「もう、書けません」
このnoteは以下のnoteコンテスト「なぜ、私は書くのか」の結果発表ページです。
なお、今後コンテストを開催することはありません。詳細はツイッターで告知しました。
「もう、書けません」
そう言って、書くのをやめた物書きをたくさん見てきた。
物書きの筆を折る方法は3つある。
1つはシンプルだ。
反応をしないこと。イイネをしない、感想を送らない、そもそもクリックしない、PVもいつも1ケタ。
「反応がない」状態が続くと、もう書けなくなる。だって読まれないのだから。読まれないのなら書く意味がない。だから、こうなる。
「もう、書けません」と。
私は新卒でとあるWeb媒体の編集部に入社した。媒体の月間PVは数億。数億PVと聞いて私はこう思った。
と。
だが甘かった。
書いても書いても、誰にも読まれなかった。
たしかに月間数億PVもある大手Web媒体ともなると、1日に媒体を訪れる人は何十万人といる。
しかし、私は失念していた。
媒体を訪れてくれる人は、別に「私の」記事を読みに来てくれているわけではないのだ。
だから、書いても書いても読まれなかった。本当に、一切、まったく、クリックされない。
こんな残酷な現実の中を毎日毎日すごした。
週に一度、編集部全員が集まるミーティングが行われていた。そこでは一人ひとりが「今週の自分の成績」を発表する。
と。
私は、いつも、最下位だった。
そうやって書けなくさせる方法は、「読まれない」ことに以外にもう一つある。
誹謗中傷だ。
私が所属していたのは、かなり大きなWeb媒体だった。大手のWeb媒体となると、自社の媒体に掲載された記事は「外部の媒体」に配信されることになる。
たとえば、スマートニュースとかYahoo!ニュースだ。自分が書いた記事は自社媒体だけではなく、「他の」たくさんの媒体に配信されるのだ。
ところが。
一つ問題があった。
配信先の外部媒体に「コメントを書き込める機能」がついているケースがあるのだ。たとえば、Yahoo!ニュース。Yahoo!ニュースには記事に対するコメントを書き込める機能がついている。
私がいた媒体にはコメント機能がなかった。だが、配信先の外部媒体のうち、いくつかの媒体には「コメントを書き込む」機能があったのだ。
これが、問題だった。
入社して数か月が経ったある日。上司から初めて
と許可をもらえた。うれしくてうれしくて。デスクでうれし泣きするのを必死に我慢したことを今でも覚えている。自分のデスクに飾ってあった、100均で買った小さい観葉植物をじっと凝視して
と自分に言い聞かせて、うれしくて跳ね上がる心を落ち着かせたことを本当に今でも鮮明に覚えている。
取材先の選定、取材の申し込み、カメラマンの手配、ライターの手配、当日の段取り。いろんなことが初めてでアタフタしたけど、なんとか無事に取材を終えることができた。
取材原稿もなんとか完成し、上司からたくさんの修正を受けた上で「うん、これなら掲載していいよ」と言われた。
やっと、自分の取材記事を掲載できる。
そう思って掲載ボタンを押した。
しかし、前述のとおり私が所属している媒体には「コメントを書く」という機能がついていなかった。だから自分が書いた記事で、読んでくれた人がよろこんでくれたかがまったくわからなかったのだ。
だから見に行ってしまった。
自分の記事が配信されている外部の媒体を。その外部の媒体に、どんなコメントが書かれているのか。見に行ってしまったのだった。
そこに書かれていたのは罵詈雑言の嵐だった。
コメントの数はたしか80個ぐらいだったと思う。ここに書けないほど、読むのがしんどい言葉が並んでいた。
全部読んでしまった。全部、読んでしまったのだ。
もちろん、中には建設的な意見もあった。
みたいな意見だ。だけどそれ以外は、当時の私には建設的な意見にはどうしても見えなかった。
