。



「心が震える、伝わる文章を書きたいから」とその人は言っていた。伝えたいことがあるから書く。伝えた結果読んでくれた人の魂をゆさぶりたいから、書く。怖いけど、だけどそれでも、私は書く。

その人は勇気を振り絞って「だから、書くのだ」と言っていた。

「文章書くことが好き」なんてとても言えないくらい、文章を書くことから逃げてました。
今もまだ、こうやって誰もが見られる場所に文章を書くのは、少し怖いです。

それでも、今は、書きたいって、全力で思ってます。

文章で、涙が止まらなくなるくらい心が震えるって教えてもらえたから。

伝えたい想いが、私の中にあるから。

私も読んでくれた人が、心が震える伝わる文章を書きたいから。

これが私の書く理由です。


「怖かったんだろうな」と思った。

どこの誰に読まれるかわからないこんなnoteという場所で。自分の意志をここまで表明すること。どれだけ怖かったことか。「少し怖いです」とこの人は言っているけど。でも本当は「少し」どころじゃなかっただろう。


でも、勇気を出して、この人は書いたのだった。

この人の作品を読んでみた。

恐怖の残骸が、ひとかけらだけ残っていた。恐怖のあまり、自分を守ろうとして書いた文章が一行だけ残っていた。でもその一行以外は、全部自分をさらけだして勇気を出して全力で書いてきていた。


すごいな、と思った。

恐怖と闘って、ぶちのめして勝ったんだなと思った。この人の文章は何度も読んだ。何度も何度も読んだ。

私は怖くなってアカウント削除して逃げ出したのに。この人は逃げなかった。すごいなと思ったと同時に、少しだけ、羨ましくもあった。


この人は「伝えたい『あなた』に対して、伝えたいことがあるから書く」と言ってくれていた。

そして別の人はこうも言っていた。


伝える相手は、他人じゃなくてもいい。「自分に」伝わる文章だってかまわない。


と。

「もう、私、書かなくていいかな」

と、その人は言っていた。

「書かなくていいかな」思うくらいまで追い詰められているのに。その人は筆をとっていた。その筆でつむがれる文章は、読んでいて少し切なくつらくなる言葉だった。

そこには、「文章は誰でも書けるけど、伝わる文章は書けてない。そのことに気づいてしまった」と書いてあった。


もう、私、書かなくていいかな。



毎回文章書く度に思う。

多分、私は自信があった。
いま振り返るとかなり恥ずかしい自惚。
アマチュアであるが、文章を10年以上書き続けている。

ひょっとして結構イケてるんじゃない、私?
とどこかで思っていた。

とうとう気づいてしまった。

いや、とっくにわかっていた。
気づかないふりをしていた。
認めたくなかった。 

文章は誰でも書ける。

だが、
誰かに届く文章は書けない、書けてないのだ。


そう記した上で、最後にこの人はこう締めくくっていた。


もちろん書くを仕事にしたい。
とか読んでくれた誰かを喜ばせたいとか、
そういう思いもない訳ではない。
あった方がいいに決まっている。

その域には届かない。
今は、まだ。
一番に届けたいのは「自分」だから。

今後も書き続けていくのだろう。
私の意思がそこにある限り。


……今はまだ他の誰かに届く文章は書けてないけど。

一番に届けたいのは「自分」だから。

それでいいんだって。



だから自分に届けられるよう、これからも書いていくのだとこの人は言っていた。

きっと、未来のこの人は、「過去の自分が書いた文章」を読んで過去の自分に感謝するんじゃないかな

と、私はそう思った。


「あの時、書き続けると決めてくれて、ありがとう」ってきっと感謝するんだろうなって、思った。

書き続けると決断したこと。その決断を「正解だった」と言える未来にするための努力を、この人はきっとするだろうから。


この人は「自分に届けるために書く」と言った。

そしたらまた別の人が素敵なことを書いてくれていた。

その人は、「自分のために書く」のではなく「大好きな人に、大好きだよ」と伝えるために書くと言っていた。


娘に「好きだよ」と伝えるために書く。

さかのぼってみると、始まりは2019年だった。娘は10歳。交友関係が複雑になってくるお年ごろだ。学校から帰宅すると、ちょっと元気がない。

多感なお年ごろだから「どうしたの?」と訊くこともできない。娘が元気がないと親も悲しい。なんとか元気を出してもらえないだろうかと、娘の好きなところを100個書いてプレゼントしてみた。

受け取った娘は照れながらも喜んでいた。幸いにも捨てられずに本棚にある。

娘がニヤニヤしながら読んでいる姿を見て嬉しかった。このnoteを読んでいるあなた、どうか実践してみてほしい。わが子であっても、100個好きなところを書き出すって大変だ。100個書くのって実は苦しかった。


娘に「好きだよ」と伝えるために書く。

しかも、100個も好きなところを書く。

これさぁ……100個も思いつくのがそもそも本当にすごくないか。私、ためしに夫の好きなところをエクセルで出してみたよ。ほんっっっっとに申し訳ないが9個が限界だった。好きな人の好きなところを100個書く。まずここに衝撃を受けたよ。


そしてこの人のnoteの中には、実際に「娘の好きなところを書いたその手紙の写真」が載っていた。これ、いいな。私エクセルで書き出しちゃったけど、手書きでこんなのもらったら一生の宝になるだろう。


そしてこの人は、「亡くなったおばあちゃんにも書けばよかった」と言っていた。

いまはもう、おばあちゃんは亡くなっているから、手紙を書いて届けることができない。生きているうちに、大切なひとに気持ちを伝えておいて良かったな。

言葉を伝えるにも賞味期限がある。家族は居るのが当たり前で、つい伝えそびれてしまうけど、

好き ありがとう 良いところ 

「書いて」伝えてみませんか?

この人の文章を読んで、私はこう思った。

「好きな人に好きだと伝えるために、書く」。そんなこと、考えたこともなかった、と。



でもさ、これ考えてみれば当たり前の話だよね。だって言葉は「伝えたいことを伝えるため」に存在しているんだもん。


そういえば私、両親のことを思い出した。

私は両親から毎日「大好きだよ」と言われて育てられた。だから子供のころの私は

「そうか、お父さんとお母さんは私のことが大好きなのか」

と思いながら育ったのだ。


結果、私も他人に対して「大好きだよ」と真正面から好きだと伝える人間に育った。

たまに相手にびっくりされることがあるけど、でも好きなんだからしょうがない。好きだから、「好きです」って伝えている。自分が「大好きだよ」と言われて育ったから、同じように他人にも「大好きだよ」と伝えている。ただ、それだけだ。


だが、家族に対してはどうだろうか。好きと伝えたことがあっただろうか。身近過ぎて一度も伝えたことがなかったかもしれない。「いるのが当たり前」で伝えたことがなかったかもしれない。


娘の好きなところを100個書いたこの人みたいに。

ちゃんと、伝えよう。自分が、そして家族が生きているうちに、伝えよう。

そう思った矢先、別の人がとても面白いことを言っていた。その人は、noteの中でこう書いていた。

「今じゃなくていい、未来の娘に『愛してるよ』と伝えるために書いてる」

と。

愛してるよと、未来の娘に伝えるために書く。

実母が
アルツハイマー型の認知症と診断された。

少しでも母の記憶がある間に、
母のエンディングノートを埋めてしまおう。
実家に帰省した際に、ノートに記載されている質問内容を、私が母にインタビューする。
母が答えた内容を私がノートに書き込んでいく。


自分の母親なのに知らないことがたくさんあった。もっと時間を作って母の話を聞いておくべきだった。


母の人生は楽しかったの?
1番嬉しかったことは何?


私は子育てのアドバイスをもっとして欲しかったよ。
親の子供として甘えていられる時間が尊く感じた。
ねぇ、昔のように叱ってよ。

母の認知症発症後、エッセイに対する考え方が変わっていった。


日常の小さな嬉しい出来事を見つけて、切り取ってエッセイとして
書いていく。


あなたの生きている世界は、こんなにも愛に溢れた世界なのだと書き残したくなったのだ。


かと言って、エッセイにはいいこと
ばかりを書くのではなく、子育てで
悩んだことも、私の失敗談、恥ずかしい経験も書いている。



娘は、私が生きている間にエッセイを
読まないかもしれない。

それで良い。

押し付けたくもないから。

もし私が先立って、娘がお母さんに
「あれが聞きたかった」
「これを教えて欲しかった」と
思ったときに、存在を思い出して
くれるだけでいいのだ。

「あそこに書いてあったはず」と。


なるほどなぁ~~~と、思った。文字ならではの特長だよね、これ。

確かに「今」伝えることだって大切だ。でも、遠い未来に伝わればいいと、そう思って書いたっていいんだ。そんな気持ちで「愛してるよ」を言葉で残してもいいんだ。


「文字のいいところってそこだよな」

と思った。音声は一瞬で消えるけど、文字は残る。残るから、遠い未来に大切な人に大切な言葉を届けることができる。「文章」という表現形態の特性を上手に利用した、素敵な書き方だと思った。


今登場したこの二人の方は、大切な人に「好きだよ」と伝えるために書いている。

この「好きだよと伝えたい」という気持ちは、とっても強いのだろう。この二人の文章を読んでいても、それがすごくすごく伝わってくる。



そうだよなぁ……。「伝えたい」って気持ちは、書く原動力として本当に強力な起爆剤になるよなぁ。


そういえば私自身もそうだわ。

「伝えたい」という気持ちをガソリンにして文章をつむいでいる。すぐ横に座っている人に対して、小学校の全校集会で校長先生が使うようなあのスピーカーを使って5億デシベルくらいのな音量で話しかける。

「うるさくてかなわん」。

そんな文章を、私は書いているもんな。


だからこの「なぜ、書くのか」というコンテストの参考作品、「自分の文章に自信がなくて吐きそう」というnoteでも、マグマのように熱い灼熱の一行を最後に書いた。

「審査員はこの私だ。ぶちのめしに来い」

と。


だって、これが私の伝えたいことだったから。「伝えたい」という強い思いを起爆剤にして書いた、私の文章だ。これが私の文体だ。これが私の書き方だ。だから私は、「ぶちのめしに来い」と書いた。


そしたらさ、ちょっと聞いてよ(笑)。

「ぶちのめしに来い」って書いたら、こう返答してくれた人がいた!

「ぶちのめすつもりで書けるわけあるか~\(^^)/」


もうさ~~!!

この文章がおもしろすぎて声出して笑ってしまった(笑)。

私この時自宅のデスクに座ってたんだよね。自宅のデスクで、審査のために応募作品を順番に読んでいた時、「さて次の作品を読もう」と思ったらこのタイトルが出てきた。


もう、マジで、声出して笑った。


それと同時に、すっっっっごくうれしかった。

実は、こういう作品「も」求めていたのだ。


「ぶちのめしに来い」とは言ったものの。実は、私は「みんなが本気でぶちのめしに来るかどうか」を見ていたのではないのだ。

じゃあ実際は何を見ていたのか?

それは、どういう方法でぶちのめしにくるか。その「ぶちのめし方」を見ていたのだ。


「ぶちのめすつもりで書けるわけあるか」と書いたその人は、本文でこんな言葉をつむいでいた。

「そんな空回る日々を見て、誰かが笑ってくれたらいい」

プロってすごい。
書くことに本気で向き合って来た人ってすごい。

そんな人をぶちのめすなんて、正気の沙汰ではない。

やっぱり、もがくことは辞めないでいたい。

捨てかけた希望を、私は取り戻したい。

この胸には、伝えたい気持ちや言葉が、溢れ出しそうなほどに、たくさんある。

ぶちのめすなんてそんな、なんて。
及び腰にはなってしまったものの。

その伝えたい気持ちだけは、負けないほどあるかもしれない。

だから、私は書こうと思った。

腐らず、焦らず。
でも、前向きに努力はする。

そんな空回る日々を見て、誰かが笑ってくれたらいい。

そんな気持ちで、私は文章を、書いていく。


そうそう!そうなんだよ!ねぇ今の見た!?今の文章マジで良くない!?


そうなんだよ。「文章に本気」の人に真正面からぶつかっていく必要なんて、全然ないんだよ。だってそんなことしたら筆が折れちゃうことだってあるでしょ。筆が折れたら書けなくなっちゃうでしょ。


別にどっちが優れているとかそういう話ではない。文章に本気になりたいなら本気になればいいし、ゆるく書きたいならゆるく書けばいい。本気の人の方が優れているとか、そんなことは一切ないんだ。


だが今回は「コンテスト」だ。コンテストの審査員である私は「文章に本気の人」だ。

私は編集者をもう12年もやっている。日本一の編集者になったつもりで、毎日、本気で、仕事をしている。文章のプロとして、誇りと自信をきちんと持ち、時に失敗し、反省を繰り返し、それでも前を向いて成長し前進し続けている。

だから間違いなく、今回のコンテストの審査員である私は、「文章に本気の人」だ。



だから、戦い方を変えなければいけない。「文章に本気の人」に勝ちたいなら、「真正面からはぶちのめしにはいかない」。これが正しい戦い方だよ。私は、そう思う。


たとえばさ、私はかなり小柄な体格をしている。152センチ43キロ。こんな小柄な女性が、毎日リングにあがって戦い続けているプロレスラーに挑んだら2秒で負けるだろう。だから、勝てないとわかっている相手には真正面から戦いを挑んではいけないのだ。

だから、勝つためには土俵をずらせばいいのだ。土俵をずらさなければいけないのだ。このことをビシっと言葉に書いてくれている人が、なんと一人、いた。この人だ。

文章で相手に勝ちたいなら、「土俵をずらして戦いを挑む」

コンテストの突破条件は、藤原華さんのnote「自分に自信がなくて吐きそう」を超える作品を作ること


わたしに藤原華さんの努力を超えられるか?
答えはNOだ。
ではどうするか。
たたかう土俵をずらす。
藤原華さんとは違う価値観を示す。

そう。まさに、これだ。

闘って負けるのがわかってるのなら土俵をずらせばいいのだ。

この文章がさ~!!もうさ~!!うれしくてさ~!!

この人が書いた文章のメインディッシュはここじゃないと思う。ここじゃないとわかってはいるんだけどさ、私は、この「土俵をずらすぞ」というここの文章が一番素敵だと思った。


でもさ、ちょっと聞いてほしいんだけど(笑)。

この人の文章ですっごく面白い点が一つあった。

土俵をずらすと言っておきながら、ずらしてない。私から見ると、真正面からぶつかってきてくれたように見えたのだ。


この方の文章を何度も何度も読んだ。

何度も読んだけど、すごかった。

すごい熱量で書いてるんだよね。「土俵をずらす」という戦略をとると書いてあること自体にも驚き、うれしいと感じたのに。


負けた、って思った(笑)。

結局のところ、この人の文章に、私は負けた。なんかさぁ、すがすがしい敗北感だったよ。私から見ると、土俵をずらさず真正面から向かってきてくれているように感じた。そして、はっきりと「負けた」と思った。

おもしろい感覚だったよ。確かにそれは敗北感であるはずなのに、「すがすがしい」敗北感だった。むしろ爽快感とすら言ってもいいくらいだ。

「審査員はこの私だ。ぶちのめしにこい」

と書いて本当にぶちのめされた。


ふふっ、なんかちょっと、うれしいね。だって真正面から向かってきてくれたんだもん。コンテストを開催して、よかったなって思った。


そして、一方でおもしろい土俵のずらし方をしている人もいた。この人だ。

ご飯としての文章ではなく、おやつとしての文章が書きたい

私が書きたいもの、届けたいものは、ご飯としての文章ではない。

おやつとして、楽しんでもらえる文章だということに。


例えていうなら、スコーンのような。モソモソしてて、一口頬張ると口の中の水分が一気に奪われるあの感じが、実は好き。粉の味がちゃんとして、小腹も満たせて、素朴でシンプルなスコーン。カフェのカウンターに瓶詰めで置かれていたりすると、つい買ってしまう。

そんなスコーンみたいな文章を私は書きたいし、届けたいと思っている。

やっぱり、笑顔になってほしいから。

ほんの一瞬でもいいから、心がほぐれてほしいから。

おやつは、生存に絶対に必要かと言われたら、そんなことはない。


エッセイだって、それがなかったら死んでしまうかと言われたら、きっとそうではない。
だけど、人間はただの生命維持装置じゃない。

感情がある。

生存と自分らしく生きることは違う。

だから私は、必需品ではないけど、あったら嬉しいなと思える文章を書いていきたい。


それが私の書く理由なんだ。


ほぅとため息が出た。

いや、なんかさ。多分なんだけど。

私が書いたnote、そしてあなたが書いたnoteを、

「朝起きて家事を済ませ朝ごはんを食べて歯磨きして着替えてメイクしてコーヒーも入れてさぁ準備OKだ、今から1時間かけて読むぞ!」

って人、マジでこの世に一人もいないと思うんだよね。今まさに私の文章を読んでいるみんなだってそうじゃない?「この文章を読むためだけに時間をとりました!」って人、多分いないと思うんだ。


じゃあどんな時に私たちの文章は読まれるのか?

それは、隙間時間だ。

日曜朝の布団の中、月曜朝の通勤時間、会社でのお昼休み、帰りの電車の中とかだと思うんだ。つまり、隙間時間に読まれると思うんだよね。


そしておそろしいことに。

この隙間時間で読める文章は、「無限に」、ある。

青空文庫で明治の文豪の小説を読んだり。
ほぼ日刊イトイ新聞を読んだり。
『羊をめぐる冒険』を読み返してみたり。

つまり、その隙間時間で自分の文章を読んでもらおうと思ったら太宰治と戦わないといけないのだ。糸井重里と戦わないといけないのだ。村上春樹と戦わないといけないのだ。


でも、彼らに真正面から向かって言ったら負けるに決まっている。彼らのつむぐ言葉が、青山の超高級レストランでいただける7万円のフランス料理だったとしたら、「自分がそれを超えるフランス料理になろう」としてはいけないのだ。


なぜなら、絶対に勝てないから。


だから、土俵をずらすのだ。手軽に気楽に食べられるサイゼリアのポジション、たまの贅沢でデリバリーするモスバーガーのポジション、はたまた、コンビニでサクっと買えるウマい棒のポジションを狙うのだ。



だから、この人が言っている「おやつとしての文章を目指したい」は、その姿勢そのものが美しいだけでなく、「人さまに読んでいただくための戦略」としてとっても素晴らしいと思った。

そして実際、「ほっと一息つけるおやつ」みたいな文章に本当に仕上がっていて、「すっげぇな……」って思ったよ(笑)。

有言実行してるんだよね、この人。ものすごい物書きだと思った。


そして別の方は「土俵をずらす」ということについて、とっっっっっっっっても素敵な表現をしていた。この人だ。

全力なんて出さなくていい、ゆるく自分らしく、気楽に書けばいい。

せめて note を「書く」ときくらいは、
気楽に書きたいと思って書くのです。

note を書くのも個性なら、
私は「ゆるい」 note を書くことに
努めたいと考えます。

それが、
今現在の私の note を書く理由です。


もぅ好き~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!大っっっっ好き!!!

この人の文体、言葉の選び方、そして考え方、そしてこの作品そのものが、好きだ。


noteって言う場所は、本当に自由な場所だよね。

全力で書いたっていい。いつもの半分の力で書いたっていい。脱力して書いたっていい。ゆるく自分らしく気楽に書いたっていい。なんならもう、その瞬間書きたいと思ったことだけを一行だけ書いて終わったっていい。


たしかに、全力を出して書いている人は、このnoteという世界に大勢いる。でも、その「全力で書く」という姿勢が唯一の正解なんてことは絶対に、ないんだよね。

「ゆるいnoteを書いていきたい」。

この人は、そう書いてくれた。素敵な言葉だと思った。この一言に救われる人が、一体どれほどいるんだろうね。


そして「全力で書かなくてもいいんだ」というこのテーマについて、すごく面白く、高らかな大宣言をしている人がいた。この方だ。

「こんな人でも文章を書いていいのだ」と、世界に知らしめるために、私は書く。


「noteの中には全力で書いた濃厚な文章がある」。


この人は、そんな全力の文章を読んだとき「まぶしい」と思ったそうだ。なぜなら自分には「絶対にこの話を伝えたい」なんてことがないから。ないから、書けない。そう前置きした上で、この人はこう言っていた。

私にとって、文章は日常だ。

学生時代は年間300冊以上の本を読んで、読書感想文や学生向け作文コンテストは入賞しないことの方が少ないくらいだったけれど。

でも、それだけ。

……じゃあ、私はどうする?

書けることもないし、外に言葉を発するのは辞めておく??