私はまだ新人でピヨピヨの編集者だったから。とてもショックを受けた。定時になり、少しだけ残業をして、いつも通り帰宅するため電車に乗った。その帰りの電車で立っているのがやっとだった。
私には、覚悟が足りていなかったのだ。
文章を書く以上、批判の的になることも絶対にあると。そのことを理解してなかった。覚悟もしてなかった。だから余計に、ショックを受けてしまっていた。
しかも、よりによってその帰りの電車で痴漢にあった。今でも覚えている。小田急線の新百合丘駅行きの特急電車。ものすごい人で身動きがとれないほどの満員電車だった。
痴漢をされたその時は、なぜか
と思った。罵詈雑言の、80個ものコメントを読んだばかりだったからかもしれない。なんだか、「自分に価値なんてない」「痴漢なんてされて当然だ」みたいな考えになってしまっていたのだ。
今もし痴漢をされたらこの時の私とは真逆の反応をするだろう。麻の袋にボーリングの玉をつっこんで反射的に相手の頭をぶん殴り返しそうになるのを
と必死に暴力でやり返すのを我慢する。そのことに全力を注ぐだろう。
でも。
当時の私は、「痴漢なんてされる自分が悪いんだ」とまで思ってしまっていた。
編集者としてたくさん記事を書いてきた。たくさんの誹謗中傷を受けた。
そして、他の編集者がそうであるように、そんな中傷を受けることに徐々に慣れていった。
傷つかない。……というよりも、
で終わるようになってきた。受け流す、という表現が近いのだろうか。誹謗中傷を受けても「この人はこう思ったんだな」で終わるのだ。
中傷をされても。もうその中傷で傷つく痛覚が。私にはもう、無かった。
痛覚を「ちゃんと」失う。これができなかった編集者はどんどん辞めていった。心が壊れてしまう前に。自分を守るために辞めていったのだった。
何人も、何人も、辞めていくのを見てきた。私は去っていく人たちの背中を一切の感慨もなく見送ってきた。「そうか、辞めるんか」としか思わなかった。
そんなある日のことだった。会社で研修があった。研修の内容は「風評被害についての講習」だった。
中小企業でも大企業でも。どんな企業でも風評被害にあうリスクは必ずある。たとえば、自分が買ったプリンの中にわざと虫を入れて
と誤った情報を広める人も中にはいる。実際そういったニュースを見たことがある人もいるだろう。
そういった風評被害を受けないようどう予防すべきか、そして風評被害が発生した場合どう対応すべきか。それを学ぶ講習があったのだ。
講習を担当した講師は、
に所属する社員だった。風評被害の対応サポートをしたり、あとは芸能人やタレントが誹謗中傷を受けた際、中傷した人に対して開示請求するのを代行したりするのが仕事なんだそうだ。
講習が終わった後。
その「誹謗中傷対策の専門会社」の担当の人とちょっとだけ雑談をした。その中で、「普段Web編集者が毎日受けている誹謗中傷」が話題にあがった。
すると途端に相手の顔色が変わった。
というので、「こんな感じで記事を掲載するとこういうコメントがいっぱいくるんですよ~」と何となしにそう言ったら、その担当者からこう返された。
と。
「そうなんだ」、としか思わなかった。
もう、慣れてしまった。もう私には痛覚がないから。だから「そうなんだ」としか思わなかった。
多分相手は気遣いのつもりでその言葉をかけてくれたんだろうが、当時の私はそれに気づくことができなかった。「1か月で普通の人が受ける一生分の誹謗中傷を受けてますよ」と言われても。
この時は「だから、何?」としか思った。
さて話はガラリと元に戻る。
そう、物書きに筆を折らせる方法は3つある。一つは読まれないこと。二つ目は、誹謗中傷を受けること。
では、三つ目は何か。
これはきっと、プロの物書きや同業の編集者なら即答だろう。
そう、「褒めること」なのだ。
と、過剰に褒めまくり、崇め奉る。すると何が起きるか。
重圧で書けなくなるのだ。
そう思ってしまうのだ。
しかも恐ろしいことに。この重圧は何も「他人から」課されるとは限らない。
「自分で勝手に」重圧を背負うこともあるのだ。