いやマジで待って。ちょっと待って。

ちょっと不安になった。

読んでいて、とっても不安になった。



「書くの、やめるわ」。

この人が、こう言い出すんじゃないかと思った。

もしそう書かれてたら、どうしよう。


私マジで、3秒くらい、ためらった。スクロールしたくなかった。「書くの、やめる」と書いてあるんじゃないかと思ったから。

「あーでも気になる!!!!!」

って思ったから本当に不安でいっぱいになりながら、覚悟を決めてスクロールした。

そしたらこんな言葉が太文字で書いてあった。


嫌だ。
いや。
やだ。
私も、書く。

と。


続けてこの人はこう書いていた。

私が文章を書く理由。

それは「こんな人でも文章を書いていいのだ」と、世界に知らしめるためだと思う。

高尚な理由がなくたって。

特別に文章が上手くなくたって。

ヘタレだって。ビビりだって。

すぐにグズグズ言い訳する弱虫だって。

書いていい。

「なんっっっっっっっっっっっっっっって素敵な人だろう」と思った。思ったってレベルじゃない。うなったよ。

高尚な理由がないと、書いちゃいけない。
文章がうまくないと、書いちゃいけない。
ヘタレでビビリだと、書いちゃいけない。
言い訳する弱虫だと、書いちゃいけない。

そう思って、「怖くなって書けなくなっている人」がどれほどいることか。そしてこの人のこの宣言が、そうやって「怖くなって書けなくなっている人」の心をどれほど救うことか。


「怖くなって書けなくなっている人たち」を救う。そのために、

「こんな人でも文章を書いていいのだ」と、世界に知らしめるために、私は書く。

とこの人は言った。これさぁ、マジでたくさんの人を救うよ。たとえば、こんな人を。

「うまい人の文章を読むと、もう書くのやめよう」って思う。

書くの、もうやめよう。

そう思った瞬間は何度もある。上手い人の文章を読んだ時、記事が掲載されなかった時、書きたい企画が通らなかった時。つい忙しくなって、連続記録が止まってしまい、いつの間にか書かなくなってしまっていることもある。

でも、言葉を吐くたびに、自分の薄っぺらさをさらしているのに気づかなくなっている。そこに言葉の重みはあるのか。書くことによって、自分の文章が誰かに届くその時。発した言葉に責任を負えるのか。

そうではない、と分かってしまった瞬間、
自分の文章が
薄っぺらなのがわかってしまった。

慎重に書く言葉を選んで、書かなくてはいけない。そうなると、途端に書くことが止まってしまった。あれだけ書くことが好きだったのに、できなくなった。怖くなった。前に進まない。


キッッッッッッツイな(号泣)。

この人の文章は、ちょっと読むのが正直キツイくらい、「わかる」と共感してしまう文章だった。

「うまい文章を読むと負けた気がして書けなくなる」
「自分の言葉が薄っぺらく見える」
「その発した言葉に責任を終えるのか、怖くなる」

とってもとっても理解できる感情だった。ちょっと共感しすぎて読んでる最中、自宅のデスクで椅子に座りながら上を向いてしばらく目をつむった。


さっきは「ぶちのめすつもりで書けるわけあるか~」なんてタイトルで声出して笑ってたのに。今度はこの人の

「うまい人の文章を読むと、もう書くのやめよう」って思う。

という文章を読んで共感しすぎたあまりちょっと涙ぐんだ。

いや、審査してた時さ、私の感情の振れ幅すごかったよ。夕方のニュースで見かける「為替の値動き」ぐらい振れ幅すごかった。上下に動きすぎだったよ、審査してた時の私の感情。


この人は、「うまい人の文章を読むと、もう書くのやめよう」と書いた。

その気持ちはすごくわかるんだよなぁ~~~~。すっごくわかる。

でもさ、この気持ちに負けたらダメだと思った。勝たないといけないと思った。

何も勝つのは、今じゃなくていい。来週でも来月でも来年だっていい。なんなら「今日は勝ったけど明日は負ける」みたいに、毎日勝ち続けなくたっていい。



誰だって落ち込むことぐらいある。私にだってある。だけど、負けちゃだめだと思った。

じゃあ、負けないためにはどうすればいいのか?

私これさ、最近思うんだけど、これが正解なんじゃない?

ある程度は、開き直ること。

良い意味で、適切に、ある程度開き直ったほうがいい文章が書けると思うんだよね。

そう、この人みたいに。

「誰にどう思われようが、知ったことか」

書くことは嘔吐すること。これが一番しっくりくる。

口の中に指を突っ込んで、どろどろと、ざらざらとした吐瀉物をまき散らす。
胃液の匂いも気にならない。

涙、鼻水、汗。体中からあらゆるものが排出されて、それでも私の意識はあふれかえる言葉にのみ向いている。

そうやって、文章を書いている。

私にとって、文章を書くことは趣味であり、排泄でもある。
つまりは、生命活動なのだ。書かなければ私は私として生きられない。

書いていたから、幸せだった。
書いていたから、人と繋がれた。

書いていたから、心を蝕む記憶や感情を駆逐できた。

誰の目にも美しくないと知っている。

もともと、読んでくれる誰かを感動させようと思ったことがない。だってこれは私の排泄物。
腹の奥からとめどなくあふれる吐瀉物なのだから。

そんなものを目の当たりにして、いったい誰が心を動かすというのか。

誰にどう思われようが知ったことか。
私は私が快適に生きるために、今もまたびちゃびちゃと吐き散らすのみ。


野生のプロだと思いました。

いやもう、すごい作品が応募されてきたと思った。この人、きっと何かの賞を受賞したことがあるプロの作家だと思った。


みんな知ってるかな。プロの作家って時々匿名アカウントをつくって思いっきり好きな文章を書いてストレス発散したりするんだよね。

プロになるとね、ある程度世間から「この人はこういうことを書く作家だ」という認識をされるでしょ。そしてプロ本人も、「私はそういうことを書く作家だ」と自分で自分をデザインしなければいけない場面があるんだよね。


それはある程度仕方がないことだ。仕方がないことではあるんだけど、でもこれを「窮屈」と感じるのは人間として当然だと思う。


だからプロはときどき匿名の存在に戻って自由に書けるよう、こっそり新しくアカウントをつくって無名の人間に戻ることがあるんだよね。

「無名に戻りたい」

と匿名アカウントをつくって自由に書いてる作家を、編集者として仕事をする中でたくさん見てきたよ。


だから、この人もそうだと思った。プロがこっそり新しくアカウントを作って無名のnoterを装って応募してきたのだと思った。

いや、実際この人がプロかどうかは、私はもちろん知らないよ。でも、それくらいすごい文章だと思った。


この人が書いてくれた文章の中で、私が一番好きだと思ったのはこの言葉だ。

「誰にどう思われようが知ったことか」

これだ

誰だって文章を書くのは、怖い。

「誰にどう思われるか、わからない」。

だから、書いて公開するのは怖いのだ。その結果、自分を守ろうとびくびくおびえながら「言い訳だらけ」の文章に仕上がってしまう。そういう文章を私は何度も書いてきたし、書いて公開したけど怖くなって下書きに戻したことも何度もある。


だから、すごいと思った。

「誰にどう思われようが知ったことか」

この人はそう断言した。

そう断言した結果、この人の文章は「この人にしか書けない」この人だけの唯一無二の文章になっていた。


いやもうさ、何度も何度も読んだよ。むさぼるように何度も読んだ。何度読んでも、「この人、大好きだ」と思った。



「誰にどう思われようが知ったことか」

決めた。私もちゃんと、この人みたいに「適切に」「良い意味」で開き直ることにする。


もちろん、いきなり「はい明日からできるようになります」とはならないだろう。ならないけど、一歩ずつちゃんと努力することだけはやっていこうと思った。


なんかさ、文章を書いていると「良い子」のフリってどうしてもしちゃうよね。自分をよく見せたい、いい人だと思われたい、頭いいって思われたい。なんかそうやって分厚い厚化粧を自分の文章にほどこしてしまうんだよね。

そんなことを考えていたらさ、同じ想いを抱えている人が一人、いた。この人だ。

本音をさらけ出せる自分になりたいから、書く。

本音を書いているつもりでも、あとから読み返すと冒頭部分のように、猫を被りまくっていることがよくある。

もっともっと自分をさらけ出さないと、わたしはわたしになれない。

いつかすべての殻を破って心の奥底にある感情を表現できるようになるまで、わたしは書き続けるのかもしれないな。

それが、わたしの書く理由。
いまはそういうことにしておこう。


やっぱり、みんな怖いんだなと思った。

本音をさらけ出すことが怖いんだろう。これはみんな一緒なんだ。

あっ、でもね、なんかさ。私はこう思ったんだよね。

「あれ?でもこの人の文章、結構もう殻破ってるように見えるけどな」

って。他の人はこの人の作品を読んでどう思うんだろうか。同じように「もう結構、殻やぶってないかな」って思う人も多いんじゃないだろうか。わかんないけどさ。


この人、ちゃんと自分が思っていることに向き合って、そのことを丁寧に丁寧に言葉にして表現している。良い子のフリをしていない。本音を少しずつ出せるようになってきてる一人の読者として、そう見えたんだよね。


そう見えたことはちょっとうれしかった。

物書きが殻を破る瞬間なんてめっちゃ貴重な瞬間じゃん!!!その貴重な瞬間に立ち会えたような気がしたからさ(笑)。なんだかとってもうれしかった。

この人の今後の作品がすごく楽しみだよ。この人は少しずつ少しずつ。きっともっともっと殻を破っていくのだろうと思った。


でね、この「良い子のフリをしないこと」ってテーマについて、また別の「ものすごく面白い表現」をしている人がいたから見て!!!この人!!!

「いいね」を追い求めないからこそ、いいねをもらえると気づいた話。

ビュー数、フォロワー数、スキ数。

そこを最初は求めました。

相互フォローをすればフォロワーは増えます。

とりあえずフォローしている人の記事をスキすれば、私の記事にもスキを返してくれます。

フォロワーさんが増えると必然的にビュー数も伸びます。

noteでやることが記事を書く、あとは作業としてスキをする。

もちろん読んでいた記事もたくさんありました。

でもあるとき

「これ何が楽しいの?」

そんなことを思いました。

noteを始めたばかりのころの記事と今の記事を比べると、少しずつ変わってきました。

少しずつではありますが自分を良く見せることが無くなってきました。
日々感じたことをありのまま書けるようになってきました。

それに伴い当初意識していた数字面も伸びてきました。

順番が違ったのでしょうね。

数字を求めて打算的に立ち回るのではなく、ありのままの自分を表現した先に数字がついてくる。


おもしろい。おもしろすぎる。

いや、もうさ、今の見た!?ここ!!!



「数字を求めて打算的に立ち回るのではなく、ありのままの自分を表現した先に数字がついてくる」

だって!!


いや私さぁ……この文章にもっと早く出会いたかったよ。もう新卒の一年目の時に出会いたかった。そしたらもっと、編集者として素早く成長できてたのかもなぁなんて思ったよ。すっごく好きだ。この文章。


今「ありのままの自分を表現する」って言葉が出たじゃない。つまり、「良い子のフリをしない」ことって大切だよねって話だったじゃん?

これさ、むしろ「良い子のフリしたって、いいじゃないか」って言ってる人もいてマジで目からウロコだった。この人。

「優等生」な文章だって、別にいいんだ。

文章を前にしたらやっぱり。優等生であり続けたいと思ってしまう。

誰にでも受け止められる、美しい言葉を使っていこうとする。
みんなが「感動しました」って言ってくれるようなことを、書きたいって思ってる。

ああ、でも。
それが私なんだ。
そう気づいた。

だったら、もう、いっそ。
私は「優等生」として、あり続けるぞ!って。
どこまでもマジメに、頑張ればいいじゃないか。


そうか。

優等生であろうとする自分も、確かに自分だ。


それを変えたいと思ったのなら変えればいいし、変えずに受け入れることだって一つの選択肢なんだ。

そうか、何も「優等生であろうとする自分」を全否定する必要もないんだな。その自分でいたいのであれば、そのまま受け入れちゃえばいいんだ。


さっきの人はさ「ありのままの自分を表現する」て言ってたじゃん。で、この人は「優等生であろうとする自分でいい」って言ってるじゃん。



……私の場合はどうだろうか。

どっちをとるべきなんだろうか。私、この人みたいに「優等生の自分」をそのまま受け入れられるだろうか。「優等生の自分」を愛せるだろうか。そんな自分でありたいと思うのだろうか。


たしかにさ、「もっと自由に書きたい。だから優等生でいたくない」という気持ちもある。一方で、「ちゃんと読まれるものを書きたい。そのためには優等生になって立派な文章を書かなくちゃいけない」という気持ちもある。



……どっちを選ぶべきなんだろう。

審査のために一日休みをとって、自宅のデスクでぼーっとモニターに向かい続けてなんかだんだん頭もこんがらがってきちゃった(笑)。

でも、そう思った瞬間、こんな言葉が目に入ってきた。

「自由に書きたい」「読まれるものを書きたい」。そんな相反する気持ちを、両方とも持っていてもいい。

そう書いてくれた人がいたのだ。この人だ。


「自由に書きたい」「読まれるものを書きたい」の両方を持っていてもいい。

わたしにとってnoteを書くということは、地元のファミレスで友だちに「聞いて聞いて!こんなことあってさ〜」と語りはじめる感覚に似ている。

いただいたスキやコメントは、「うんうん」「わかる〜」というような、優しい相槌に思える。

だれとも関わらず「地球上にひとりきりになってしまった」と感じていたメンヘラな気持ちが、少しづつ浄化されていく。

人付き合いが極端に減った元無職のわたしにとって、noteを書くことは、息をするのと同じくらい生きるのに必要なことになった。

喜び、怒り、哀しみ、楽しさ。過去の分も、いま感じていることもぜんぶ。言葉として発する機会がないからこそ、感情を指に込めて、まっしろな画面に文字を打ち込み続けている。

好き勝手に書きたい」という気持ちからはじめたnoteだけど、つながる人が増えてくると「読みたいと思ってもらえるものを書きたい」と考えるようになった。

いまは両方の気持ちを、絶妙なバランスで保つことができている。だから今日だって、こうしてnoteを書き続けられるのだ。


「自由に書きたい」「読まれるものを書きたい」。そんな相反する気持ちを、両方とも持っていてもいい。

この人は、そう書いてくれていた。


あーーーーーーーー!!ほんとにおもしろい!!!(笑)


私、うなったよ。なんでこの発想に至らなかったんだろう。あるときはどっちかに偏っていいし、あるときは絶妙なバランスで真ん中を狙ったっていい。


なんかもうさ(笑)。このあたりから「コンテストの最終審査をしている」というのに、たくさんの人からたくさんの楽しい話と学べる話を聞かせてもらってる気分になってきた。

いや、もうなんか、最終審査の審査員、務めることができて本当にうれしくなってきた。コンテスト、開催してよかったなぁ。


そしてこの人の文章で、私が特に好きな箇所はここだ。

わたしにとってnoteを書くということは、地元のファミレスで友だちに「聞いて聞いて!こんなことあってさ〜」と語りはじめる感覚に似ている。

わかる~~~~~~~!!って思った。そして同時に、めっちゃ好きだよこの文章って思った。



この人はさ、画面の向こうに「生身の人間がいる」ということを深く理解しているんだろうね。だからこんなに優しい思いやりのあふれる文章が書けるんだろうね。

きっと、この人には画面越しの

「一度も会ったことはないけど、大切な友人になれた」

って人がきっといるんだろう。だってこんな風に話しかけられたら、読んでる方もうれしくなっちゃう。私もうれしくなったし。画面越しではあるけど、そりゃ~友人になれるよ、この人なら。


この人のフォロワさんの人数を見にいってみた。

約1,000人いた。全員じゃないかもしれないけど、きっとこの人のフォロワさんはこの人のことを「神様」とか「敵なしのクリエイター」ではなく、「友人」と思っているのだろうと私は思った。


だってこの人の文章が、まるで友人に語り掛けるような文章だったからさ(笑)。

素敵だなと思った。自分とフォロワーさんの関係が「友人」みたいになる。それって、noteって場所で大切な人が新しくできたってことだよね。

でさぁ~!このことについて、素敵な言葉を書いてくれてる人がいたのよ!!この人!!

書くことで、大切な人とつながることができた。

”相手が”書いてくれると

「確実に、これは、私が受けとって良い言葉だ」

と思えるし、

”私が”書く時は

「確実に、これは、あなたに受けとって欲しい言葉です」

と思っている。

「書くこと」を通じて人と健全に繋がれるようになったおかげで、



私は、心からの友人ができ、好きだと思う人達と仕事ができ、パートナーと共に生き、子どもと一緒に成長している、と言える。


私はさっき、「書くことでフォロワさんと友人になれる」と書いたが。この人の場合は友人どころの騒ぎではない。「心からの」友人ができたというのだ。


……いいなぁ。

私とは、正反対だ。



新人編集者だった頃、どんな記事を掲載しても大量の誹謗中傷コメントが書かれた。

「普通の人が一生で受け取る分の中傷」

を、1か月で受けるような人生を歩んできた。痛覚がなくなるほどの中傷を受けてきた。


インスタでは「あなたは神様だ」と言われ、怒り悲しみショックを受けその数分後にはアカウントを削除し、私は書く場所を失った。

そんな私とは大違いだ。この人は、書くことを通じて心からの友人を得たというのだ。


「この人は、私みたいな人生じゃなくてよかったな」

と思った。


この人の他の作品を読んでみた。

「あー、そりゃ心からの友人ができるわけだ」

という作品が掲載されていた。


この人が書いた応募作品も、他の作品も、「この人にしか」書けないことだからこそ友人ができたのだろう。だって「誰にでも書ける文章」だったら「あなたのことが好きだ」なんて思ってもらえないから。


「誰にでも書ける文章」にももちろん価値はある。あるんだけど、当然「自分にしか書けない文章」にもものすごい価値があるよね。

そして、まさにその「自分にしか書けないことを書くぞ」と声を高々に宣言している人がいた。この人だ。

自分にしか書けない、自分の経験を書く。

じゃ、何を発信するのか?」っていったら真っ先に思い浮かんだのが、

「経験から得た学びを伝えたいから、書く。」

ということでした。

noteを書くのも読むのも大好きだけれど、何がそんなに惹かれるのかと言えばきっとこれなんです。

「経験から得た学びをシェアしあえるから」

唯一無二の経験からみつけた教訓は説得力が違うんですよね。


多分さ、この人が伝えたいこととは少しずれてしまってるだろうが、私にはこう聞こえた。

自分が経験した、自分にしか書けないことを書く。そしてそれをシェアしあえることに価値がある。

と聞こえたのだ。


AIが書いたような「誰にでも書ける普通の文章」じゃ、noteというこの場所で誰かに出会ったところで友人にはなれなかっただろう。だって別にそれ、「その人じゃなくても書ける」文章なんだもん。

じゃあその「誰にでも書ける文章」を書いたその人本人に惹かれることって、ないじゃない。



だから、この人が言っている「唯一無二の経験」を書くことって、すごく大切なんじゃないかと思った。

だって「唯一無二の経験」を書くことで「自分にしか書けない文章」ができ上がるわけだから。そのことによって、自分のことを好きだと言ってくれる友人に出会えるんだから。


「自分にしか書けないことを書く」。そしてその結果、この広いWebの世界で誰かと出会って友人になれる。

そのことを「奇跡」と呼び、心からの感謝を書いている人がいた。この人だ。

「スキマ」に出会えた奇跡にありがとう。

 貴方は今どこにいて、どんな状況でこの文章を読んでいるだろう。忙しい日常のわずかな合間、ごくごく短いスキマの時間に、画面を眺めてたりしているのだろうか。画面狭しと並んだ数多くの記事の中から、ちゃんとこの記事を目に留めてくれてどうもありがとう。
 その一押しがどれほど貴重で、書き手にどれほどの感動を与えているか、考えたことはあるかな。スマートフォンが普及してから、一期一会も指先ひとつで完結できる時代になった。スワイプした先が、スクロールの量がほんの少しズレていたなら、お互い巡り合わなかったかもしれない。確率の低さだけを見れば、奇跡と言っても過言ではないと、そう思わないかい?