私は第一回創作大賞で優秀賞を受賞した。受賞した結果、受賞作品は書籍化され全国の書店に並んだ。
これは、本当にうれしいことだ。今でもうれしいことだと思っているし、ありがたいなと思っている。そこだけは事実だ。
だが、私は受賞した結果、書籍化していただいた結果、書けなくなったのだ。
半年間、一切文章を書けなくなった。
なんて、誰にもこんなこと言われてないのに。
勝手に自分で「他人からそう思われている」と考えてしまったのだった。今思うと自意識過剰にもほどがある。だが当時は本当にこの状況に陥っていた。
だから、書けなくなっていた。
もちろん、仕事が忙しいというのもあった。サラリーマンを辞め、会社を設立したばかりだったから。本当に仕事でバタバタしていた。
だけど、それでもちゃんと休日はあったのだ。そんなおだやかな休みの日に、筆をとることはできたはずだ。
でも、書けなかった。新作を出した結果、
とがっかりされるのが怖かったのだ。
noteで何も書けなくなったその半年間。私は実は、インスタグラムに逃げていた。
適当につけた別名のペンネームで、インスタでエッセイを書いていたのだ。ここなら、誰も私を知っている人はいない。駄作を書いても誰にもガッカリされない。
おまけにインスタグラムは、そもそも写真を見るためのプラットフォームだ。文章を自由気ままに書いても「たいして読まれずに」済む。たいして読まれないのなら、ガッカリする人だって少なくて済む。
だからインスタという場所をあえて選んだ。その日、近所を散歩中に撮った適当な写真を載せて、フィード投稿の本文で思いっっっっ切り自由に文章をつむいでいた。
だけど、ダメだった。
ある日、恐ろしいコメントが来たのだ。その人はこんなコメントを送ってきた。
と。
すごく長かったから正確には覚えてない。覚えてないけど、とにかく私のことを崇拝するようなコメントが来たのだった。「神様」という言葉が書いてあったことだけは覚えている。
「おもしろかったよー」とか「このエッセイ好き!」とか。そういう「もらって嬉しい感想」の類ではない。
そうじゃなくて、まさに「重圧で書けなくなるような」そういうコメントだったのだ。
「あなたの文章に私は救われた」「あなたは私の救世主だ、神様だ」「一生あなたについていく」みたいな、そういうコメントだったのだ。
と。勝手にハードルを設けられた気がした。そしてその勝手に設けられたハードルを超えろと強要されたように感じた。
その人が何を思って私を「神様」と言ったのかはわからない。本当に神様だと思ったのかもしれない。
だけど、うっすらと悪意が透けて見えた。
「アカウント削除に追い込んでやろう」という悪意が。
多分この人は知っていたんだと思う。「神様」に祭り上げることで物書きが筆を折るということを。
とも思った。
神だと崇め奉ることで書けなくすることを知っていて。「わざと」、神様だと言ってきている。神だと崇め奉り、私が苦しむ姿を見て楽しむために言ってきている。
正直、私にはそう見えた。
だからもうその瞬間、アカウントを削除した。
たしかフォロワーは7,000人ぐらいだったと思う。頭に7が2つ連続で続いていたことだけ覚えている。「7723人」とか「7798人」とかそういう数字だった。
約7,000人のフォロワー。
これは一般的に多いとみなされるのだろうか。それとも少ないとみなされるのだろうか。
私自身がWebの世界で仕事をしていたせいなのだろうが、約7,000人のフォロワーというのは、ハッキリ言って、かなり、「少ない」。
たとえば私がいた媒体にはSNSで発信することだけを仕事にした「SNS専門チーム」があった。そのチームに配属された新人には
することが義務付けられていた。目標ではない。必達だ。
だからWebの世界で仕事をしている人間からすると、約7,000人のフォロワーというのは「ぴよぴよの新人が三週間もあれば達成できる数字」という感覚なのだ。