そうだよなぁと思った。

「スキマ時間に出会えたことは奇跡に近い」。

確かにそうだ。まさに奇跡だ。


だってそのスキマ時間に、自分の文章ではなく他の人が書いた文章を読むことだってできたはずなんだから。

さっきもほら、少し触れたじゃない。そのスキマ時間で、太宰治の文章を、糸井重里の文章を、村上春樹の文章を読むことだってできたはずなんだから。


でさぁ。私ね、すっごく感激したのはここ。この人さ、「スキマ時間に出会えたことを奇跡」と言っているだけじゃなくて、そのことに感謝しているのだ。

「画面狭しと並んだ数多くの記事の中から、ちゃんとこの記事を目に留めてくれてどうもありがとう」

と。スキマ時間に出会えたこと自体が奇跡で、しかもその奇跡を起こしてくれた読者に対して、もうドストレートに「ありがとう」と言う。



「私これちゃんと感謝できてるかなぁ~」と反省した。何度この感謝の気持ちを忘れそうになったことか。いやむしろ今まさに忘れてる瞬間なのかもしれない。

これさ、言語化してくれたこと本当にうれしく思う。それこそ、「ありがとう」だ。「スキマ時間に出会えたことが奇跡で、そのことに感謝する」。これは物書きとして一生忘れてはいけない言葉だ。


そして、この人はこうも書いていた。

 ひと言で『スキマ』といってみても、人によって状況は様々だ。電車の中、病院の待合室、職場での小休憩、カップ麺ができるまで、行列に並ぶ間、あるいは何もしたくなくてスマホだけ手にしている、という時だって。人の数だけスキマの形は違っていて、けれど共通点もある。体そのものは今いる場所から移動できなくても、心まで縛られていない、そんな時間だということ。

 手のひらの上で、ほとんどのことができる。頭の中で、自由に想像ができる。自分の好きと向き合える瞬――『スキマ』とはつまり『好き間』だと、表現できる。心が充足を求める、その一瞬をいただくなら、やっぱり楽しんでもらいたい。満足感を得て、次の別の一瞬へ向かってもらいたい。そうして貴方の心が私を覚えていてくれたなら、そのハートが私の存在を未来につないでくれる。

スキマ時間でどこかの誰かと出会えた上で、「好き」と言ってもらえるような文章を書きたいと。この人は、そう書いたのだ。


何を食べて育ったらこんな人柄に育つんだろうね(笑)。

私なんて、サラリーマンとして編集者をしていたころ。「月間300万PV必達」なんて地獄のようなノルマを毎月課されて、とにかく自分の文章を「クリックさえ、させればいい」なんて思っていた時期すらあった。


あのころの私にとって、読んでくれる人なんてただの「数字」だったよ。クリックさえさせれば良いと思っていた。クリックした後その人がどういう感情になろうが

「知ったことか」

とすら思っていたかもしれない。


スキマ時間でどこかの誰かと出会えた上で、「好き」と言ってもらえるような文章を書きたいと、この人はそう言った。

そんな中で、「スキをする人も、クリエイター」だと言っているとっても素敵な人がいた。この人だ。

スキをする人も、クリエイターだよ。

 人間関係に躓いてばかりの日常に嫌気がさしていた。

 noteは色々なジャンルで文章を書く場所と知って、記事を書くことにした。

 noteでなくてもよかっただろう。

 自分発信を表現する場所を、どのSNSにしたって構わなかっただろう。

 私はリアルと同じ感覚で友達を得られたと思っている。それも、プライベートを詳しく知らなくても何人も存在する。

 人気がある無しは、スキの数じゃないの。

 フォローの数でもない。

 この人の記事を読みたいって、私が思ってスキをつけた人は、最高のクリエイターだと信じている。


……物書きにとって、書くことは生きることだ。

だから、好きと言ってもらえるのは生存を許されたような、もはやそんなレベルでありがたいことなのだ。

だから、この人が言っていることはよくわかる。「スキをしてくれた人も、クリエイター」。


だってさ、スキをしてくれたから書き続けることができるじゃん。スキをしてくれた人がいるから、文章を書くことができるじゃん。だったらもう、スキをしてくれた人も「その文章を一緒に作り上げた」クリエイターじゃん。もうほんと、その通りだよ。「スキをしてくれた人も、クリエイター」なんだよ。


これさ、もしかしたら「スキをする側の人」には完全には伝わらないかもしれないね(笑)。スキをもらえることがどれだけありがたいことなのか、スキをする側の人にはわからないのかも。


いや、なんかさ。最近疲れ切っててツイッターでリプもらってもリプ返信しなかったり、マシュマロで作品の感想をもらっても全部は返信できてなかったり。そういうことが続いていたから、私ちょっと、反省したよ。


「スキをする人も、クリエイター」。この言葉、書いてくれてありがとうね。

この言葉のお陰で、思い出したよ。スキをしてもらうことで、私って生かされているんだなってさ。


私にスキをしてくれる人は「おもしろかった~」って気軽にスキをしているだけなのかもしれないけど。私にとっては、ほんとに生存を許されたっていうそんなレベルだ。だって、私にとって「書くことは生きることそのもの」だからさ。

と、そんなことを考えていたら「書くのをやめたら、死ぬ」とすら言ってる人がいた。この人だ。

生きるために、書く。書かなきゃ死ぬ。

そこからも、体調不良と闘いながら、
「なんとか長編小説の目安である8万文字は達成したい」
「ここまできたら完結させたい」
「10万文字超えたい!!間に合わせろ!!」
と、目標をどんどん高くしていき、結果、全て達成しました。

締切前3日間はほぼ徹夜状態で、一日中小説を書いていました。
最終日は心臓がバクバクし始めて、感覚がなくなり、それでもひたすらにキーボードを叩き続けました。

「(完)」と書いた瞬間、ひっくり返りました。
身体中が冷たくなっているのがわかりました。
今日が人生最後の日かもしれないと思うくらいの、完全燃焼でした。
でも、私が恐れていた、「書き終えたら満足して死ぬ」ということは起きませんでした。
心の奥で、はっきりと声がしたのです。
「まだ死にたくないなぁ」と。

衝撃でした。
今まで、「死にたい」とか、「生きてるのが辛い」ばかりだったと思っていた私の心が、しっかりとそう言ったのです。

がむしゃらに動いていくこの先に何があるのか。
わからないことも多いけれど、確かなこともあります。

私は小説家・漫画原作者になって、本の虫として有名になります。
その上で、憧れの人に会いにいきます。

以前の私に戻るだけでなく、夢を全部叶えるのです。

私は書くとほとんどのことが叶うタイプの人間です。だから、きっと大丈夫だと信じて走り続けます。

私にとって、書くことは生きること。
書くのをやめたら、死ぬんです。


すっっっっっっっげぇな。

と、同時にちょっとうらやましいなって思った。


なんかさ~、やっぱり結局、私はこの人みたいに自分をさらけ出すことができないのかもしれない。ってかさらけ出したことが、ない。そして今後、できる気がしない。だから最初に浮かんだ感想が「すごい」だったし「うらやましい」だった。

いやもう、この人の文章全部読んでみてほしい。すごいよほんと。


私にとって、書くことは生きること。
書くのをやめたら、死ぬんです。

こんなこと、私堂々と言えるだろうか。

そしてこう思った。

「この人に書いてほしい」と。

書いてほしい。書き続けてほしい。書くのをやめたら死んじゃうんでしょ?じゃあ書いてほしい。書いてほしいってのは生きてほしいって意味だ。


そうして、生き続けて、夢を叶えてほしい。
小説家になるという夢をこの人は持っている。
漫画原作者になるという夢をこの人は持っている。
だから生き続けて、夢を叶えてほしい。


なんだか幸せなことだよね。

「生きて夢を叶えてほしい」なんて。そう思える人と、コンテストを開催したことで出会えたのだ。私は幸せもんだ。そう、思った。


そしてもう一人、面白い人がいた。「生きるために書く」とはまた違う表現をその人はしていた。その人は、「生きてるって実感するために書いている」と言っていた。

生きてるって実感するために書いている。

わたしは今のnoteや、手帳、Notion、手書きのノートにも絶えず書いている。書くことをやめない理由がある。それは、

日々の感情、記憶、情景を

何一つなかったことにしたくないから。

普通に生活して、何にも書き残さなければ、日々どれほどのことを忘れてしまっているのだろう。

嬉しかった言葉。
楽しかったという感情。
素敵だなと思った風景。
この雰囲気や料理が好きだなと思ったお店。
ちょっとムッとした瞬間。
ふと思いついたアイデア。
大切な人と訪れた場所。
とてつもなく悔しいと思った出来事。

良いことも悪いことも、時間が経ってしまえばほとんど忘れてしまう。何か思い出すきっかけがない限り。

その思い出すきっかけを、わたしはどこかに残しておきたいのだ。
noteではわたしの内側の感情を外に出してあげている。外に出さなければきっと心の奥に消えていってしまうような儚い感情たち。

訪れたお店や覚えておきたい感情、出来事はノートに写真と文字で残している。そのノートを見れば、わたしの生き様が分かるような。その時の思い出が蘇るような。
そんな日々のカケラたち。

どこかに残っていれば、それをきっかけに思い出すことができる。

一年前は下を向いて歩いていた道。
今では同じ道を、その日の空気感を感じながら、道の脇に咲いている花の名前を浮かべながら、そして時折空を見上げながら歩いている。

ちゃんと一日一日を大切に積み重ねて、ちょっとした事にも幸せを感じながら生きられているな、と。

書くことで、自然と出てくる文字たちがそれを教えてくれている気がする。
これだから、書くことをやめられないんだ。



「良いことも悪いことも、時間が経ってしまえばほとんど忘れてしまう。何か思い出すきっかけがない限り」とこの人は言っていた。


確かに、と思った。私の場合は、「あの時幸せだったな」と思い出すために動画や写真を撮ることが多い。

けど、そうか。たしかに、文字で残すことだってできるよね。しかも、文字には「動画や写真にはできない、その時に自分がどう思ったのか」まで詳細に記録しておくことができる。


なるほどなぁ~と思った。

だから、この人は書くことで「ちゃんと一日一日を大切に積み重ねて、ちょっとした事にも幸せを感じながら生きられている」のか。

これ、めっちゃいいなと思った。私もやってみようかな。noteで書く勇気がないから、また懲りずにインスタで新しいアカウントでも立ち上げるかな(笑)。


でさ、最後の一行見てよ。もうこんなの、まるで映画のラストシーンだ。

「これだから、書くことをやめられないんだ」

こんなセリフ、言ってみたいなと思った(笑)。


「もう、書けない」。

まさに、今。そう思っている私からすると正直アイスピックみたいに心臓に突き刺さる言葉だったけど。


「これだから、書くことをやめられないんだ」。

ってこの人が思っていること。そのことを、本当に良かったなと思う。

うん、そうだね。書くこと、やめないでね。


そしてこの人とは違う表現を使って「同じこと」を言ってる人がいてめっちゃおもしろかった。その人は、こう言った。

モノクロではなく、多彩な“世界”で生きるために、書く。

仕事をこなしているだけの生活は、次第に心を蝕んでいき、ついにはモノクロの世界にたどり着いた。

何を見ても、どこか霞んでいて、耳も聞こえなくなっていった。

職場と自宅の往復で得たものは、彩りの喪失だった。

「書くこと」を通して、過去の自分をゆるし、認めることが、自分への癒しになることを知った。

noteはいろいろなわたしに出逢わせてくれて、他の方の街に訪問することで、新しい世界を知ることができた。


彩りを取り戻すために必要だったのは、自分を知ることだったと気付いた

noteの街での楽しみ方を知ったことも、とても大きく影響しているけれど、わたしの核となっていることは、このひとことに尽きると思う。

モノクロではなく、多彩な“世界”で生きるため。


過去の自分をゆるしながらも、モノクロな世界に転がっていかないために。

自分が、地に足をつけて生きていることを実感するために。

今日も、「書くこと」を続けている。


「職場と自宅の往復で得たものは、彩りの喪失だった」

と、この人は書いていた。すごくすごくよくわかると思った。


これさ、経験ある人どれくらいいるのかな。マジでね、本当に、世界がモノクロに見えるのだ。

私にも経験があるよ、これ。激務でもうズタボロだった頃を思い出してしまった。

いつもの平日の朝。出勤するために駅まで行く途中、何かの虫が目の前を横切ってびっくりしてしまい、立ち止まって上を向いたことがあった。上を確認したら虫はいなかった。すぐにその虫はどこかに行ってしまったのだが、立ち止まって上を向いたことで気づいたことがあった。

桜が、咲いていたのだ。

すごく、驚いた。

桜が咲いていることに驚いたのではない。桜が咲いていることにも気づいていない自分に驚いたのだ。


「モノクロではなく、多彩な“世界”で生きるため」に書く。

この人はそう言っている。この人が今文章を書いているということは、きっと彩を取り戻した世界で生きているのだろうと思う。

ふふっ、よかった。


そしてもう一か所、みんなに読んでほしい文章がある。「そうだよなぁ」と共感した箇所があったんだよね。ここ、ここだよ。ここの文章。

「書くこと」を通して、過去の自分をゆるし、認めることが、自分への癒しになることを知った。


そうそうそう。そうなのだ。


他のnoteでも書いたけどさ。

書くことの治癒力は、本当にあなどってはいけない。絶対に、あなどってはいけないのよ。


書くことで、自分を癒やすことができる。本当に癒やすことができるんだよ。

noteにも「自分を救うために書いている」って人いっぱいいるでしょ。あれはね、みんな必死に生きようとしてるんだよ。

結局、自分を助けられるのは

最後は自分しかいない

ってわかってるから。だからなんとか生きようと必死に書いているんだよ。

自分を癒やして傷を治して。

でも傷を治した後に。

また次の傷におびえながら。

それでも生きていこうと必死に書いているんだよ。


書くことには本当に驚くべき治癒力がある。

……のだけれども、とある人がこの治癒力について、すっごくパワフルな言葉を書いていてびっくりした。この人は、「つらい現実を愛すべき過去にするために書く」と表現していた。

辛い現実を愛すべき過去に変えるために、書く。

夫は人生をあきらめたかのような目をして、リビングのソファーに寝転んでいた。

そこで私はようやく悟る。
夫は鬱だった。

そんな夫に腹を立てるのは馬鹿馬鹿しい、と怒りを捨てる覚悟を決めたとき、ブチリと頭のブレーカーが落ちて、「夫とは働くもの」という認識を脳みそから抹消した。

そこからは書き続けた。Xやアメブロでも『無職夫との生活』をテーマに書きまくり「 "無職の夫を選んだ私の人生” の元をとってやる!!」と、もはや意味不明な闘争心が私の心に湧いていた。

「初めて訪問した者です。ごめんなさい、ご主人とのエピソードを読んで、思わず笑っちゃいました」

こんな一言が私の書く意欲を掻き立ててくれた。

「私の苦労や夫に対する黒い感情が、誰かのクスっとした笑いに変えられたんだ」

おこがましいかもしれないが、当時の私はそう感じた。

傍から見ると平穏な日々を過ごせていないし、実際に身内や親しい人たちから「しなくていい苦労をしている」と言われたことも、かなりあった。

でも私にとって、それらを全て書いてみると「え、私ってむっちゃ幸せやん」と気付くことがままある。

そう考えると、今生きている状況がどんなに辛くてどん底でも、「だから、書く」という精神を持ち続ければ、辛い現実を愛すべき過去に変えられる。
なので私はこう思う。

「書くことは、愛すること」


……すごくないか。

「書くことの治癒力はすごい」ということまでは、私も理解していた。理解していたが、この人はもうそんなとこ通り越して、「書くことで自分を癒やす」どころか「書くことで辛い過去を愛すべき過去にする」ってところにまで到達している。


強い人だと、思った。

強さっていろいろ種類があるけど、この人みたいに、「辛い過去を愛すべき過去にできる」強さというものがあることを知ったよ。


私は

「辛い過去っていうのは屈するためにあるんじゃなくて、むしろ利用するためにある」

と思っている。

辛い過去から学ぶこともたくさんある。そこから得ることもたくさんある。その過去のおかげで成長し変化できることだってたくさんある。だからむしろ

「辛い過去なんて、どうせ起こってしまった事実なんだしそこはくつがえらないんだから、むしろ未来をよくするために利用しちゃえ」

と思っているのだ。


……ん?

あれ、ちょっと待って。

ってことは私、「辛い過去」に感謝してるってことなのかな。ってことはつまり、この人が言ってる「辛い過去を愛すべき過去にできる」強さをもしかすると私はもう持ってるのかな。


この人みたいに、強くなりたいって今そう思ったばかりだけど。もしかするとある程度、私はすでにこの人みたいに強くなりつつあるのかもしれない。

私は「辛い過去なんてむしろ利用しちゃえ」と思っていたけど。それこそがもしかすると「強さ」なのかもしれない。これが、「辛い過去を愛することができる」という強さなのかもしれないね。


でさぁ、また違う人が違う表現をしていてすっごく素敵だったよ。見てこの文章。「ネガティブな自分すら愛せるように書く」とその人は言っていた。

ネガティブな自分すら愛せるように書く。

日記を書き始めてからは愚痴をノートに書いた。気持ちを書くことで自分で自分の想いを聞いてあげる。ネガティブを受け止めること。

書くことで自分の傷は自分で癒せることに気づいた。

他人との交流後、なんであんな事言っちゃったんだろうとか、こんな風に言えば良かったとか、あの時こうすればよかったと考えて一人落ち込む。
でも起こってしまったことは変えられない。この後悔をノートにひたすら書く。そして次はこうしようと思ったことを書いていく。書くことで次に生かせばいい、と自分を前向きにする。

ネガティブな自分をいつまでも放っておかないで、ネガティブな感情としっかり向き合う。ネガティブから学べることは多い。ネガティブの思考は、気遣いができる自分に変えてくれるパワーがある。だからネガティブは悪いものではない。

書くことでどんな自分も受け入れる。ノートにネガティブな感情を吐き出してポジティブ思考に転換する。そうすることで、自分が打たれ強くなっていく。


いやこれ目からウロコすぎない!?!?



なんでだろうね。私、「自分のネガティブな部分」って捨てないといけないと思ってた。

だってネガティブだから。ネガティブは悪だから。悪だから、捨てないといけないと思ってた。


でもこの人は、違う。「ネガティブを受け止める」と言っている。

「書くことでどんな自分も受け入れる。ノートにネガティブな感情を吐き出してポジティブ思考に転換する」

と。

「ネガティブなあなたのままでもいいよ」って言われたような気がした。「そのままで、いいよ」って。



「もう、書けない」。

今まさにそう思っていた自分に突き刺さる言葉だったよ。マ~ジで刺さったよ。

私さ、「もう、書けない」と思った自分を受け止めようとしたことなんて、一回もなかったよ。


「もう、書けない」って自分をなんとしても否定し、なんとしても消えてもらおうと思ってばかりだった。


でも違うよね。「もう、書けない」って思っている自分だって、立派な自分の一部だもんね。そういう自分を受け入れるのは確かに難しいかもしれないけど。でもいきなり全否定するんじゃなくて、まずは「受け入れてみようかな」と寄り添うことも大切なのかもしれない。


この人は、ネガティブを受け入れてポジティブに転換できる人だ。強い人だ。「逆境をこそ楽しめ」なんて言葉があるが、まさにこの人はそれができる人なんだろう。

そうやって、「ネガティブを受け入れてポジティブに転換する」ことは、きっと未来のこの人を救うことにつながるんだと思う。

そう、書くことは「未来の自分を救うこと」につながる。そのことをまさにドストレートな表現で言葉にしてつむいでいる人がいた。この人だ。

未来の私を救うために、書く。

ふとした時に、過去に投稿した記事、下書きに戻した記事を見返すことがある。投稿した記事よりも、遥かに下書きの方が多い私。

それだけ沢山のことを考えては悩み、言語化したと言う証でもあるだろう。そうして大抵は自分の中で、「あの時あんなに苦しんでいたっけ、そんなこともあったよな~」と笑い話になっている。

と同時に「でもあの時を乗り越えられたんだから、今の私が在るんだし、これからもきっと大丈夫」と思える。

過去の私が紡いだ言葉達を、今の私がそっと撫でるように見返す。言葉をぎゅっと抱きしめるように。今の私は過去の私の言葉に救われているし、同時に未来の私を救っている。

そんな、苦しかった過去や、苦しい今の積み重ねを昇華させるために、私は今日も書き続ける。過去の私の言葉に掬われ、未来を私の言葉で掬う。そのために今の私は書く。



「あの時あんなに苦しんでいたっけと笑い話になっている」。この人はそう書いていた。まさに、「辛い現実を愛すべき過去」にしているのだ。さっきの人とリンクしてるよね(笑)。なんかそのことが面白いし、うれしかった。


この人の他の作品も見てみた。「ゆでたまごがツルンと剥けた」なんてnoteもあって、なんだかフフッと心が軽くなった(笑)。


でさぁ、この方の作品を読み終わったところでさ、私いったん休憩をとったんだよね。次の作品を審査しようと思ったところで、ちょっと背中と肩が痛くなっちゃってさ。デスクワークのし過ぎでもう半年も病院通ってんのよ。

背中が痛くなったからいったんデスクを離れて整形外科に行ったのね。整形外科は駅前にあって、私んちから徒歩4分程度で行ける。だけど、病院の場所が駅前だから、大勢の人とすれ違った。



その時に、さっき読んだばかりのこの応募作品に書いてあった言葉を思い出した。

「でもあの時を乗り越えられたんだから、今の私が在るんだし、これからもきっと大丈夫」

って言葉を思い出したのだ。


この応募作品を書いた人に、どれほどつらいことがあったのか。この文章からはよくわからない。わからないけど、この人みたいに「でもあの時を乗り越えられたんだから」と書くレベルのつらい経験を、きっと皆がしてるんだろうと思ったのだ。


整形外科の病院に行くまでに何十人という人とすれ違った。

その一人ひとりが、たとえば職場の人間関係とか、パワハラとか、いじめとか、虐待とか、病気とか、離婚とか。そういう何かと闘って傷ついてきたことが絶対にあったんだろう。いや、まさに傷ついて闘っているその最中なのかもしれない。



「でもあの時を乗り越えられたんだから、今の私が在るんだし、これからもきっと大丈夫」

と書いてくれたこの人は、「未来を私の言葉で掬う」ために書くと言っていた。

でもね、私はこうも思うんだ。未来の自分を救うために書いた言葉が、「同じ思いをしている他の誰かをすら、救うことがあるんじゃないか」って。


この人の他の作品を全部読んだ。なんだか夢中でのめりこんで読んでしまう不思議な魅力があった。

そこでとあることを思い出した。

私が精神医学の博士課程にいたころのことだ。研究者の卵だった私は、たくさんの「心の病と闘っている人」と出会った。

その人たちの多くが、いつも「文庫本」を持ち歩いていた。


なぜ持ち歩いているかは聞かなかった。

なぜ持ち歩いているのか、その理由を知っているからだ。



それは、本を読むことで「つらい現実を一瞬でも忘れることができるから」なのだ。まさに地獄を生きている最中の彼らは、一瞬でもその現実を忘れたくて、いつも本を持ち歩いているのだ。


……そういう「一瞬でも辛い現実を忘れさせるような文章を書けるようになりたい」と。だから、書くと言っている人がいた。この人だ。


つらい現実を忘れさせる文章をつむぎたいから、書く。

TBSの金曜ドラマ『MIU404』。

 コロナ禍真っ只中の作品。コロナ禍にはもちろん、社会人4年目の私は仕事にも心を折られかけていた。
 そんな私が事前情報なしにたまたま観たこの作品に、ハートを射抜かれた。

 息もつかせぬ1時間。うわー! なんだこれ。やばい。最高。

 語彙力をなくしながら、興奮を抑えきれなかった。翌週のドラマを一日千秋の思いで待ち焦がれた。回を重ねるごとに期待をどんどん超えていく。
 あっという間に最終回を迎えた。もう来週からは放送がないんだ。寂しかったけれど、この作品の余韻はずっとある。4年間色褪せずに。伊吹や志摩たち4機捜は、生きてこの世界のどこかで今日も働いていると信じられた。

 いつか、またこの人たちの作品を見たい。そのために生きよう。

そうして4年の月日を経て、今月新作が映画として上映されることは感慨深い。

 私はこの作品に生かされた。お世辞でもなんでもない。本当にそうなんだ。

 あるんだよ。作品が、言葉が命を救うことが。

 人生楽じゃないけど、出会いたいじゃない。人生を変える1本に。

 不要不急と言われたエンタテインメントが、たった1人の「命」を救ったんだ。身を削って作った人たちの作品が。

 私がこれからも書く理由。

たった1人でも、一瞬でも辛い現実を忘れさせるような文章を書けるようになりたいからだ。


この人、すっっっっごいなと思った。



ドラマという、エンタメの作品に命を救われた。そのこと自体は本当によかったと思った。でもこの人のすごいところはこの先だ。

「私も、そういう作品をつくる『側』にまわりたい」

そう書いているのだ。


こんなこと、並大抵の覚悟がないと宣言できない。だって、「この作品に命を救われた」「よかったぁ」で終わるのが普通じゃない。私だってそうだし。

ふふっ、「負けた」って思った。

この人には勝てないなぁ~って思った。


なんだか、とってもうれしかった。負けたことが、全然悔しくない。負かせてもらったことが、とってもうれしい。

この人は、「たった1人でも、一瞬でも辛い現実を忘れさせるような文章を書けるようになりたい」と言っている。ここまでの覚悟を背負って文章をつむぐ人は、きっと本当に命をさえ救う作品を作り出すだろう。

その未来が、すっごくすっごく楽しみだ。



これは完全にただの雑談だけど。

私にもさぁ、そういう作品、あるよ。

その人は自分の日常をよくエッセイという作品にして投稿してくれている。こないだは

「洗濯機が壊れた」

って話をエッセイにして書いてくれていた。


もうさ、死ぬほど面白かったよ(笑)。


「洗濯機が壊れたのでは」というシーンから始まり「ワンチャン、壊れてないんじゃね?」と、壊れたかもしれない洗濯機を接着剤でなんとかしようとするシーンにうつり、最後は「そうだ、洗濯機買いに行こう」で終わっていた。


いやもう、まだ、面白い。

そのエッセイを読んでからもうすぐ2カ月が経とうというのに。

まだ面白いのだ。


こないださ、仕事でちょっと、柄にもなく落ち込んじゃって。クライアントとの打ち合わせが帰りに近所の公園のベンチでぼーっと座ってる時。

なんかふと、この洗濯機のエッセイを思い出してふふっと笑ってしまった。

別にその時はスマホでこのエッセイを読み返していたわけではない。そうじゃなくて、ただふと「あのエッセイおもしろかったなぁ」と突然思い出してふふっと笑ってしまったのだった。


多分そのエッセイを書いた人は、

「この洗濯機が壊れたっていう作品が、画面の向こうにいる誰かを救う」

なんてこと、思ってなかっただろう。


でもね、私は何度も何度も救われたよ。


仕事とか家族とか闘病のことで、しんどくてつらい思いを抱えて一日が終わろうとしている時は、当然私にだってある。でも、その一日が終わろうとしている布団の中で、洗濯機のエッセイを思い出してふふって笑っちゃうことだってあったよ。

つらくてしんどい一日で、「ただの一度も笑うことなく終わるはずだった」その一日の最後の最後で。ふふって笑えたのだ。笑わずに終わった一日なんて、私にとっては

「その日一日は生きていなかった」

に等しい。でもそのエッセイのお陰で、私は「生きてなかった」一日を過ごさずに済んだのだ。


だから思うのだ。

「たった1人でも、一瞬でも辛い現実を忘れさせるような文章を書けるようになりたい」

という、この方のこの書く理由。私、大好きだ。

新作できたら読ませてね。絶対に読みに行くから。


……そういえば、この方は自分自身が救われた作品が「ドラマ」だと言っていた。でもこの方は、「ドラマ」をつくるのではなく「文章」という道を選んでいた。


ここでふと思った。

なぜ、私たちは文章という表現方法を選んだんだろう?



写真だっていい、イラストだっていい、動画だっていい。表現したいことを表現する方法って、たくさんある。

その中で、私たちは文章を選んだ。なんでなんだろう?

と、考えていたら面白いことを言ってる人がいた。

絵や写真や動画ではなく、なぜ文章なのか?

「私は絵を描くことが
 純粋に好きな訳じゃなかったのかもしれない。

 …私って

 絵が上手な人に憧れて
 ”絵が上手くなりたかった” だけの人間だった。

ネット上に投稿する絵を描くということは
自身にとって「本気で描くこと」という特別な行為に
なっていました。

勝手に決めた高すぎるハードルは
いつしか心理的な壁となり、
それはただ創作のエネルギーを
奪うだけの存在でした。


私は自己表現の手段を
失っていたのです。

その日から気づいたら1カ月間、
ほぼ毎日noteへ投稿していました。

改めて驚いたのと同時に、
ふとこんなことを思ったのです。


あれ、もしかして私って
文章を書くことが好き…だったりする…?

今までもずっと隣にいたのに、

「文章で自己表現を楽しむ、もう1人の自分」


の存在に、ようやく気づいたのです。

その気づきの日から、
彼女(もう1人の私)は人生の可能性を広げてくれる
頼もしい相棒となりました。


これさぁ~……私何よりもまず安堵したよ。ほっとしたよ。安心したよ。だって見てよ。この人、本文の中で

私って、絵が上手な人に憧れて ”絵が上手くなりたかった” だけの人間だった。

なんて書いてたんだよ。

自分は、「ただ絵が上手くなりたかっただけの人間」。そのことに気づいたときのこの人のショックはどれほどのものだっただろうか。



だからこそ。

だからこそ、文章で自己表現を楽しめる自分のことを見つけて、その上で「人生の可能性を広げる頼もしい相棒」って言えるこの人が、好きだなぁと思った。良かったなぁと思った。そんな自分自身に出会えたこと、どれだけ幸福だったことか。

なんだか、その幸福をおすそわけしてもらった気分だ。うふふ、うれしい。ありがとうね。


そしてまた別の人はこんなことも書いていた。なぜ、文章なのか?という問いに対して「文章だからこそ」伝えられると言っていたのだ。

「文章だからこそ」自分の思いを、ちゃんと伝えられる。

「伝える手段はいくらでもあるのに、
なんで文章で書くんですかね?」

たった一言でも、
そこに込められた感情や意図を読み取るのは
容易ではありません。

それでも、伝えるために
言葉を選び、句読点を打ち、
時には絵文字や顔文字を添えて、想いを伝えようとします。

試行錯誤しながら、
自分の想いを少しでも正確に伝えようと奮闘するのです。



優しい人だな~~~~~~~~~~って思った。

この人の文章を何度も何度も読んだ。「感情や意図を伝えるために言葉を選び句読点を打ち、絵文字や顔文字を添えて想いを伝える」だって。


わかるわかる。私もだからこそ、文章という表現形態を選んで自己表現してるよ。


そういやさ、私、編集者という職業柄、たくさんの物書きに会うのよね。エッセイスト、小説家、コラムニスト。どの人も超有名な方ばかりだ。彼らがつむぐ文章は唯一無二で、それぞれが全く違う文章を書くんだけど。

だが、彼らには一つ、共通点があるのだ。

あのね、全員ね。しゃべるスピードがものすごくゆっくりなのよ。

どの人も本当にゆっくり、ゆっくり話すのだ。



丁寧に丁寧に。どうすれば相手を傷つけずにすむか、伝えたいことが伝わるか、慎重に言葉を選ぶ。だから、とってもゆっくりしたしゃべり方になる。

あれに似ている。森本レオさんのナレーション。あんな感じの、ゆっくりした丁寧なしゃべり方になるのだ。

これは、相手に対する「やさしさ」や「心遣い」からくるものなのだろうなと思った。


だけど、とある方がまた違った観点から表現をしていてマジですんごく面白かった。この方はこう書いていた。

「時間をかけて、こころと文字を一致させていく感覚が好きなのだ」

と。

こころと文字を一致させていく感覚が好きだ。

そう。わたしは自由に文字になることができるのだ。

人知れずではなく、ここで人様にむかって書くことの意味はそこにある。


文字になると、一気に真剣に伝えることができるってこと。

面と向かうと、どうも真剣みにかける人間だが、文字になるとぐっと締まる。時間をかけて、こころと文字を一致させていく感覚が好きなのだ。

そのぴったり一致した感覚は、どうも「生きてる」感じがする。書くことで生かされている、とでも言おうか。そんなことは、人との間で言葉として言うことはない。

「わたしって、書くことで生かされてるのよ」なんてことは口にしない。聞いた方も「・・・はぁ?」であろう。でも、文字でならすらすら書けてしまう。不思議だ。



ここ!!!!!!ここが本当に面白かった。


「時間をかけて、こころと文字を一致させていく感覚が好きなのだ」

というこの一行だ。


え、これみんな体験したことある?

私こんな感覚、体験したことがないよ(笑)。


頭に浮かんだことをWordにタイピングしてドバっとテキストに起こして、その後読みやすいよう並べ替えているだけ。私のnoteの書き方はいつもこんな感じだ。頭に浮かんだ言葉があまりに大量で手でタイピングするスピードが追い付かないことすらある。


だから、すごくおもしろかった。「こころと文字を一致させていく」という書き方があることに。

そしてこの人はこう続けていた。

そのぴったり一致した感覚は、どうも「生きてる」感じがする。

いやうらやましいわぁ~!!!!私、いつかこういう文章を書いてみたい。


……あ。

今気づいた。


この人のおかげで、私が書きたいことがひとつ増えたわ。


ひとつ増えたってことは、noteからいなくなる時期が少しだけ先になったってことか。いや、それが良いことか悪いことかはわからないよ。わからないけど、一つ増えたのは事実だ。



「ずっと一生この先死ぬまでnoteに居る人」

なんて多分そんなに多くないだろう。きっと皆どこかでnoteからはいなくなる。私もそうだ。死ぬまで一生noteにいるわけがない。

そもそも、noteというプラットフォームがこの先ずっと死ぬまで存在するとは限らない。どんな媒体にだって終わりは来るものだから。cakesだって、もう2年も前になくなっちゃったでしょ。


でも、私が書きたいことはたった今、ひとつ増えた。

「時間をかけて、こころと文字を一致させていく感覚が好きなのだ」

この人がこう書いてくれたおかげで、ひとつ増えたのだ。

なんだか、ちょっとだけうれしいな。書きたいことが一つ増える。そうか、書きたいことが増えるのって、私にとってはうれしいことなのか。この発見は、この人がいなければできなかったな。ありがとう。


あ、でさぁ。今まさにテーマにしている「なぜ、他の表現ではなく文章を選んだのか?」という問いに対して、とっっっっても心優しい答えを書いている人もいたから読んでほしい。

「傷つけたくないから、文章」を選んだ、とその人は言っていた。

他人と自分を傷つけたくないから、書く。

「話すことは、とても不安定」だから

微妙なニュアンスを感じ取ったり、語調から話し手の気持ちを察したり、言葉にならない言葉を汲み取ったりすることは、僕にとって非常に難しいことだという思い・・むしろ観念というべきほどに強い確信めいた”苦手意識”があるのだ。

聴く側でそんなふうに感じているのだから、話す時にはより強くその不安を感じてしまう。

しかし、「書く」ことは明確に違うと感じる。

妙なことだと思われるかも知れないが、僕は電話よりも、LINEやメールで書く方が的確に意図が通じていると感じられる。おそらく、何度も何度も相手の言葉を反芻(読み直し)できるから、自分自身の言葉も反芻されて出てくるのだと思う。また、書いていて「これはちょっと違う」と思ったら消してしまえばいい。

なんで、書くの?

それは例えば話すとか、ほかの手段に比べて、自分の放り投げた言葉で傷ついてしまう誰か(自分自身も含む)が、より少なくなると信じているから。

なのである。

答えになったような、なんにも答えていないような。いずれにしても、僕はひとり納得した思いがする。長々と独り言に付き合っていただいたとしたら、それは大変ありがたいことだし、書くことを肯定されていると信じられる。

これからも、書いていきたい。

もとい、これからも、書いて生きたい。


これさぁ~……。すっごいよね。


「話すとか、ほかの手段に比べて、自分の放り投げた言葉で傷ついてしまう誰か(自分自身も含む)が、より少なくなると信じているから」

ってこの人は言ってるんだよね。だから、文章という表現方法を選んだって。


ねぇこれさ、「文章ならば人を傷つけずに済む」ってことは逆を言えば「人を傷つけたくないなら文章を選ぶ」と解釈することもできるよね。


これめちゃくちゃいい発見じゃない!?


たとえば夫とか、妻とか、子供とか、親とか。誰か身近な人とケンカしちゃうことってあるじゃない。そういう時、自分が伝えたいことを「声で」伝えちゃうと、いらんことまで言って相手を傷つけちゃったりするよね。


だから私、夫とマジもんの夫婦ゲンカする時は、実は声でケンカしないのよ。

いったん、二人とも家から出てそれぞれカフェとか図書館で頭を冷やして、「相手に伝えたいこと」をパワポにまとめて、で、それをプレゼンしてるの。


いや冗談じゃなく、マジで。


これ本当におすすめだよ。夫婦喧嘩をディベート方式にしたら、今まで8時間くらいかかってたケンカが十数分で終わるようになったもん。

だってパワポを使うってことは文字を使うってことでしょ。文字にすると、

「声で言う前に、自分がまさに言おうとしていたこと」

を自分の目で見ることになるのよ。すると、途端に「これは絶対に言っちゃいけない」って気づくんだよね。だから、相手を傷つけずに済む。


そう、文字なら人を傷つける危険性が「声よりも」減る。だから、人を傷つけないためにも文章という表現を選ぶ。

それって素敵なことだなと思った。


……が。


ここでとある人が恐ろしいことを言っていた。その人は、こう私に話しかけてきた。

「でも、あなたがその書いた言葉は、遠い未来にまで運ばれていくよ」、と。

書いた言葉は遠い未来にまで運ばれていくよ。

なにかを「持つ」ことは、諸刃の剣です。
同じ刃物で、人を脅すこともできれば、美味しい料理をふるまうこともできる。
同じように、言葉で人を傷つけることもできれば、癒すこともできる。
奪うこともできれば、与えることもできる。
文字を持った私たちは、それを心して使わなければと思います。

「書き言葉」は、遠くまで運ばれます。
「書き言葉」は、未来の言葉となります。
「書き言葉」は、多くの人に影響を与えます。
時代が進んでいくほどに、より遠くまで、より時間を超えて、より多くの人に──文字は運ばれていくでしょう。
そのとき、その文字がどんな世界を描きだすか……は、わたしたちが「なにを書いていくか」次第なのです。


こんなに優しい言葉でつむがれた文章なのに。

私はすごく怖くなってしまった。


自分が書いた文章の責任は、自分で負う。それが書き手として果たすべき責任だ。そういう覚悟で私は文章を書いている。

だが私がいなくなった後はどうだろうか。

私が書いた言葉を読んで、遠い未来の誰かが傷ついたとしても。私は責任をとることができない。



あのさ、こないださ、私実家に帰省したんだけど。

帰省中すんごくヒマだから実家で読書してたのよ。そのとき読んでたのは魔女狩りに関する本だったのね。

私は歴史オタクなので世界史の本を読むのが趣味なのよ。でも、その実家で読んだ本がもう本当にショッキングだった。

高校で世界史を専攻していた人なら授業で習ったことがあるだろうが、魔女として認定された人間は火あぶりにされる。

映画などでは火あぶりにされた魔女は一瞬で焼き殺される。ジャンヌダルクの映画とかそうだよね。火あぶりでの処刑は一瞬で終わる。

……だけど実際は、一瞬では、済まないのだ。


※注意書き
この後すごくショッキングなシーンとセリフが出てくるから、メンタル弱ってる人はブラウザバックかここのパラグラフをちょっと飛ばすかして自己防衛してね。



その本にはこう書かれていたのだ。

火あぶりにされる魔女は、炎で焼かれて絶命するまでに早くて20分、もう少し時間がかかる場合は50分ほどかかるそうだ。

映画のように、一瞬で燃えて死ぬことはないのだ。


だから本当に、本当に、本当に、苦しんで死ぬことになる。そしてその本には、「魔女として火あぶりになった」人が火刑に処されている時に言った言葉が書いてあった。

足元にはたくさんの薪。その薪がすさまじい勢いで燃えている。そして自分はその炎で焼き殺されている最中だ。その巨大な炎でまずは「体の前側」を何十分もかけて焼かれ続ける。


凄まじい勢いの炎で焼かれ続けている。殺されている最中の、まだ生きているその人は、こう、言ったそうだ。


「どうか、薪をもう少し、足してください」


と。


その時実家にいたから、私はすぐに和室に行った。和室には仏壇がある。仏壇にはお線香に火をつけるための100均のライターが置いてあった。

ためしにそのライターの火を自分の指に少しだけ近づけてみた。ちょっと近づけただけでも、熱くて痛くてもう本当に無理だった。


……魔女は全身を炎で焼かれて処刑される。まずは体の前側を焼かれる。それでもまだ生きてるから今度はひっくり返されて体の裏側を焼かれる。数十分かけて強制的に死を選ばされる。そうやって火刑に処された「魔女」が言った、あの言葉がもう、あまりにショックだった。


魔女狩りがあったのは15~17世紀のことだ。数百年も前ともなると、価値観が現在とはまったく、違う。

だけど、当時としては魔女が火刑に処されるのは普通の価値観だったのだろう。だから、私が読んだ本にもサラっと書いてあった。

「どうか、薪をもう少し、足してください」、というセリフが。

本当に普通の「日常のワンシーン」として記録に残されていた。



そうか。私が今書いている文章はもしかしたら何百年と残るのかもしれない。そして、その時に、人を傷つけるかもしれない。



……言葉の責任って、どこまで負えばいいのだろうか。

少なくとも何百年も経っていたら、私は当然この世にいない。だから、責任のとりようがない。

もちろん、そんなことまで考え始めたら絶対に書けなくなる。ある程度開き直って「そこまで責任持てません」と割り切って書くことが多分正解なのだろう。


だとしても。言葉の責任は重い。

発した言葉は相手にどう受け止められるか、発するまでわからない。たしかに話言葉よりかは、慎重に言葉を選ぶことが文章にはできる。できるけど、その慎重に選んだ言葉ですら誰かを傷つけることが絶対にあるのだ。


やっぱり、怖いなと思った。


この恐怖がどんどん大きくなっていったら、きっと書けなくなる日が来るんだろう。そしてその日はきっと近いんだろう。

でも、そんなことを考えていたら、「そんなことないよ」と言ってくれる人がいた。

「いつかは書けなくなるだろうけど、それは筆を折るってことではないよ」と話しかけてきてくれた。この人だ。

いつかは書けなくなるだろうけど、それは筆を折るってことではない。

そして2024年。私はnoteに出会います。


始めは武装に武装を重ねた、白々しい、AIが書くみたいな文章を書きました。全然スキとかもらえないし、誰の役にも立っていないことがよく分かる文章でした。

noteを始めて、たった1か月で書けなくなりました。先輩noterの「書く」ことへの情熱を目の当たりにしたからです。
「書きたいこと」を「届けるため」に全裸になって、命を削って書いてる。


noteにはそういう人がたくさんいました。
そこから私は変わり始めました。

私は今、火山が噴火したような状態です。

27年間溜め込んだ「書く」というマグマがドッカンドッカンと溢れて止まりません。
子ども達の今を文字にしたい。
過去の忘れられない出来事も文字にしたい。
誰も共感できないと思ってた自分の経験が、感覚が、どこかの誰かの「自分だけじゃなかった!」という救いになるかもしれない。
書きたいことは次から次へとうまれてきます。

このマグマは、いつまで続くのか……。
続く限り、書き続けたい。本当は。

だけど、いつか止まる時が来る。
とても悲しいことにそれは確信に近いものでもあります。たぶん、いつか書けなくなる。

私の活火山はそういうんじゃなく、きっとどこかで止まってしまう。
だけど、それは筆を折るってわけじゃなく、またマグマを溜め込む段階であれ、と願っています。


……こんなこと、考えたこともなかった。

「いつかは書くのをやめる日が来るかもしれない」。でも、それは「マグマをため込んでいる段階だと願う」とこの人は書いた。また再び、噴火するためのただの準備期間だと。この人はそう言ったのだ。