私が削除したアカウントのフォロワーは約7,000人だった。そのアカウントを、私はためらいもなく削除した。
という感覚もそこにはあったと思う。そして、
という感覚もあったと思う。
だけど一番の理由は、
からかもしれない。
「すごく極端な思考に走った」と、今考えると思うよ。でも、「あなたは神様です」とたった一人の人が言ってきたことで、「そのほかの全員も私のことを神様扱いしてるのでは」と怖くなったのだ。
これは、かつて友人が言った言葉だ。
友人がこの言葉を放ったその時。私は、「そんなことないよ」「あなたを愛してくれてる人も絶対にいるよ」と、そういう意味の言葉を返した。
だけど自分のインスタのアカウントを削除した瞬間は、まさに同じことを思った。「フォロワーの数なんて、自分に向けられた銃口の数だ」、と。
たった一人、「あなたは私の神様です」と言ってきた人がいたことで。その人以外のすべてのフォロワーまでもが「敵だ」と錯覚してしまったのだ。
平日の、夜のことだった。
何曜日だったかまでは覚えてない。週の後半だったのはうっすら覚えてるから多分木曜日あたりだったのだろう。
夜の11時。布団に入って眠ろうとしている時のことだった。真っ暗に消灯した寝室、ふかふかの布団の中。寝る前にインスタを開いたら「あなたは私の神様です」と書かれいてた。
それを見て、もう何もかも、イヤになった。
私はインスタの設定画面に行き、「アカウントを削除する」を押した。
本当に、なんの、ためらいもなかった。
だって、そこにはもう、私の居場所はなかったから。
私のアカウントがなくなって、約7,000人の他のフォロワーはどう思ったんだろうか。
ぐらいで終わったんだろうか。
ぐらいで終わったんだろうか。
私のことを神様だと言ったあの人は今頃、どう思っているんだろうか。
そう、思っているのかもしれない。
結局、重圧に負けた。
「きっとこの人なら神様みたいな文章を書いてくれるだろう」という重圧に、私は負けたのだった。
編集者の仕事をしているから、もちろん仕事で文章は書いている。ライターさんから納品されてきた原稿も編集するから、「ライターさんと一緒に文章を完成させていく」という形で文章は書いている。
だけど、
と思った。
そんな日々を過ごしていたある日。
仕事でZoomミーティングが終わった後、Zoomを終了せずにとあるライターさんとちょっとだけ雑談をしていた。
彼女は雑談の中でこんな言葉を教えてくれた。
という言葉だ。
私が書くということの重圧に苦しんでいることが、ちょっとだけバレていたのかもしれない。だから、なんだか励ますような言葉をかけてくれたのかもしれない。
彼女は、私にこう言ってくれた。
と。
これが「駄作を出す勇気」だと。彼女は教えてくれたのだった。その勇気を物書きならば持たねばならないと、そう教えてくれたのだった。
ずっとnoteという場所から逃げていた。
創作大賞の受賞者、応募作品の書籍化、そういう自分の実績を勝手に重圧にして書けなくなっていた。
そう、まさに「駄作を生み出す勇気」を私は持っていなかったのだ。
怖かったけど、この勇気を持って新しく文章を書いてみる価値はあると思った。
だから一つのnoteを書き上げた。
結果、何の反応もなかった。
イイネもPVも、過去の作品に比べて恐ろしく少なかった。
結局、私が勇気を出して書いた新作は、駄作だった。
でも別に、それでいいと思った。
そう反省して次に活かせばいい。そう思ったのだ。「そうか、これが駄作を生み出す勇気か」と。少しだけだけど、その勇気を持てた気がした。
ところが。その「駄作」を掲載して数か月が経ったある日。
コメントが来たのだ。
という意味のコメントだった。
そのコメントをもらった時、私は有楽町駅に居た。
有楽町の駅前の高層ビル、たしか7階あたりだったと思う。7階にある会議室でクライアントとの打ち合わせが終わり、1Fのエントランスを出て、有楽町駅前にあるヨドバシカメラに入ろうとしたその時だった。