そういえば、ジャンプする時もそうだよね。

高くジャンプする前は深くしゃがむ必要がある。深くしゃがむから高く跳べる。

だから、私にいつか「文章を書けなくなる日」が訪れたとしても。それは高くジャンプするために「今だけ」しゃがんでいる。

ただ、それだけのことなのかもしれない。


そして、別の人はこうも言ってくれた。「書く意味は、変化してもいいんだよ」と。


書く意味は変化してもいいんだよ。

愛があるから、書く。自分の言葉で。
時間をかけて、命を削って、書く。

おまえなら書けるよ。

呪いのようだった担任の言葉が、今ではお守りになっている。

書きたいことがある。
向き合いたいことがある。
そして、伝えたいと思う人がいる。
だから今も、これからも、書き続けるんだ。


深く向き合いたいことがある人生って愛おしいね、先生。

生きていけば、これからも変化していくだろうか、自分にとっての「書く意味」が。
理解を深めていきながら、その変化も楽しみ続けたい。


この人すごいな~って思った。

そもそもさ、変化って、怖いと思うんだ。

だって現状維持するほうが楽じゃん。安心じゃん。簡単じゃん。

でもこの人は、「自分が書くことの意味は変わっていくかもしれない」と書いた上で

「その変化を楽しみたい」

と言っている。

……度量が、すごくないか。



私にとっての書く理由は「伝えたいことがあるから」だ。でも、なぜか私は、

これが「唯一絶対の、私にとっての書く理由」だと思っていた。書く理由は一度決めた以上「変化してはいけないゆるぎないものであるべきだ」と、なぜかそう思っていた。


でも、そうじゃないのかもしれない。

書く理由なんて、もしかしたら変化していくものなのかもしれない。変化するのが当たり前なのかもしれない。そして、その変化をすら楽しんでしまっていいのかもしれない。


……やっぱりさーーーーー。

ここまで書いて、私思ったよ。

私は怖かったんだ。

書けなくなることが怖かったのだ。


神様だのカリスマだの知らぬ人はいないnote界の有名人だのと言われ、(もちろん悪意がないことは十分に理解しているが)、その重圧に耐えられなくなりそうだったのだ。

もうすぐ、書けなくなる。そう確信した。怖かった。だから助けてほしかった。助けてほしいから、書けなくなる前にみんなに「なぜ書くのか」を聞いてみたんだろう。

そしたら、ある人がこんな言葉で話しかけて来てくれた。その人は私にこう言った。

書くことに、目的なんてなくていい。

生きることに目的地がないように、
書くことに目的地がなくたっていい。
心が自由であれば息がしやすいように、
書くことが自由であってもいい。
私はそう思います。

もし、どうしてもあなたが理由を求めるなら、
あなたの人生を彩るために書いて欲しい。

白い画面でも、白い紙の上でもいい。
文字は黒くたっていい。
そこに、人生を彩るたくさんの文章を残して欲しい。

誰かと過ごした思い出や、
目に映る美しいもの。
悔しくて悲しくて涙したことや、
あなたが学んだこと。
頭の中の突飛な出来事や、
ありふれた日常。

それらは全て、あなたの人生を彩るはずです。
人生にページがあるのなら、何ページだって、懲りずにたくさん書き残してください。

それが、あなたの書く理由です。


……目的なんてなくていい、だって。

書くことに、目的なんてなくていいんだって。


力が、ふっと、抜けた。

結局、私をがんじがらめにしていたのは私自身だった。「書く理由はコレだ」と決めつけて、その書く理由に縛られ、そしてその書く理由だけ「しか」見ていなかった。

「書くことに、目的なんてなくていい」

もはやこの人が書いたこの言葉は、救助活動だと思う。


海のど真ん中でゴボゴボおぼれそうになってる私のところにやってきて。

酸素ボンベを渡してなんとか溺れてしまわないようにするのでもなく。

とりあえず浮き輪を渡してなんとか溺れている状態から救うのでもなく。

上からヘリでやってきてハシゴをたらしグイっと手をひっぱってそのままヘリにのせて陸地に運んでくれた。


そんな気持ちになった。


すごいな。文章で救助活動なんて、できるんだ(笑)。そんなことができるなんて、知らなかった。

この人、洗濯機のエッセイで私のことを何度も救ってくれたのに私またもや救われちゃったよ。何回救助されるんだって話だよね(笑)。救助する側からすると「またあなたですか!?」なんて言われちゃいそうだ。


書くことに、理由なんて、なくていい。

この言葉のおかげで、海で溺れていた自分がやっと陸に戻ってきた気分だ。

私は、陸に戻ってきた。

ここから先は、自力で自分の道を歩むしかない。

そう思った矢先に、私の背中を押す言葉を書いてくれた人がいた。この人だ。


あなたを救えるのは、あなたしかいない。


誰かにアドバイスを求めたくなる気持ちは分かります。「誰かが助けてくれないかな」と楽観的に考えたくなる気持ちも分かります。「だって、どうにもならないの」と諦めたくなる気持ちも、何らかの癒しを求めて、自分の状況をごまかしたくなる気持ちも分かります。

でも、あなたを救えるのは、あなたなのです

今、これを読んでくれているあなたも、何かに苦しんでいるかもしれません。何かに深く悩み、明日が来なければいいのにと祈っているかもしれません。あるいは、これからそんな日が来るかもしれません。そんな時には、もちろん、私もあなたのために何かをしてあげたい。でも、何もできないのが現実です。

きっと、あなたが苦しむことで、涙を流す人がいるでしょう。でも、あなたを救えるのは、あなただよ、と私は伝えたい。私にできることは、ここまでです。文章にできることも、ここまでです。でも、「自分を救えるのは自分だ」と知ったあなたには、それ以上のことができるのです。



「海で溺れててそこから救助されて陸に戻ってきたんなら、あとは自分で歩きな」。

そう、言われた気がした。

その通りだ。すんでの所は助けてもらった。陸地に戻してもらえた。でもここから先は、自分のことを救えるのは自分しかいないんだ。



もうすぐ、書けなくなる。

そう確信した。だから怖かった。書けなくなる前に、みんなの「書く理由」を知りたかった。

これってさ、今考えると選択肢を増やしたかったのだろうと思うよ。「書く理由」をたくさん聞いて、自分の中で「こういう理由で書いていいんだ」という選択肢を増やしたかったのだろう。

その増えた選択肢の中に、自分を助けてくれる「書く理由」があるんじゃないか。多分どこかで、そう思っていたのだろう。だからみんなに「なぜ、書くのか」を聞いたのだろう。


だけど、

「選択肢はほしがるくせに、選択はしたくない」

というのが人間ってもんだ。



もれなく、私もそういう人間の一人だ。選択肢はほしいが、選択はしたくない。だって疲れるから。つらいから。大変だから。だから選択したくない。選択という行動からは誰だって逃げたくなるものなのだ。

だけど、結局。選択肢を増やしたところで、最後の決断をするのは自分しかいない。



「なぜ、書くのか」。

今回このコンテストを開催することで、たくさんの「書く理由」を教えてもらった。こんなにもたくさんの選択肢をもらうことができた。だけど、その増えた選択肢の中から、何をどう決断するのかは結局自分自身だ。


だから、

「あなたを救えるのは、あなただよ」

というこの言葉の意味が、今の私にはものすごく深く理解できる。



そして最後に。みんなからもらえた選択肢の中で、もっとも強烈だった作品を見てほしい。その人は、私にこう伝えてくれた。

書くことをやめても、いいんだよ。


ああ、何かを書くってほんとうに楽しい。

例えるなら、本屋に行って適当に手に取った本が自分の超ドストライクで、心がギューッとなる、あの感覚。
一般的に言うなら、恋をしている感覚に似ている。

これを書いている今も、心がギューッとなって苦しい。

どうやら、私は『書くこと』がとっても好きらしい。
それも、恋をする程に。

いつかこの恋が終わって、自分が書いた文章に面白さを感じなくなって、『書くこと』をやめてしまう日が来るかもしれない。
でも、その時は『書くこと』に感謝して、潔く次に進むから。
それまでは、全力で恋し続けるね。



なんだかもう、泣いてしまった。

素敵な人だと思った。

「ああ、何かを書くってほんとうに楽しい」とこの人は言った。

「書くことに恋をしている」と言うほど、書くことが大好きなのだ。

でも、そんな大好きなことをやめる日がきても。

書いてきたことに感謝して、次に進むんだってさ。



ねぇ私さぁ、今気づいちゃった。

「もう、書けません」って実はさ。

祝うべき「卒業」でもあるんじゃないかな。


確かに、つらいよ。もう書けないんだから。書くってことと、別れるんだから。つらいよそりゃ。

でもさ、この人みたいに「書くことをやめる」日が来た時に。書いてきたことに感謝して、潔く次に進む。

そういう風に「卒業」として祝うことだって、できるんだよね。



「あなたは私の神様です」

インスタグラムであのコメントをもらったあの時。

アカウントを、私はすぐさま削除した。

何のためらいもなかった。

もうここに私の居場所はないと思ったから。


「神様なんだから神様らしい文章を書いてね」なんて強要される場所に、はっきり言ってもう用はない。私がいなくなっても、私をフォローしていた人たちは「あれ、あの人インスタやめたのか」で終わると思ったし。私がいなくなっても悲しむ人なんて、ただの一人だっているわけがない。


私は、透明な存在でありたかった。

「いやお前誰?」って言われるくらいが私にはちょうどいいのだ。「誰もが知ってる有名人」「note界のカリスマ」「向かう所敵なしのクリエイター」。

こんなこと、望んでない。

この重圧に私は耐えることができない。

だから、私は透明な存在でありたかった。

私は「お前誰?」って言われるぐらいがちょうどいいんだよ。モブでいたいんだよ。透明な存在でいたいんだよ。「その他大勢」から引きずりだすなよ。もう一体なんなんだよ。「あなたは私の神様だ」なんて勝手に崇め奉るなよ。また私から、書く居場所を奪うのかよ。もうふざけんなよ。



今思うと。

「あなたは私の神様です」とインスタで話しかけてきたあの人は、私のことを「ネットの人」だと思っていたんだろう。

ネットの中にいるアバターみたいな感覚で私のことを扱っていたんだろう。私は、現実に存在している普通の「人間」なのに。現実にいる人間だと思っていなかったんだろう。


だから、神様扱いされて相手がどんな気持ちになるか考えもしなかったんだろうな。

「ネットの人」だから、現実には存在しない。現実に存在してないから、相手の気持ちを考えずに言葉をなげつけていい。そう思っていたんだろう。

「私のことを『ネットの人』扱いしやがって」。

正直、その怒りは今でも私の中にじんわりと残っている。



今回のコンテストでは、たくさんの失敗をした。たくさんの人を傷つけた。たくさんの人を巻き込んだ。コンテストの責任者として、果たすべき責任を果たすことができなかった。


責任を果たせなかったことについての、お怒りのメールも先週もらった。でも、お怒りメールなのにその人はメールの最後にこういう意味の言葉を書いてくれた。

繰り返しになるけど、コンテストを開催してくれて、本当にありがとう。

次は、華さんにすごいと思ってもらえるような記事を必ず書きます。

って。

原文をそのまま載せるわけにいかないから、「こういう感じの文章だったよ」としか書けないんだけど。

原文はもっともっとすごく丁寧で優しくて気づかいにあふれてたよ。



コンテストの責任者としてちゃんと責任を果たさなかったことについて、もちろんその人は怒っていたし、私も怒りをぶつけられて当然のことをした。けど、その人はメールの最後にこうやって感謝の言葉と

「次こそは華さんに読んでもらうぞ~!」

という言葉を書いてくれたのだった。

ありがたくて、うれしくて、丁寧に丁寧に返信を書いた。金曜日のことだった。返信はこないと思っていたけど、このお怒りのメールを送ってくれた人は、返信をしてくれた。



金曜日の夜に返信が来ていた。きっと一週間仕事を頑張って疲れているだろうに、すごくすごく丁寧な返信をその人は私のためだけに書いてくれたのだった。

すごく丁寧な言葉で長文でさ。どれだけの時間をかけて書いたのだろうと。そう思うとうれしくて仕方がなかった。そしてその人は最後にこう言った。

「コンテストを開催したこと、後悔だけはしないでほしい」
「コンテストを開催してくれたこと、改めて本当にありがとう」

と。そう私に言ってくれたのだった。


もう、本当に。ここ一週間はたくさんのメッセージをもらった。


プライベートで本当にバタバタされている状況なのに、

「華さんが、その輝きを失いませんように」
「決して、ご無理をなさいませんように」
「心身休められる場所と時間、どうぞ確保してくださいね」

という言葉を送ってくれた人もいた。




コンテストの中間選考で落ちたというのに、東北に行く新幹線の中で私を励ますメッセージをくれた人もいた。私は、コンテストで失敗したことに関して反省はしているが落ち込んではいなかったのだが、その人はたくさん励ますメッセージをもうスクロールする手が追い付かないくらいのびっしりの量で、すごい熱量で送ってくれていた。

そして、そのメッセージには最後に、

「華さん、大好きですよ!」

とド直球で書いてあった。ちょっぴり照れたけど、うれしかった。



「華さんのお心が疲れてるんじゃないかと心配になった」と、サポートをくれた人もいた。サポートの金額が高額で驚いた。870円だった。

「華さんの『ハナ』(87)にちなんで、870円にしました!コンビニでお茶でも買って休んでください!」

という言葉が添えられていた。



一人の社会人としてメッセージをくれた人もいた。私がコンテストで失敗をし、その失敗の責任を果たそうとする姿を見て、

「一人の社会人として、華さんの行動に感銘を受けました」

ととても長く丁寧な文章で書いてくれていた。育児や仕事で忙しい合間を縫って、私のために、私のためだけにこんな文章を書いてくれたのかと思うと本当に涙が出た。



とある方はこんな言葉をかけてくれた。

「華さんを信じて、華さんに惹かれて、憧れて、文章を書き続けている人がたくさんいます」

と書いてくれていた。だからコンテストを開催したことを後悔しないでほしいと言ってくれた。

いや、ちょっと危なかった。結果発表のこの会場で「後悔してます」とちょっとだけ書こうか迷っていた所だったのだ。この人は、そうやってまた間違いを犯そうとしていた私を諫めてくれた。

「コンテストを開催したこと、後悔してます」

なんて。そんなこと書いちゃだめだ。このメッセージをくれた方、参加しれくれた方々、コンテストを見守ってくれた人たちに対して、すごく失礼なことだ。

この方が諫めてくれなかったら、この結果発表の会場がお通夜みたいな場所になるところだった。危なかった。

諫めてくれる人がいるってことって、ありがたいなぁ……。私、幸せもんだよ。



それと、なんとゴディバのチョコを差し入れしてくれた人もいた。

「美味しいものをたくさん食べて、休めるときにゆっくり休んでください」

ってその人は言ってくれた。「休んでください」じゃなくて「休めるときに休んでください」と書いてくれたことに、その人のやさしさと人柄がにじみ出ていた。

「ギフティ」というサービスを使えば、こうやってWeb上でゴディバのチョコなどを差し入れをすることができるそうだ。初めて知った。

このコンテストの結果発表を無事に終えたら、ゴディバの店舗がすぐ近くにあるからワクワクしながら受け取りに行こうと思っている。それが今の一番の楽しみだ。



コンテストで落とされ、私のせいで落ち込ませてしまったとある人は、

「華さん、聞いてください!いつか自分が叶えたい野望リストに、新しい項目を作ったんです!」

とメッセージを送ってきてくれた。その野望リストに追加された項目は、「いつか元気になったら、華さんに会いに行く」というものだった。

とっっっっても、うれしかった。

「じゃあその時はおいしいもの、二人で食べに行きましょう!」

と返信をした。その時がとても楽しみで楽しみで。何を食べに行こうかどころか「何着ていこうかしら」と今から考えてしまうくらいだ(笑)。


もうね、ここに書ききれないほど、たくさんのメッセージをもらった。

書ききれない。書ききれないよ。

もう本当に書ききれないほどもらった。



たくさんのメッセージをもらって、私、改めて気づいたよ。「画面の向こうにいるのは生身の人間だ」と。生身の、現実にいる人たちが、自分の命ともいえる時間を削ってメッセージを送ってきてくれたのだった。


インスタグラムで「あなたは私の神様です」と言われ、

「私のことを、まるで現実に存在しないアバターみたいに、『ネットの人』扱いしやがって」

と、怒りと恐怖でアカウントを削除した自分だったが。


……なんてこった。


他人を「ネットの人」扱いしているのは、私のほうだった。


だってこんなにたくさんの人から励ましや温かいメッセージをもらって、異常なほど私は驚いたから。

これがさ、「たまに飲みに行く大学の友人」からのメッセージだったら、ここまで驚きはしなかっただろう。

だってその友人は現実に存在しているし、私のことを友人と思ってくれているし、私が大変な時は声をかけてくれる。だから、友人が声をかけてくれたら「うれしいな」とは思うけど驚きはしないだろう。


ところが今回は驚いた。

数えきれないほどの人たちが私にメッセージを送ってくれた。そのことに異常なほど驚いた。

そこで気づいた。他人を「ネットの人」扱いしてるのは、実は私自身だったって。他人を「ネットの人」扱いしているから、その「ネットの人」たちからすごい数のメッセージをもらって異常なほど驚いたのだ。

だって「ネットの人」たちだから。現実には存在しないアバターみたいなものだから。存在しないアバターからメッセージ来たら驚くでしょ。そんな感覚だ。だから、メッセージをもらえたことに「異常なほど」驚いたのだ。


私は自分が「ネットの人」扱いされて怒り、悲しみ、ショックを受けたけど。結局他人を「ネットの人」扱いしてるのは自分自身だった。私自身が、他人を「ネットの人」扱いしてたよ。



今回のコンテストを通じて、たくさんの学びがあった。

「このコンテストはみんなへの恩返しだよ」

なんて、コンテストの参考作品の中で書いたけど。結局このコンテストで一番成長させてもらったのは私自身だった。

今回のコンテストでたくさんのことを間違えた。たくさんの人を傷つけた。たくさんの人を巻き込んだ。コンテスト責任者としての責任を果たせなかった。謝罪のnoteも出した。


そしてたくさんのご意見をもらった。意見も本当にさまざまだった。

たとえば、「センシティブなテーマとは何か」ということに関して意見を述べている人もいれば、「noteは自由に書いていい場所」ということに関して意見を述べている人もいた。そしてそれぞれのテーマに対して、みんなそれぞれ違った意見を持っていた。そして、私はそのどれも間違っているとはもちろん、まったく、思わない。



私はたくさんのことを今回のコンテストで学んだ。その中でも一番深い学びだったのが、これだ。

「なぜ、私は書くことができているのか」。

この答えがわかったのだ。


「なぜ、書くのか」がわかったのではない。

「なぜ、書くことができているのか」がわかったのだ。



なぜ、私は書くことができているのか。

読んでくれる人がいるからだ。イイネをしてくれる人がいるからだ。感想をくれる人がいるからだ。応援をしてくれる人がいるからだ。まっすぐに大好きだと言ってくれる人がいるからだ。諫めてくれる人がいるからだ。「華さんに会いに行くのが野望です」と言ってくれる人がいるからだ。「心が健やかでありますように」と願ってくれる人がいるからだ。「コンテストを開催してくれてありがとう」と言ってくれる人がいるからだ。「休める時に休んでください」とか、「社会人として感銘を受けました」とか、「コンテストを開催したこと後悔だけはしないで下さい」とか、そう言ってくれる人がいるからだ。


このコンテストの名前は「なぜ、書くのか」だった。

しかし、結果として私が学んだのは「なぜ書くのか」ではなく「なぜ私は書くことができているのか」、だった。


この学びは、大きい。

あまりにも大きく深い学びをもらうことができた。




……あれっ?

なんか今思ったんだけどさ。

そういうコンテストあったら素敵じゃない?(笑)

「なぜ、私は書くことができているのか」

っていうコンテスト。


こんなコンテストがあったら、きっと感謝の気持ちにあふれた優しいnoteがたくさん応募されてくると思うよ~!

「この人のおかげで、書くことができている」

って。優しくて心あたたまる温泉みたいなnoteといっぱい出会えるよ。

こんなコンテスト、もしあったら私、審査員でもないのに応募作品を全部読んじゃうかも(笑)。



あ、ってかアレじゃん。別にコンテストじゃなくてもいいよね。

noteってほら、勝手に新しくタグをつくることができるじゃない。だから「 #なぜ私は書くことができているのか 」ってタグつくってみんな自由に書いちゃえばいい。

このタグで投稿されてる作品見つけたら、ヒマな時にふらっと読みに行くから書きたい人、ぜひ書いてみてよ(笑)。


……ふふっ、みんなさ、考えたことある?

「なんで、自分は書くことができているのか」

これ考えるの、とっても幸せだと思うよ。「あ、この人のお陰だったわ」って気づいたり思い出したりすることができる。そうすれば、その人に「ありがとう」って言えるでしょ。

それって、素敵なことだよね。



【追記】

#なぜ私は書くことができているのか 」ってタグつくってみんな自由に書いちゃえばいい。

ってこのnoteに書いた数時間後にはもうすでにいくつかこのバーチャルコンテスト(?)に応募作品が投稿されててめっちゃ驚いた(笑)。


このタグでみんな好きに作品書いてみてよ!絶対楽しいよ~!!(笑)

私も時間見つけて読みに行くから!



【お知らせ】賞を増やしました!


さて!ここまで読んでくれて、本当にありがとう!

ここからは受賞コメントの紹介を……と、その前に。


賞を増やしたこと、アナウンスしておくね。事前に告知した通り、今回は賞を増やしました!こんな風に賞を増やしたのでちゃんと説明するね。

まず、もともとは大きな賞が2つありました。

・グランプリ……10,000円(私の自腹)
・準グランプリ……30,000円(頂いたサポート)

これを、以下のようにしました。

・グランプリ……10,000円(私の自腹)
・準グランプリ……10,000円(頂いたサポート)
・準グランプリ……10,000円(頂いたサポート)
・準グランプリ……10,000円(頂いたサポート)

そして、新しく「特別賞」を2つ用意しました。

・特別賞……10,000円(私の自腹)
・特別賞……10,000円(私の自腹)

そして、もともとあった以下の3つの賞を廃止し、新しく「優秀賞」を増設しました。

▼もともとあった3つの賞

・佳作……1,700円(頂いたサポート)
・「読むと感想があふれ出るで」賞……1,500円(頂いたサポート)
・「うわ私この文章めっちゃ好きだわ」賞……500円(頂いたサポート)

▼これを次のように変更した

・優秀賞……700円×30名さま

優秀賞の賞金は、700円×30名さまなので合計21,000円です。合計21,000円のうち、3,700円がいただいたサポートです。そして残りの17,300円が私の自腹です。

改めて、サポートを下さった皆様、本当にありがとうございました。皆さんがサポートをしてくださったおかげで、賞を増やすことができ、賞金も用意することができました。改めて、心からのお礼を申し上げます。本当に、ありがとう。


さて、なぜ賞を増やしたのか?

理由はたった一つ。

「落とす理由がなかった」から。


全員が私をぶちのめしに来てくれた。ぶつかり方はもちろん人それぞれだったよ。真正面から相撲を挑んできた人もいたし、土俵をずらしてきた人もいたし、気楽に肩の力を抜いて寄り添うように挑んでくれた人もいた。

そしてその人たち全員が私に学びを与えてくれた。

もう、「落とす理由が、ない」。

だから賞を増やした。



そして「優秀賞」という名前にしたのも、ちゃんと理由があるのよ。

たとえばなんだけど、今後受賞者のみんなが作家として活躍していく未来もあると思うんだよね。その時に、実績として「こういうコンテストで優秀賞をもらいました」と書けるといいなって思ったから「優秀賞」って名前にしたのよ。



元々あった賞って「感想があふれ出るで賞」だったでしょ。でもさ、実績の欄に

「noteコンテスト『なぜ、書くのか』で『感想があふれ出るで賞』を受賞」

って書いたらなんか「ちょっと……なんか……ショボ……」って印象を受けるじゃない(笑)。


なので、優秀賞って名前にした。そうすれば、

「noteコンテスト『なぜ、書くのか』で『優秀賞』を受賞」

って書けるじゃない。こっちのほうが、実績としてカッコイイでしょ(笑)。だから、賞の名前を優秀賞にしたのよ。


優秀賞の賞金は700円にしました。なぜなら優秀賞を受賞された皆さんの作品は私にとって一冊の文庫本のようだったからです。

文庫本の価格がだいたい700円くらいでしょ?だから、「一冊の文庫をありがとう」の意味で賞金を700円に設定しました。



受賞作品の紹介


さて、ここからは各賞の作品紹介と、受賞者の皆さんからの受賞コメントを紹介していきます。

なお、受賞コメントをご依頼させていただいた際に、私は

「無理して書かなくても大丈夫です」

と全員にお伝えしました。なぜならば、「書くのを強要されて書く文章ほどつらいものはない」と思ったからです。


私はね、編集者として自社媒体でコンテストをたくさん開催してきました。

その経験の中で、学んだことが一つありました。

受賞者の人ってね、意外と受賞コメントを書くのを嫌がるんです。


「受賞するとは思ってなかったから」っていう理由のこともあるし、「忙しいから書きたくない」って理由のこともあるし、「何書いていいか頭が真っ白になる」って理由のこともあった。


その姿を見ていたから、今回受賞コメントを書かなくても大丈夫ですよと皆さんにお伝えしました。


その結果、「お言葉に甘えて、今回はナシでお願いします!」と言う方もいらっしゃいましたし、シンプルに「忙しくて間に合わないかも(汗)」という方もいらっしゃいました。

また、最後の最後まで書くか悩んで、なんとか受賞コメントを書いてきてくださった方もいました。


そんな皆さんの受賞コメントを今から紹介します。


なお、グランプリの方にのみマネタイズの案も提案するとお約束しておりました。今回のグランプリ受賞者の方はね、私は「エッセイでの連載」をとることでマネタイズするのが最適と判断しました。なので、グランプリ受賞者には私が以前書いた有料noteを賞金とともに無料でプレゼントすることにいたしました。


さて、ここから受賞作品と受賞コメントをご紹介していきますね。

※ここから先は作品のURLをそのまま「ベタ貼り」しています。なぜかというと、「一つのnoteの中で同じURLをサムネ表示されるように設定する」と、二つ目のサムネが消えて空欄になる現象が起きるからです。そのため、今回は仕方なくURLをベタ貼りしました。この点だけ、ご了承ください。

※また、受賞コメントは順不同となっております。この点もあわせてご了承くださいませ。



まずはグランプリから。今回栄えあるグランプリを受賞されたのはこちらの方です。


グランプリ作品受賞作品 私は『書くこと』に恋をしている

私は『書くこと』に恋をしている|くつ | エッセイのようなものを書く人https://note.com/kutsu___51/n/na66f1a63d663

▼くつさんからのメッセージ

皆さん、初めまして。くつと申します。

この度、noteコンテスト「なぜ、私は書くのか」の受賞作品として選出いただいたことを嬉しく思うと共に、このコンテストに対する賛否両論から、奇しくもコンテストのテーマである「書くこと」の奥深さを再認識することが出来ました。

この賛否両論については藤原さんから記事が出ているので、私から言及することはありません。
ただ、「立場の違う者同士、互いを慮り合うことが出来れば、次回はもっとより良くなるだろうな」と少し先の未来を楽しみにしています。

さて、この発表を機に私の作品を読んでくださる方が増えるであろうことに、今とても緊張しています。

「コンテストの受賞作品なのにつまらない、なんて言われたら」と思うだけで涙が出そうですが、「全員に刺さる完璧な文章なんて存在しないのだから、評価してくれる人が1人いれば万々歳」と考えるようにしています。

きっと皆さんの作品にも、スキをしてくれる人、読んでフォローしてくれる人がいたのではないでしょうか。

もしもそんな人が1人でもいれば、「皆さんの作品は素敵なのだ」と証明されていることと同義です。

「コンテスト」という閉じた枠の結果で一喜一憂するのは勿体無い。言葉の世界は宇宙より広いです。

これからも皆さんに素敵だと思ってもらえるような作品を書き続けられるよう、精一杯頑張ります。
そして、皆さんの作品も楽しみにしています。


準グランプリ受賞作品 エゴイストの嘔吐

エゴイストの嘔吐|慧 | https://note.com/kei_kei_43/n/n1462abcdd30b

▼慧さんからのメッセージ

まず、お礼を言わせてください。

この度は私のnoteを選んでくださって、本当にありがとうございました!
受賞のご連絡をいただいたとき、リアルに「ブフゥアッ!!!」って野太い声が出ました(笑)。

テーマを守った自信はあるものの、読む方にどんな印象を与えるかしら…暗い気持ちになったら申し訳ないな…。
そんなことをずーーーっと考える毎日でした。

華さんからのDM読んだ後、思いました。

「よかった」と。

安堵したんです。

私の文章が、私の想いが、私以外の誰かにちゃんと届いたことに。

ひたすら現実だけを本心だけを綴ったあの文章が、人の心を傷つけずにまっすぐ届いたということに。

私にとって「書く」とは生命維持活動です。
やめればたちまち脳が衰え、心が貧しくなるでしょう。
身体への影響も出るのは目に見えています。
だって心と身体は繋がっていますから。

自分の中にある葛藤や喜び、虚しさ、怒り。
さまざまな感情を文字に起こすと、心が少しずつ凪いでいくのを感じます。

「あ、私まだ大丈夫だ」

そう思えるんです。

視点が「自分」から「少し斜め上から観察する分析官」になるからかもしれません。

渦中の自分は、意外に問題の本質が見えないものです。
でも、ほんの少し後ろに下がると視界が広がる。さらにそこから一段上に上がってみると、遠くまで見渡せるようになる。

もっと視点を遠くへ。
もっと視座を上げて。

目の前の問題に囚われず、未来を見通す。

当たり前のようで、なかなかどうして難しいですよね。

私にとって「書く」とはまさにこれなんです。

今起こっている問題が、自分のこれからにどの程度影響するか。
過去の記憶が、この先の人生にどれほど影を落とすのか。

それを客観視するためのものなんです。

「外側」から見ると、めちゃくちゃ深刻な悩みも「あれ、もしかしたら何とかなるかも」って感じる瞬間があります。

そのときまでの絶望が、サーッと晴れる感覚。

「書く」とはまさに立ち上がるためのトリガー。

命を絶やさないために、心を奮い立たせる行動なんです。

私は自分のnoteにいろんなことを書いてきました。
仕事のこと、ファッションのこと、家族のこと。まさに雑記帳です。

そのnoteのどれもが、私の心を癒し、時には厳しく叱咤してくれました。

書くことから遠ざかっていたら、私は今、生きていなかったかもしれません。

そんな私が理性をかなぐり捨てて書いたのが、この「エゴイストの嘔吐」でした。

辛い中間選考に向き合い、乗り越えてくださったジャスミンさん。

私の文章を好きになってくださったばかりか、受賞というとんでもない栄誉を与えてくださった華さん。

そして、今こうして私のコメントを読んでくださっている皆さん。

読み手を食らうつもりで書いたこのnoteを受け取ってくださって、本当にありがとうございます。

私、書くことをやめずに生きてきてよかったです。


準グランプリ受賞作品 なぜかnoteで書いていた

なぜかnoteで書いていた|chibi3|https://note.com/chibi0324/n/n1816bbfeab26

▼chibi3さんからのメッセージ

 noteコンテスト「なぜ、私は書くのか」に関わられた皆様、このような機会を与えてくださって、ありがとうございます。
 藤原華さんより受賞した旨のメールをいただき「受賞コメントを500字で」という言葉が続き、戸惑いました。
 それは何度も他のコンテストで受賞コメントを読み、心地よい思いをしてこなかったからです。藤原さんは受賞コメントを書かない選択肢も提示してくださいました。

 正直なところ「審査員の私が「あなたを」落とした理由」の記事で沢山の記事を読まれたマネージャーさんの苦しみも、私には痛かったです、心が。だからこそ、受賞コメントを書くことにしました。
 どんな言葉であろうと書いたことに対する責任は負うものと自覚しています。

 他者の悲しみを感じやすい性格です。
 感受性が強いのを人からは指摘されたくない短所として恥じていました。

 言論の自由を理由に何でも表現していいとは思いません。それを見たり読んだりして深く傷つく人が想像できたら、世の中に出してはいけない作品も存在します。誰かが命を断つ危険を孕む作品をデジタルタトゥーにしてはいけない。
 noteがこれからも癒される場所であることを望みます。


準グランプリ受賞作品 でも、あなたを救えるのは、あなただよ、と伝えたい

でも、あなたを救えるのは、あなただよ、と伝えたい|元町ひばりhttps://note.com/hibari_motomachi/n/ncf8c8ec38074

▼元町ひばりさんからのメッセージ

藤原華さん、ジャスミンさん、このたびは私の作品を選んでくださり、ありがとうございます。

今年(2024年)の4月、友人から「ひーちゃん(私のこと)の”書く”の先には何があるの?」と聞かれ、答えられずに歯がゆい思いをした時の悔しさを、少し晴らせたように思います。

友人からの問いをきっかけに、約12年分の自分の日記と約120本の自分のnoteを読み返しました。そうして「"書く"の先に何があると思っているのか」が分かってきた折に、このコンテストに出会ったのです。

でも、書き上げてから他の参加者さんの作品を読んで「やってしまった」と思いました。他の方は「なぜ書くのか」をもっと明確に、熱く書いておられる。私の作品は弱いかもしれないと思ったのです。

だから、受賞作品として選ばれましたよ、と華さんからご連絡をいただいて驚きました。ただ、どこが特に響いたのか、私はまだ知りません。

でも、この作品は、私と一緒に泣いてくれた友人、私に問いを投げかけてくれた友人がいて、書けたもの。そして、ジャスミンさんが、華さんが選んでくださったおかげで皆さんに届くもの。それだけは分かっています。

本当に、ありがとう。
心から、ありがとうございます。
元町 ひばり


特別賞受賞作品 人生に、文章で彩りを。

人生に、文章で彩りを。|猿荻レオン
https://note.com/saruogi_leon/n/n0d01d1f85618

▼猿荻レオンさんからのメッセージ

書くことに理由なんていらないと思いつつ、私はずっと自分がなぜ書くのかを知りたかった。本当は神様あたりに「これが君の書く理由だから」と答えを提示して貰いたかったけど、そんなことは当然ない。
だから、自分で探すしかなかった。
今回、コンテストに参加したことはとてもいいきっかけになった。自分で探り当てた“書く理由“。それはどこに向かって良いかわからなくなった時に頼りになる、灯台になりそうな気がしている。

それにしても、今日のビールも間違いなく美味いに違いない。
キンキンに冷えたグラスに、がっつり冷やしたビールを一気に注ぎ込んで、ふわふわと泡だったところをキュキュッと飲み干して、ぷはぁと息を吐き切ったところで「今日も書くぞー!」と叫ぼうと思う。

素敵なコンテストを、素敵な賞をありがとうございます。感謝を込めて。


特別賞受賞作品 人生で一番、文章力がほしくて悶えた日

人生で一番、文章力がほしくて悶えた日|とろろ|ワーママ整理収納アドバイザーhttps://note.com/simplist_tororo/n/nc323bd972e49

▼とろろさんからのメッセージ

中間選考突破だけでも驚きでしたので、まさかの特別賞に今もまだ信じられずにいます。

このコンテストの応募条件は「書くことが好きな、すべての人」。
実は、「書くのが苦手なわたしに応募する資格があるのか!?」と締め切り当日まで応募を悩んでいたんです。
それでも、私の中で生まれたばかりの「書く理由」をどうしても伝えたくて、エイヤっと記事を投稿しました。

そうしたら、華さん、ジャスミンさんの、主催者としての心が震える文章に出会えた。
参加された物書きの皆さんの「書く理由」と、想いのあふれるコメントを読めた。
「書くことで、こんなにも人と繋がれるんだ」と、書くことの大きな力を実感できた。

今、心から、思います。
このコンテストに、勇気を出して応募して、本当に良かった!

『書くことだけじゃなく書き「続ける」ことがどれだけ尊いことか』
これは、華さんが書かれたコンテストの開催概要の言葉です。
悩み、苦しんで書くからこそ、続けるのが辛い時もあります。でも、そんな時にこそ、「なぜ私は書くのか」を思い出したい。
そして、願わくば、またコンテストを開催してほしいです!
それまで、わたしも、もっともっと伝わる文章が書けるよう、悶え苦しみながら、文章を書き「続け」たいです。


優秀賞受賞作品「手軽に書けるからといって、手軽に書いていいわけではない」

手軽に書けるからといって、手軽に書いていいわけではない|久田一彰(会社員/講師/パパライター)https://note.com/hisabou/n/nf38ffaf89ebc

▼久田一彰さんからのメッセージ

ジャスミンさん、華さん、このコンテストに参加した方、応援してくれた方、そして、今このコメントを読んでいる皆さんに感謝いたします!

駅のホームで受賞作品が選ばれたと聞いたとき、左の背中に鳥肌が立ちました。そこから、ももの裏にまで伝わっていったことを思い出します。

書くって楽しいときも、辛いときも、やめようと思ったこともあります。でも、書いた記事や言葉を見て読んでくださる方がいる。それが何よりもうれしいです。

「コツコツ続けていると、人は見てくれている」

これは私の大事にしている言葉ですが、私はどちらかというと、ウサギとカメのカメなんです。周りはどんどんと成長していくのに、ゆっくりと成長している気がします。

壁にぶつかって乗り越えて、沼にハマってもがきながら、進み続けました。何より、一緒に書いてくれる方が、仲間や先輩や師がいます。だから、ここまで書き続けてこれたと思います。

でも、まだまだゴールは先にあります。も〜っと面白い、楽しい、笑った、良かった、泣けた。そんな多くの方の魂を、揺さぶれるような記事を書き続けたいと思います。

このような素敵な場を用意してくださって、本当にありがとうございます。

久田 一彰


優秀賞受賞作品「書く」。「書かない」。

「書く」。「書かない」。|くりすたるるhttps://note.com/crystalulu/n/ndb15b4097507

▼くりすたるるさんからのメッセージ

このたびは素敵な賞をいただき、ありがとうございました。

「なぜ、私は書くのか」。このテーマに向きあったからこそ書くことのできた作品だと……そのことにあらためて感謝をしています。



作品には「てがみさま」が登場します。

てがみさまは、もうずいぶん前に、わたしのもとに現れてくれた神様です。

手紙を書くのが日常だった時代、書いた手紙に、わたしの心をそっと大事に込めてくれた、小さなやさしい神様でした。



パソコンやスマホで文章を打つことが多くなったいまでは、「手紙さま」は、「手神さま」へ。

キーボードを打つのも、送信ボタンをぽちっと押すのも、手先、指先ですから……てがみさまという言葉に違和感はありません。

手神さまは、そうしていまでも、「わたしの手から放たれるわたしの言葉」を見守ってくれています。



嬉しかったのは、多くの方が、ご自身のてがみさまの存在を実感してくださったことでした。

なかには、それを記事にしてくださった方もいらして。

わたしのてがみさまは、おかっぱ髪の小さな女の子の姿をしているのですが、その方のもとに現れたてがみさまは、「ちっさいおっさん」だったそう。



「書く」ことから繋がる思いを、しみじみ感じる作品となりました。

たくさんのご縁を繋げてくれた今回のコンテストに、あらためて心からの感謝を。

ありがとうございました。


優秀賞受賞作品「お前に言ってねーよ」じゃなく「あなたが良い」と言われたい

「お前に言ってねーよ」じゃなく「あなたが良い」と言われたい|イクミリコhttps://note.com/ikumi_riko/n/n373caefd6f7d

▼イクミリコさんからのメッセージ

藤原華様、ジャスミン様、私の文章を読んでくださった皆様、本当にありがとうございます!

心から、嬉しいです!



私は、このコンテストのおかげで、

心震える体験をさせていただきました。



noteの画面の向こうにいる「人」の「温度」を強く感じるようになりました。

文字の向こうに、生身の「人」を感じるようになりました。



この、かけがえのない感覚を、受けとることができました。



そうしたら、私自身、文字を読むことで「もっと心が揺さぶられる」ようになりました。

こんな豊かな体験をさせていただけたことに、とっても感動しています。



「なぜ、私は書くのか」の作品を沢山拝読しました。

沢山の「理由」に触れたら、書くことに「それぞれの心」を大事に注ぐ方々が居るnoteという街に、自分も居ることが、じわじわと、幸せだと感じました。



このコンテストへの想いを、藤原華さん、ジャスミンさんのnoteを繰り返し開いて拝読しました。

こんなにも真剣に、書きたい人に向けて真心を尽くしてくださっていることに、心が揺さぶられ、胸にガツンとくるものがありました。



私の「書く理由」が増えました。



書くことが好きな私に、紛れもなく「成長の場」を与えてくださり、ありがとうございます!


優秀賞受賞作品 モノクロではなく、多彩な“世界”で生きるため

モノクロではなく、多彩な“世界”で生きるため|RaM https://note.com/ram1112_stb/n/n268e2a14c3ae

▼RaMさんからのメッセージ

この度、「なぜ、私は書くのか」コンテストで優秀賞を受賞させていただきました、RaMと申します。

今回、このコンテストへの応募作品を一読者としても拝見しておりましたので、まさかここで名前が呼ばれるとは思いもしておらず、大変驚きました。ありがとうございます



RaMにとっての「書くこと」とは、人生の歩み直しの旅です。この旅路は、ひとりの力では成し得ず、noteの街で繋がってくださる皆さまからのあたたかなお声をいただき、歩みを進めることができています。

現実社会では、ちっぽけな存在かもしれませんが、確かに、ここで暮らしていたこと、「わたし」という人間を生きてきたことを実感するために、こころの声を言葉にしたいと思い、noteの街におります。

生活をしていくと、良いことも、逆のことも、様々起こると思いますが、書くことをお供に、多彩な世界への旅路を歩んでいこうと思います。

今回いただいた受賞という経験は、わたしにとって、スタートでも、ゴールでもなく、1つの通過点に過ぎません。

これからも、書くことが好きな皆さまと一緒に、「創作」や「書くこと」を楽しんでいきたいです



この度は、本当にありがとうございました!


優秀賞受賞作品 日々を「こなす」のではなく「積み上げる」ということ

日々を「こなす」のではなく「積み上げる」ということ|にしまりhttps://note.com/nishimari3_215/n/nb4af8391e5ab


▼にしまりさんからのメッセージ

資格勉強をしている最中にパッと目に入って来たXの通知。そしてメッセージの中にある「受賞に選ばれました」という文字。

ぶわっと沸き立ってくる喜びを噛み締めながら、勉強そっちのけで何度も何度も華さんからのメッセージを読んでしまいました。

「なぜ私は書くのか」

一見シンプルなテーマ。

でも考え出すと意外と難しくて。
四六時中書く理由をぐるぐると考えては通勤のスキマ時間に書き進めてを繰り返していました。

そしてやっと出来上がった文章は、自分で読んでいても心地いいものになっていました。

そんな、自分でも「なんかいいじゃん」と思える文章を書けたのはこのコンテストのおかげです。

華さんのnoteに書かれていた

「どれだけ本気になれたか」

この一言に突き動かされて、本気で書いてやろう!と、自分の中の気持ちをぐわぁ〜っと思いっきりぶつけた後に何度も文章を精査して、真剣に“自分“と“ことば“と向き合って書きました。

本気で書くと
わたしってこんな文章が書けるんだ。



華さん、ジャスミンさん

コンテストを開催していただき、そしてたくさんの素敵な作品がある中でわたしの作品を選んでいただき、ありがとうございます。

この経験は間違いなく、私の人生の中で大きなターニングポイントの1つになるんじゃないかと思っています。今回得た“自信“を、次なる場所へと大きく拡げていきたいと思います。


優秀賞受賞作品 言葉の可能性を信じて~僕が文章を書き続ける理由~

言葉の可能性を信じて~僕が文章を書き続ける理由~|シノスケhttps://note.com/ideawev/n/n02a8c2e070cf

▼シノスケさんからのメッセージ

この度は、藤原華さんのコンテスト「なぜ、私は書くのか」において、優秀賞という素晴らしい賞をいただき、誠にありがとうございます。210件というたくさんの応募作品の中から選んでいただけたこと、大変光栄に思います。



今回の受賞作では、「文章を書く理由」を自分なりに深く掘り下げてみました。文章は、書き手と読み手の間に共通の言葉があるからこそ成り立つ、特別なコミュニケーションの形だと改めて感じました。



言葉を選ぶ難しさ、伝わる喜び、そして言葉の持つ無限の可能性。文章を書くたびに、そんな言葉の魅力に改めて気づかされます。これからも、言葉の力を信じて、自分自身と向き合い、読み手が受け取るであろう様々な可能性に寄り添いながら、書き続けていきたいと思います。



最後に、このような貴重な機会を与えてくださった藤原華さんに心より感謝申し上げます。そして、共に文章を愛する皆さんと、これからも言葉の世界を楽しんでいけることを願っています。


優秀賞受賞作品 変化していく書く理由

変化していく書く理由|tutumi-mabu https://note.com/heart_863/n/n06663ff003d7

▼tutumi-mabuさんからのメッセージ

この度は「なぜ、私は書くのか」コンテストの賞をいただき誠にありがとうございます。

大変失礼ではありますが、今回のコンテストがきっかけで華さんの存在を知りました。

自主開催のコンテストって何?しかも賞金が自腹って。この趣旨に賛同したnote rさんの募金も集まっていることを知り、すごくエネルギーを感じました。

今回のテーマを見て、コンテストに応募したいと思いました。

私はエッセイ教室に通い始めて16年目になる主婦です。

応募させていただいたのは、なぜ書いているのかを振り返る、良い機会だと思ったからです。

突き詰めていくと、私の書く理由がどんどん変化していっているという結論に至りました。

現在は自分のために書いていると文章にも書きましたが、それは母の病気の影響が大きいのかも知れません。

これからも自分の思い出深い記憶を残す作業や、確実に行きた証を楽しみながら書き残していこうと思っています。

振り返ったときに「私の人生、案外面白かったじゃない」そんなふうに思える日がくるように、努力していきたいです。

本当にありがとうございました。


優秀賞受賞作品 自分を愛するために書く

自分を愛するために書く|クイン|心穏やかに生きたい主婦💐https://note.com/rkuma0807/n/n6b9305de271f

▼クインさんからのメッセージ

受賞の連絡に気づいたのは朝起きたての頃でした。私は夢心地でおもむろに学びを書き留めているノートを開きました。
そしてパッと目に飛び込んできたフレーズが『人生は変えるんじゃなくて、変わっちゃったというもの』でした。

私は平凡な主婦です。失敗ばかりの人生で、自分には何の取り柄も無く、価値がないと思って生きてきました。
そんな自分と向き合うために書き続けていたら、作家になりたいという夢が出来ました。

夢に向かって進んでいくぞ!と意気込んでいる矢先、大きな絶望を味わいました。
心の中を明るく照らしていた夢や希望という光が一瞬で消え、目の前の世界が真っ暗になったのです。

受け入れがたい現実に枕を濡らしました。こんな時こそ心を整理しようと思い、ペンを溢れてくる感情に任せて走らせました。
すると自分に原因があるとわかりました。自分の非を認め、深く反省しました。
自分の心を入れ替えて前を向き始めたら、今回のコンテストに出会えました。
光をまた見つけたのです。

華さん、ジャスミンさん、noterのみなさん、本当にありがとうございます。
みなさんのおかげで、今私がいる世界はあたたかい光で包まれていると感じることができています。

私は書くことで本当の自分の望みを知ることが出来ました。
『人生が変わっちゃった』と言える日が来ると信じて、私は書いて自分と向き合い続けようと思います。
これを読んで下さった人生に悩んでいる方が、本当の自分に出会い、穏やかに生きられますように。


優秀賞受賞作品 書きたいのに、書けない。

書きたいのに、書けない。|和澄しゃいんhttps://note.com/46kumabooks/n/nbc9a74723f73

▼和澄しゃいんさんからのメッセージ

実は私、このコンテストで入賞することを知っていました。

……嘘です。
普通にドキドキしながら、結果を待っていました。

とは言え、完全なデタラメというわけでもなく。
受賞コメントはnoteを出す時点で、おおよそ書いていたんですよね。
果汁100%のぶどうジュースで1人、乾杯をしながら。

これ、予祝と呼ばれているんですって。
先に祝ったら、その通りの現実がやってくるという、日本古来の願望実現法。

「何か面白そう!」
そう思って実際にやってみた結果、今こうして本当に受賞コメントを書かせていただいています。えへへ。

このnoteは、私1人で書いたものではありません。
コンテストに参加された、あなたの熱量に背中を押され、書けたnote。
だから受賞コメントで、あなたのプラスになることを話したくて、この話をしました。

信じるかは、あなた次第。
ただ、ほんの少しの時間以外は何も失わないので、良かったら1度だけ試してみてほしいです。

ということで……

次のコンテストで入賞する、あなたへ
おめでとうございます!

この文章が、あなたへのブーケトスになりますように。

このたびは、私の作品を読んで選んでいただき、本当にありがとうございました!!


優秀賞受賞作品 言えなかった弱さは書いてく強さを支えてる

言えなかった弱さは書いてく強さを支えてる|星井きなこhttps://note.com/kinacopan1125/n/n3586b7bd807a

▼星井きなこさんからのメッセージ

こんにちは。

この度は輝かしい賞を頂戴しまして、大変光栄です。
ありがとうございます。

振り返ってみますと、前代未聞続きのコンテストでした。

華さん自身の参考作品では多くの書き手にアッパーをくらわせ、中間発表ではまさかの落とした理由を公開し、受賞発表の直前にはお詫びの記事があがる。

note界に台風がいくつも上陸したような3ヶ月でした。

ただわたしはこの3ヶ月、めっちゃ楽しかったです。
今となっては視界がクリアになった、そんな気がします。


華さんは自身の参考作品の中で

審査員はこの私だ。
ぶちのめしに来い。



と吠えました。怖いです。

ただ・・この言葉で完全にスイッチが入りました。
彼女を「敵」とみなし、闘いました。



ずっと彼女が羨ましかったから。


その闘いを終えた今、すんごく清々しいです。

「ぶちのめしたから」ではありません。


本気になれることが自分にもあるってわかったからです。



ここがゴールじゃない。
まだまだ始まったばかり。


まだまだ見たい景色があるから。



物書きの一員として、
これからも書き続けます。




繰り返しとなりますが、貴重な体験を本当にありがとうございました。

華さん、マネージャーのジャスミンさん、書き手の皆さま、読んで下さった皆さま、そしてnoteに携わっている方々へ深く感謝申し上げます。

またこのような素敵な機会があることを心待ちにしています。

本気で書かせてくれてありがとう。



星井きなこ


優秀賞受賞作品 たった1つの作品が、たった1人の命を救うから

たった1つの作品が、たった1人の命を救うから|すーこhttps://note.com/yokudashisuko/n/ne79794ef7570

▼すーこさんからのメッセージ

企画者・最終審査員の藤原華さん、中間選考審査員のジャスミンさん、応募作を読んでくださったみなさん、本当にありがとうございました。
このような賞を授与していただき、大変光栄に思います。

私も「手あたり次第にコンテストに応募していた」ことがありました。
小学生の頃、新聞の投書の意味を履き違えた文章を何度も送っていました。
応募作に書いたラジオメールもそうです。

今回のコンテストで気づかされました。
書く文章で選考者を含むすべての読者の時間を、企画を通じて書く人の時間を奪うことに。
書くにも企画するにも責任が伴い、「命そのもの」の時間を奪っても後悔させない努力を最大限すべきだと痛感しました。

今回の参考作品を読み、「成功することを恐れているのでは」というnoterさんからの言葉が蘇りました。
反省をふまえ、恐れず全力で執筆しようと書き上げたのが応募作です。

傷つけないってとても難しく、書くのが怖くなるときが多々あります。
でも、「命を救う」文章は確かに存在し、人によって異なります。
誰かにとって、別の誰かの作品が忘れられない。書くって素敵なことでもあると思うんです。今回の応募作を含むたくさんのnoterさんの作品に救われてきた一人として、確信しています。
責任をもって書き続け、「命を救う」文章を私も書きます。

「書くこと」に真剣に向き合わせてくださり、本当にありがとうございました。


優秀賞受賞作品 優等生の「フリ」にはもう、うんざりだ

優等生の「フリ」にはもう、うんざりだ|shiiimo【5児の母】https://note.com/shiiimo_momomo/n/n96b482b7aff6

▼shiiimoさんからのメッセージ

こんにちは。shiiimoと申します。

この企画を通じて、多くの方の「書く理由」に触れ、その心情を垣間見る機会を得ました。
考えてみれば、面と向かって「なぜ書くの?」だなんて、普通に暮らしていればこの先の人生で聞くこともなかったし、聞かれることだってなかったことと思います。だからこそみんなが自分に向き合い、本気であった、と感じます。もちろん、私も。

過去の自分の習慣から書く方。自分の世界を表現したいという方。もっとロジカルに「書く」を突き詰めた方もいたし、理由なんてないけど書くしかないんだ、という方もいた。つらい過去を抱えながら、書いて自分を奮い立たせる人もいた……。

「では、私はどうだろうか? このお題に向き合えるのか?」

みなさんの「書く理由」に触れたおかげで私は、そう自分に問いかけ続けることから、今回の作品を生み出すことができました。

向き合えば向き合うほど、自分が嫌になった時期を想起させ。唸って悶え、でも、書くことをやめることはもうできなかった。記事のことを考えだしたら頭がパンクして一旦、離れたり。記事と私は別れる寸前の若きカップルのようでした。
そして書ききってみれば、私は、私のことも私の記事もまるっと愛していました。

優等生のフリをしていた自分が書くことを諦めなかったおかげで、ここでみなさんに出会えた。そして今も「書いている」から私は、自分を愛していけるような気がします。
参加者の皆さま、華さん。大切なことに気づかせていただき、ありがとうございました。


優秀賞受賞作品 Q:からすなぜ鳴くの♪ この童謡の作者は誰でしょう?

Q:からすなぜ鳴くの♪ この童謡の作者は誰でしょう?|本田すのうl書いて読む主婦https://note.com/sanji_cinderella/n/n3a19c5bee4e5

▼本田すのうさんからのメッセージ

「広いnoteのセカイで」

受賞の連絡をいただいた時、一点の曇りなく「やったぁ!」と思えたかというとそうではありません。辞退の2文字も頭をかすめました。

尊敬している人がいます。
目標としている人がいます。
好きな人がいます。
好きだと言ってくれる人がいます。
勝手にライバル視している人がいます。
嫉妬を覚える人がいます。
応援してくれる人がいます。

たくさんの人のたくさんの思いを目にして、ここでコメントすることも少し怖いです。だけど、あの日私が綴った「なぜ、私は書くのか」は、藤原華さんが主宰してくれたからこそ本気で向き合うことが出来ました。


「なぜ、私は書くのか」その答えを見つけるためには自分自身の生い立ちや過去を深掘りするしかありません。触れたくない痛みに触れ、時には涙を流しながら「なぜ」に向き合ったのは私だけではないと思います。

書いた。挑戦した。がんばったよ。向き合ってよかった。私たちが書いたものは、かけがえのない作品に違いありません。

私は書くのが好きだけど読むのも好きです。今、コンテスト応募作を順番に読んでいます。みんな書くことに理由がある。個性がある。

だからどうか、これからも一緒に書き続けてください。

ありがとうございました。


優秀賞受賞作品 書く場所

書く場所|もつにこみhttps://note.com/monbon/n/n303458bd7772

▼もつにこみさんからのメッセージ

 拙作を選んでいただき、ありがとうございました。嬉しさのあまり、受賞連絡のメールを何度も読み返してしまいました。
 コンテストの告知を見て以来、そういえば何で書いてるんだろう?と自問しました。毎日noteに書き続けているのは、果たして何故なのか。何のために書いているんだろう。不安じみた思いが胸に湧いて、コンテストのタイトルが頭にこびりついて離れない日々を送りました。
 書き始めてみて、5歳の僕と出会い直し、時を経て成長しながら、書くことで、怒り、喜び、学び、繋がっていることを改めて認識できました。
 note以外においても活躍できるような書き手を増やそうとされる華さんとジャスミンさんの姿勢には、驚嘆するばかりでした。中間発表では、僕だけではなく、殆どの応募者が“落ちた”と感じたはずです。
 応募するにも勇気のいるテーマであり、自己の信じるものをさらけ出すことへの喜びと怖さの両面を見つめるコンテストでした。読まれる喜びと審査される怖さに、書くことの楽しみを、あらためて見出せたことが収穫でした。この場で、“書くこと”への希望を抱えて集まった皆さんと御一緒できたことは、とても幸せでした。ありがとうございました。


優秀賞受賞作品 貴方のスキマへと愛をこめて

貴方のスキマへと愛をこめて|神月裕https://note.com/yukanzuki/n/n584fd049204f

▼神月裕さんからのメッセージ

『ホッとした』。受賞の報せをいただいて、真っ先に抱いた感情だ。
 自分を信じて挑んだ戦い、しかし勝負は終わってみるまでどう転ぶか分からない。ま、それが醍醐味でもあるのだけど。
 ともあれ、ひと時の安堵の後にこうして『受賞コメント』なるものを書いていると、ふつふつと実感がわいてくる。文章で賞をいただくのは実は初めてで、素直に嬉しい。自分の言葉が、バシッと届いたことが、何より。
 だって相手は『日本一の編集者』と、その下で働く、いわば『最強のマネージャー』なんだぜ。最高位には至らなかったといえ、嬉しくないわけがない。今の今まで自分がずいぶん温い物書きだったコトは否めないが、それでも書き続けていて本当によかった。積み上げてきた経験や技術は、決して無駄ではなかった。

 喜びと同時に、身が引き締まる思いもある。全力でハッタリぶちかましたぶん、今度は全力でそうあり続けねばならない。ジャンルは様々、でも根元の部分は変わらない。さらなる高みを目指し、これからもっと研鑽を積んでいく所存だ。
 なんたって私、至上のエンターテイナーだからね!

 この度は優秀賞に選出していただき、誠にありがとうございました。
 神月 裕🌛


優秀賞受賞作品 「書く羅針盤」を持てば最適な道を歩ける!

「書く羅針盤」を持てば最適な道を歩ける!|やきいもhttps://note.com/yakiimo11/n/nc19ac99760d6

▼やきいもさんからのメッセージ

「なぜ私は書くのか」というテーマに向き合い、2つの書く意味を言語化できました。

「自分を整えるために、書く」

「他者のために経験から得た学びをシェアしたいから、書く」

これがハッキリと分かってから、書くことが楽しい!と心から思えるようになりました。

特に、他者のために書く文章は、書くというより伝える、という気持ちに変化しました。コンテストの応募をきっかけに書き手として一つのターニングポイントになったことは間違いありません。

そして同時に今回のコンテストでは多くの「本気で向き合う姿」と出会いました。前に進む影響を与えてくださったことに感謝します。

この度は「優秀賞」をいただき、大変うれしく思います。本当にありがとうございました!


優秀賞受賞作品 書くことは愛すること。

書くことは愛すること。|都築 あいhttps://note.com/tmnet_2022/n/n06accf991ace

▼都築 あいさんからのメッセージ

私はよく、自分に都合の良い夢を見る習慣があります。実は受賞のご連絡をいただく2週間前に『私の書いたエッセイが賞を獲った』という夢を見たのです。
だから現実に受賞のお知らせをいただいたときは「だいぶ長いこと夢をみているのでは」なんて30分間ほど放心状態でした。
「エッセイとコラムの違いもよく分かっていない私に、一体何が書けるっていうんだろ。とりあえず一度、心の中をぶちまけてみよう!」と、これまでの自分を振り返り、半ば狂気的に綴ったものが今回の応募作品です。
結果、「煮る・焼く・揚げる」なんて調理工程が一切ない、「生」のままの文章を出してしまいました。生ゆえ、「新鮮で美味しい」と感じてくださった方もいれば、体質に合わず食あたりを起こしてしまった方がいらっしゃるかもしれません。でも、このエッセイが尊敬する華さんの目に映り、最後まで読んでいただけたという「夢みたいな現実」は、私の一生の宝物です。
本当は、大切な時間を割いて私の作品を読んでいただいた方一人ひとりに、心から「ありがとう」と、抱きしめながらお礼を言いたいのです。しかしそれは、なかなか叶えられそうにないので、私は「書くこと」を通してしっかり感謝をお届けします。本当にありがとうございます!


優秀賞受賞作品 言葉をぎゅっと抱きしめる

言葉をぎゅっと抱きしめる|美咲https://note.com/moegi_____/n/n8b7a671e6e72

▼美咲さんからのメッセージ

「コンテストでの受賞作品として、美咲さんの作品が選ばれました!」
 藤原華さんから届いた一件のDMを開き、この一文を目にした時、私の身体は微動だにしませんでした。文章の意味を理解するために、三回ほど、口に出して読む必要がありました。今でもその事実がまだ信じられず、何かの間違いなのではないか、と言う気持ちで文字を打っています。
 正直に言います。中間選考に選ばれた時、私は、嬉しい、よりも「怖かった」。まさか私が選考突破だなんて信じられない、と言う思い、選考突破したことで、受賞にこぎつけてしまうかもしれないことに、怖さを感じたんです。それこそ、泣きそうになるほどに、怖い、と感じました笑。あの瞬間を、私はこれからも、きっと忘れないと思います。
 そして、私は受賞されないだろう、と確信めいた思いを抱いたのも、その日。なぜなら選考発表前日、ジャスミンさんが書かれた記事の『読み手の「だから何?」に答えられないならその一行は書くな』と言う一節に、衝撃を受けたから。答えられる人ってどんな人なんだ、と圧倒されたのですが、まさかそこに自分が入っているとは…。
 さて好き勝手書きましたが、受賞は率直に嬉しいです!


優秀賞受賞作品 小説が読めない。けど、書かなきゃ死ぬ

小説が読めない。けど、書かなきゃ死ぬ|朝日みうhttps://note.com/teana_miu4kagari/n/n596bc2ab36b8

▼朝日みうさんからのメッセージ

この度は優秀賞を受賞させていただき、本当にありがとうございます!
華さんからご連絡をいただいて、驚きのあまりバスの座席から転げ落ちそうになりました。

なぜ、私は書くのか。
書かないと死ぬから。
そのことに徹底的に向き合うことができたコンテストでした。

これまで私は、過去の経験についてマイナスに捉えがちでした。
そしてそれを公表することで、「嫌がられたらどうしよう」と怯えていました。
でもこのコンテストが、ブレーキを粉々に破壊してくれました。
そして、「今までのことがあったから、この文章を書けたし、今の私があるんだ」と心から思うことができました。

自信がついたからでしょうか、読めなくなっていた小説もまた読めるようになり、小説や漫画原作もたくさん書けるようになりました。
コンテスト『なぜ、私は書くのか』に参加していなかったら、ここまで成長できなかったと思います。
これからもブレーキを壊しつつ、読み手のことも考えながら全力で文章を書いていきます。

華さん、ジャスミンさん、そして私の応募作品を読んでくださった全ての皆さんに、心から感謝をお伝えします。
これからの皆さんの「書く」人生が、素敵なものでありますように!!


優秀賞受賞作品 ちょっぴり老眼きてるかもだけど、わたしは物書きになりたいの。

ちょっぴり老眼きてるかもだけど、わたしは物書きになりたいの。|CHIHIRO|フィンランド好きの物書きhttps://note.com/suuri_hymy/n/n103f8a4cde6e

▼CHIHIROさんからのメッセージ

「私は一目であなたをスキになったわ」
「僕は一目できみをキライになったよ」

これは映画「I LOVE スヌーピー」の中で交わされる、ルーシーとシュローダー(ピアノばかり弾いているベートーベンが好きな子)の会話です。

娘は「ひどっ!」と言って笑っていましたが、私はギョッとして茶碗を洗っている顔をあげました。こんなストレートに「キライ」を聞いたのは久々だったからです。

言葉は自由です。使い方によって、笑いにもギフトにもおやつにもなる。一方で、暴力にもなるし、消化不良を起こすこともあります。同じ言葉であっても、伝え方・伝わり方によって受け取り方が変わる繊細さも持っています。書き手や読み手がどんな状況にいるかでも変わる。同じ絵本でも大人になった今と子どものときでは感じ方が違うように。

だから私はできるだけ、”健やか”でいようと思います。

「おやつみたいな文章」を「おやつとして」差し出せるように健やかでいる。

ちょっと老眼きてるかもしれないし、お腹の横の肉が厚みを増してきているかもしれないけど、「おいしいものをおいしい」と言えるよう、健やかに暮らして言葉を紡ぎます。この度は受賞作品として選んでいただき、本当に、本当にありがとうございました。


優秀賞受賞作品 ぶちのめすつもりで書けるわけあるか〜\(^^)/

ぶちのめすつもりで書けるわけあるか〜\(^^)/|ぱむぱむhttps://note.com/pamurin/n/nca99204694a5

▼ぱむぱむさんからのメッセージ

まず初めに、主催者の藤原華さん、また、記事を読んで下さった方々にお礼申し上げます。

とても心が揺さぶられるコンテストでした。
書くことは何なのか、自分は何を伝えたいのか、改めて考えさせられる日々でした。

ここまで真剣に向き合えたのも、コンテストに参加したからこそなのだと思います。

その真剣に向き合う気持ちを忘れずに、手探りでもいいから、自分の文章を見つけて行きたいと思いました。

色々なことを考えるきっかけになり、深い学びを得られた経験になりました。
まだまだ学びの途中ですので、この経験を無駄にせず、
今後の糧にしていけたらと思います。
このような機会を与えて頂き、ありがとうございました。
今後も模索しながら、自分なりの文章を書いていけたら、と思います。
重ねてお礼申し上げます。


優秀賞受賞作品 【全力記事!】サラリーマンを辞めるために、noteをはじめた

【全力記事!】サラリーマンを辞めるために、noteをはじめた|FIREサラリーマン みかん🍊https://note.com/carista_lab/n/nf7dd89c6dd97

▼FIREサラリーマン みかん🍊さんからのメッセージ

藤原さんからの受賞通知メールを見たのが9月8日13時30分。

私はリビングの机の上でnoteの記事を書き、妻は私の正面に座りPCに向かって仕事をしていました。

私「なんか賞とれたみたい!!」

妻「ええ!うそ!?」

私「すごいでしょ!」

妻「仕事辞めて無職になる人間はそれぐらい最低限でしょ。」

そんな暴言を吐きながらも妻の顔は少し嬉しそうでした。私がニヤニヤしながら藤原さんのメールを見ていると、妻が「記念!」と私のニヤニヤ顔を撮影しました。

この記事は妻に辛い思いをさせた私の贖罪記事です。本当はこんなこと書きたくなかったけど記事を通して妻に私の気持ちを伝えたかった。休職してアル中になってスマホゲームに100万円課金した私も少しはましになったよ!と伝えたかった。この記事が賞をいただけたことはちょっとだけ妻への罪滅ぼしになったかな!(えっへん)と思っております。また賞をいただけたのは毎日私の記事にスキやコメントをいただけるフォロワーさんあってのことです。みなさんのおかげでnote生活最高に楽しいです!

最後になりましたが、藤原華さん素敵なコンテストを開催してくださりありがとうございました!まだまだ力不足ですが私は本気で打倒藤原さんを目指しておりますので!


優秀賞受賞作品 note を書くのは一番後回し

note を書くのは一番後回し|つるhttps://note.com/tsuru8key/n/nbd9c5b62f607

▼つるさんからのメッセージ

この度は授賞賜りまして、
誠にありがとうございます。

とてもうれしく、ありがたみを
噛みしめております。

なぜ書くのか

そう問われれば
自然と自分と向き合う必要を感じました。

応募作品中にも書かせていただきました
けれども、
私にとって書く行為は
手紙を書くのに似ています。

ネットで物を書く場合、
不特定の方に読まれることも想定して
書きます。

今回のコンテストにおきまして
改めて考える機会を与えて下さりまして、
感謝申し上げます次第です。

note におきましては
お読み下さります方への節度を
意識しながら書かせていただいております。

ときに砕けた内容の物もありますけれども、
お読み下さります方へ
やはり手紙を書くような気持ちで書きます。

書き方の実際については日々学びです。

間違いや失敗なども覚えながら、
礼を失わない文章に努めます。

書く時間を持てる幸せ、
この場をお借りしまして
家族にも感謝の気持ちを伝えたいです。

そして審査下さりました藤原華さま方々、
このコンテストに関わられました
皆様へ、この喜びを
お礼に代えさせていただきまして、
ありがたく受賞させていただきたく
思います。

かさねがさね感謝を。
まことにありがとうございました。

つる 拝


優秀賞受賞作品 書いて、食べて、息をして|わたしが書く理由

書いて、食べて、息をして|わたしが書く理由|ゆうあんhttps://note.com/youan_0101/n/n1d9c767f7d51

▼ゆうあんさんからのメッセージ


「なぜ、書くのか?」という問いに対して真っ先に思い浮かんだのは、「おいしいご飯を食べて、あったかい布団で眠るため」というあまりにも現実的な答えでした。いちど職を失ったわたしにとっては、食費や家賃を稼ぐことの優先度がなによりも高かったんです。だけどいまは、それだけではなくて。

発信をする上での覚悟やこわさはありますが、自由に書くことの楽しさやあたたかさを知りました。書くことに出会って、生活も心も救われたこと。そんな過程を綺麗事なしで書きたい!そうして生まれたのが今回のnoteでした。

訪問者ゼロが続くブログを書いているとき、ものすごく孤独を感じます。読まれないことへの切なさや悔しさを知っています。「わたしが書く意味なんてなにもない」と思ったこと、何度もありました。でも理由なんて、自分でつくればいいんだなって。最後の一行まで読んでいただけること、あたりまえではないからこそ、大事に噛みしめたいです。

今回の受賞をエネルギーにして、今日も明日もその先も、自分の言葉で書き続けることを決意しました。書く理由と向き合う機会をつくってくださったことに、心より感謝しています。ありがとうございました!


優秀賞受賞作品 かつて「神絵師」になりたかった人間が、noteを書きはじめてもう1人の自分に出会った話。

かつて「神絵師」になりたかった人間が、noteを書きはじめてもう1人の自分に出会った話。|真染 | masome | 💐日常を変える思考ビト🐏https://note.com/light_godwit664/n/n87e1faf386ed

▼真染さんからのメッセージ


記事の三分の一を使って「絵を描くこと」について書きました。

当初はテーマに対して「これ大丈夫かな?」という思いもよぎりました。ですが私がなぜ書くのかを語るには、「絵を描いてきた経験」が欠かせないキーワードでした。

noteを始めた時と同じ様に、今回も「ふとした思いつき」に従ってコンテストに応募してみることにしました。
そして華さんの参考作品に刻まれた

「審査員はこの私だ。
ぶちのめしに来い。」

こちらのメッセージを受け取ったときに

「参加するからには、
今できうる限りの「全力」を出そう。」

本気で文章を書くと、
そう決めました。

圧倒されながらも、真似できそうな要素を見よう見まねで取り入れました。

スクロールしながら余白の入れ方を調整したり(もっと入れても良かったかもしれない)、当時見ていたものや感情を思い出しながらそれを表す「最適な語彙や言い回し」を絞り出したり、「二次創作」など伝わりづらそうな単語には補足を書き足したり。

いつも通りに文章を書いていたら、
きっとそこまですることはありませんでした。

コンテストに参加することで得られた新たな視点「読み手に寄り添える文章」をこれからも模索していきます。
ありがとうございました。


優秀賞受賞作品 「面白いから生きてて」と言われ、書くことにした

「面白いから生きてて」と言われ、書くことにした|駆里もぐ エッセイ&ハウツーhttps://note.com/kakerimogu/n/n4593a0bc26a4

▼駆里もぐさんからのメッセージ

「こんな気持ち悪い文章、人に読ませて恥ずかしい」
何度もそう思いました。
「あなたの文章は、読んでて相当イライラする」
プロの方にそう言われて、筆を折ったこともあります。

とよ田みのる先生の「これ描いて死ね」という漫画が好きです。
主人公が最初に描いた漫画、読めたものじゃないんです。
でもね、それを読んだ人が、泣くんです。

私は文章を書き始めてすぐ、人に売るZINEを作りました。
作文の受賞歴もない。本は年に数冊読む程度。ブログもやってない。
私の文章、下手だったと思うんです。
でも、そんな文章を「読んでよかった」と言ってくれる人がいました。
拙くても、ちゃんと見てくれる人は見てくれるんです。

創作物は、子どものようなものです。
ただ存在しているだけで、愛おしい。
その子にどんな欠点があっても。
その子は、存在しているだけで価値があるんです。

いいねがつかないのって、孤独ですよね。
自分の文章に価値なんてないんだって、思えて。

対面で、安全な人に、文章を読んでもらってください。
読んで感想をもらう経験は、あなたの背中を押してくれます。

いつか私に、あなたの作品を読ませてくださいね。
私の作品を愛してくれて、ありがとうございました。


優秀賞受賞作品 「過去」と「未来」の自分への贈り物

「過去」と「未来」の自分への贈り物|みけにゃんhttps://note.com/1031mike/n/n1b644ee092c8

▼みけにゃんさんからのメッセージ

通知を頂いた時、確認したのが朝だったのもあり、何か都合の良い夢?幻覚?
私、これはそろそろ本気で危ないかもしれない。
ちょっと落ち着こうか。
と一回その文面を見るのをやめました。
数時間後、ようやく平静になって、見返してやっぱりその通知は間違いなくありました。
夢じゃないとようやく実感し、華さんコンテスト募集記事と自分の記事を改めて読み返しました。しばらく色んな感情がないまぜになり、涙腺が緩んで止まりませんでした。
中間結果の際、嬉しさはありましたが、同時になぜ私は書くのか?をさらに深く考えるようになりました。

誰のためでもない。
私が私であるために。
その表現方法が書くことだった。
そこに尽きると思います。
書くことは非常に苦しいです。楽しいのはほんの一瞬。
もちろん「好き」いう感情も大切です。
が、同時に移ろいやすいです。「好き」なだけは続かなかったと思います。あくまでも私の場合は。

それ以上に残したい、伝えたい思いがある限り、きっとこれからももがき苦しみながら書き続けると思います。

そんな気づきや学びを与えて下さり、栄えある賞まで頂き、本当にありがとうございました。


優秀賞受賞作品 書いたことで伝わる「好き」がある。

書いたことで伝わる「好き」がある。|神崎 さやかhttps://note.com/sayaka637/n/n7fb96e851627

▼神崎 さやかさんからのメッセージ

今回ほど「選ばれる」「選ばれない」について考えさせられたことはありませんでした。「書くこと」は、その人の見えなかった奥底にあるものが、文章としてあらわれます。

受賞できたのは、審査員のジャスミンさん、藤原華さんと、「書くこと」に対する想いの周波数が、幸運にも合わさった「偶然」です。審査員が変われば、当然結果も変わったでしょう。

受賞した記事は、わたしの過去を辿りつつ、「あかるいものを書こう」そんな想いから生まれました。たとえ自分があかるい状態じゃなかったとしても、あかるいものを書けば、あかるい方へいけるかもしれないと思ったからです。

いま、照らされる側にいなかったとしても、陰にいたとしても、そのつらさ、苦しみは創作の一部になり得ると信じています。わたしがそうでしたから。

創作を、あきらめないでほしいです。

これまで、たくさんのコンテストに落ち続けてきた、ただの44歳主婦の言葉ですが、書き続ける限りきっとあなたにも喜ばしい「偶然」がやってきます。

最後にこの場を借りて御礼を伝えたいです。書く部のことばと広告さん、ライラン主催者のヤスさん、応援してくれたnoterさん、書く力をありがとうございました。

このほか、優秀賞を受賞された方は以下の2名さまです。

いつか本音をさらけ出せる日が来るまで、わたしは書き続ける #day40|テシマユリコhttps://note.com/teshiyuri1222/n/ne03122bb1e87

15歳の例文職人、廃業する。|大塚ぐみhttps://note.com/otsukagumi/n/nfc6333dca57a

以上が、受賞作品と受賞者の皆さんからの受賞コメントでした。

皆さん、改めて受賞、本当におめでとうございます!


コンテスト主催者としての最後のご挨拶

これにてコンテストは終了です。皆さん、本当にありがとうございました。

コンテスト主催者として、コンテスト責任者として最後にご挨拶をさせてください。

まず最初にマネージャーへのお礼を。このコンテストは私のマネージャーがいなければ絶対に完遂させることができませんでした。絶対に絶対に無理でした。

応募作品の管理や中間選考の審査、そして最終選考のための準備、受賞者への皆さんへ連絡漏れがないかなどのチェック、受賞者の皆さんからのDMの管理、そしてコンテストが終わった後はこれから賞金を授与するために動いてくれます。

絶対に、私一人じゃ絶対にできなかった。

だから、まずコンテスト主催者として最初にマネージャーにお礼を言いたい。ほんとうに、ありがとう。


コンテストで受賞された皆さんへ

そしてコンテストで受賞された皆さんへ改めてお礼を。

「創作大賞の準備運動の場所として使ってね~」なんて、みんなを助ける場所を提供したつもりが、結局一番助けられたのは私でした。


応募してくれて、ありがとう。

応募のために、作品を書いてくれてありがとう。

命ともいえる時間を削って、立ち向かってきてくれてありがとう。



「審査員はこの私だ。ぶちのめしに来い」

なんて言ったけどさ。イメージとしてはなんかこう、昔の漫画で出てくるような「拳で語り合う」ようなリング上での漢(おとこ)の闘いみたいなのを想像してたんだけど。

フル装備の特殊部隊SWATチームが続々と突入してきた気分だよ(笑)。もうなんなんだよ、勝てるわけないでしょうよ。私丸腰なんだよ!?(笑)


みんなの作品、すごかった。

この先きっと、文章を書いていて壁にぶちあたったら私は何度も読むと思う。

書いてくれて、ありがとう。

あなたの作品を生んでくれて、ありがとうね。


コンテストで落選した方々へ

そしてコンテストで落選した方々へ。

もうすでに書いたことだけど。大切なことだから改めて伝えます。


落選したことは、イコール自分の作品が「全部ダメ」なわけでは決してありません。

「このコンテスト」で「この審査員」に刺さらなかっただけ。ただ、それだけです。たった一人に刺さらなかったからといって、その作品の全てがダメなんてこと、絶対にないですよ。

その作品はあなたが産んだわが子でしょう。あなたはその作品の母親なんでしょう。だったら、その作品を産んだ自分だけは、その作品を愛してあげてください。それが母としての務めだと、私は思う。


中間選考で落選した人から、10通ほどDMをもらった。もちろん表現は違うんだけど、その人たちが言ってる言葉は一緒だった。

「神様みたいに思っている華さんに、読んでほしかった。認めてほしかった。認めてもらうことで、救ってほしかった。だから神様である華さんに読んでもらえず、選考に落ちたことで人生すべてを否定された気がした」

という意味でした。


まず、つらいことはわかる。私だって本気で挑んだコンテストに落選してへこんだことだってあったし。その気持ちだけは、とてもよくわかる。

だけど、最後の最後で自分を救えるのはやっぱり自分しかいないよ。このことだけは伝えておきたい。最後の最後だけは、私に頼っちゃだめだよ。なぜなら最後に自分を助けられるのは自分しかいないからだ。


ここだけは、人任せにしちゃだめ。人任せにしたら今あなたがいるであろうその地獄から抜け出す日が来なくなるよ。ずっと地獄のメリーゴーランドに乗り続けることになるよ。


ましてや私は神様じゃない。ただの、人だ。

みんなコンビニ行くでしょ?するとレジでお会計する時にレジ待ちするでしょ。レジで並んでる時、前に人がいるでしょ。普通に商品を店員に出してお会計している人がいるでしょ。


その人がもしかしたら、私かもしれないんだよ。

想像してみてよ。どっからどう見ても、ふっつーーーーーの人でしょうよ(笑)

つらいかもしれないけど、神様に頼るのはもうやめにしよう。そうしないと、つらい日がもっとずっと長く続いちゃうよ。


そうだ、書くのはどうかな。

「辛い現実を愛すべき過去にするために書く」って言葉が、今回の受賞作品でも出てきたでしょ。この方法、やってみようよ。もちろん、筆が持てるようになった時でいいからさ。


しんどい時は誰にだってある。つらいことだって生きてりゃ当然あるよ。でも大切なのは「つらくても落ち込まないこと」じゃなくて

「落ち込んだとしてもちゃんと元の元気な自分に戻れるよう、少しでいいから努力してみる」

ってことだと思う。

だから、元気になったら、書いてみようよ。ね。




最後に。noteで働く皆さんへお礼をお伝えします。

noteという場所を生んでくれて。そして維持し続けてくれて。本当に、ありがとう。このnoteっていう場所があったからたくさんの愛すべき人に、愛すべき作品に出会えました。ありがとうなんて言葉じゃ伝えきれないくらい、感謝の気持ちでいっぱいです。


創作大賞の授賞式でもらった、皆さんの名刺、大切に持ってますよ。「おめでとう」って話しかけてくれた皆さんの笑顔、今もちゃんと覚えてますよ。


私はね、noteが掲げる「企業としてのミッション」が大好きなんですよ。

だから、noteと言う場所にいるんです。ブログとかBrainとか他のプラットフォームでだって文章を書けるのに、なぜnoteと言う場所を選んだのか。それは、noteという会社が掲げているミッションが、大好きだからですよ。

「だれもが創作をはじめ、続けられるようにする」。

このミッションは、すごいと思う。「創作をはじめる」じゃなくて「創作をはじめて続けられるようにする」。ここがすごいよ。


今回のコンテストの概要にも書いたことではありますが。書くことは簡単かもしれない。でも、「書き続けること」は本当に大変でつらいことなんです。

私は今まで、表現者として何度も何度も筆を折りかけてきました。表現者であり続けることは、諦観・絶望・銷魂とのたゆまぬ戦いでした。

だから、書くことだけじゃなく書き「続ける」ことがどれだけ尊いことか痛いほどよく知っているんです。


だから、素敵だなって思ったんです。

「だれもが創作をはじめ、続けられるようにする」。

「創作をはじめる」じゃなくて「創作をはじめて続けられるようにする」と。「続ける」ことまでをミッションにしたこの言葉が大好きなんです。


だから、このnoteという場所にいるんですよ。


企業の寿命は約30年と言われています。どんな会社も、約30年でつぶれて消える可能性が十分にあります。私が今経営している会社も、きっと30年後には倒産するのかもしれません。

だから、noteという会社も、ずっと永遠にあるってことはないのかもしれません。


だからこそ、今「noteという場所がある」。そのことを尊いと思います。うれしいって思います。そして「この場所をつくってくれてありがとう」と思っています。


今回のコンテストは、noteと言う場所を作ってくれた皆さんがいなかったら開催できませんでした。開催できなかったら、こんなにもたくさんのすばらしい人と、そして素晴らしい作品に私は出会えなかった。出会えなかったらこんなにも人生が豊かに彩られることはなかったと思う。

だから、改めて感謝します。

noteで働く皆さん、本当に、ありがとう。



おわりに


……さて、これにてコンテストは本当に無事に終了しました!

みんな、ここまで読んでくれて本当にありがとう!コンテストの結果発表会場の文字数は、なんと約8万3,000文字。

いやほんとごめん。これ以上圧縮できなかった。最後まで読んでくれた人、絶対目ぇ疲れたでしょ。ホットアイマスクとか使ってほんとに目を休めてね。


さて、私はこれから次の大作品の執筆を開始しようと思う。タイトルは

「もう会社に行きたくないあなたへ」

だ。


完成するのはいつになるかわからないけど、会社でつらい思いをしている人たちのために、丁寧に丁寧に言葉をつむいで原稿を完成させようと思う。


来年ぐらいには書きあがってるといいな(笑)。

書きあがるまでに、ちょこちょこ片付けに関する短いnoteとか旅行したときのエッセイとか、合間にミニnoteをアップするだろうけど。だけど、今私が一番書きたい大傑作はやっぱりこの「もう会社に行きたくないあなたへ」だ。


まだ数行しか書いてないけどさ。

書くの、楽しいよ。

やっぱり書くのって、楽しいねぇ。


みんなも、自分らしく自由にのびのびと文章を書いていってね。時に全力で。時にゆるく。時に気楽にきままに自由に書く。それができる場所がこのnoteって場所だと思う。


きっと、これを読んでいる「あなた」とは絶対にいつかお別れする日がくるだろう。

先に私が「書きたいこと書き終わったから、書くの卒業しまーす!!!♡♡♡」ってなるかもしれないし、あなた自身が「他のことに挑戦したいからnoteアカウントは今月で閉じまーす!♡♡♡」ってなるかもしれない。

だからこそ、今この瞬間このnoteで出会えたこと。本当に奇跡だと思うし、尊いことだと思う。

出会ってくれて、ありがとうね。


じゃ、改めて、コンテストはこれで終了です!

参加してくれたみんな、応援してくれたみんな、見守ってくれたみんな、本当にありがとうございました!

また次のnoteで会おうね~!

ではまた!




noteコンテスト
「なぜ、書くのか」責任者
藤原華より





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藤原華|編集者
もしこのnoteが面白かったら300円サポートお願いします!😭肩こりと背中の痛みがひどくて椅子にすわれないことが多くて……。整形外科で回300円の電気治療してるんだけど、いただいたサポートでもっと電気治療通いたい!!頂いた治療費、大切に使わせて頂いてます🙇