その「読んでよかった」というコメントをもらったことに気づいたのだ。
有楽町のあのにぎやかでガヤガヤとした駅前のヨドバシで。スマホを持って立ち尽くした。「読んでよかった」と、書いてあったそのコメントをじっと凝視した。
と思い出した。
私、伝えたいことがあるから、文章を書いてるんだった。
伝えた結果、「読んでよかった」と思ってもらいたいから書いてるんだった。
そうだ、そうだった。
だから書いてるんだった。
なんでこんなこと、忘れてたんだろう。
勝手に自分で重圧をかけて、勝手に書けなくなるまで自分を追い込んで。
なんでこんな簡単なこと、忘れていたんだろう。
そのコメントをくれた人のアイコンはオニギリのイラストだった。だから私のパソコンには、オニギリのステッカーが貼ってある。ロフトで300円くらいで買ったオニギリのステッカーだ。
「なぜ、書くのか」を思い出させてくれた大切な人だから。「なぜ、書くのか」を思い出させてくれた人だから。
この人に恥じない文章を書けるよう、「なぜ、書くのか」を二度と忘れないよう。文章を書くときはいつもこのステッカーを見て書いている。
私は、この人のおかげで、書くことができているのだ。
そうして少しずつ、書けるようになってきた。
noteでいろんな文章を書けるようになってきた。PVやイイネの数は確かに気になる瞬間ももちろんあるけど、でも、「単なる指標の一つにすぎない」ぐらいの気持ちで自由に書いていこうと思った。
……そんなある日。
すっごく素敵なエッセイに出会った。朝起きて布団の中でスマホをひらいてなんとなくクリックしたエッセイが。
とっても面白かったのだ。
すごく衝撃的だった。エッセイが面白かった、というのもある。それもあるんだけど、そのエッセイを書いている人自身が
と。そう思って書いてるのが目に浮かぶような文章だったのだ。
まさに、ダンプカーに轢かれたような衝撃だった。ダンプカーに轢かれる前は「瀕死の状態だけど、何とか頑張って震えながらビクビクおびえながら書いていた」のに。
ダンプカーに轢かれた後は「もうこの人みたいに思いっきり楽しんじゃお!」と元気が出たのだ。
逆じゃないか、普通。
ダンプカーに轢かれたら瀕死になるはずなのに。ダンプカーに轢かれた後のほうが元気モリモリ(死語)になるなんて。
それからは毎朝、布団の中で起きた時にスマホを取り出し、その人のエッセイを読むようになった。
そう思いながらスマホを開いて、「n」と書かれたあのnoteのアプリを開くのが毎朝の楽しみになった。
その人のエッセイを読むと、すごくすごく書きたい意欲がわいてきた。その人のアイコンは、黄色い丸にかわいい顔が描いてあるアイコンだった。その日から、noteを開くたびに黄色いアイコンがあると反射的にクリックして楽しく読むようになった。
毎日読むうちに、私はこう思うようになった。
そう本気で思った。私の文章を読んで、「書きたい意欲がわいてくる」。そんな文章をつむぎたいと思った。
だから、書いて書いて書きまくった。
そしたら本当に、「あなたの文章を読むと書きたい気持ちがわいてくる」と言ってもらえるようになってきた。
一人や二人じゃない。すごい数の人たちが
と感想ツイートをしてくれるようになった。
そういうコメントをもらうたびに、私はそのコメントをスクショして宝物にしている。私も、あの黄色いアイコンのあの人に一歩近づけたような気がしたから。
……だけど。
雲行きが、あやしくなってきた。
あのときインスタグラムでもらった「あなたは私の神様です」みたいな空気を、ほんのりと感じ始めた。
私のことを
と言っている人を見かけて。
本当に、怖くなった。
私のことをそう表現する人のことを非難しているわけでは全く、ない。
そうではなくて
あぁ、また、書けなくなる。
そう思ったのだ。
私のことを「note界では知らぬ人などいない超有名人」と言ってる人を見て、正直、邪推した。「そう重圧をかけて、書けなくしてやろう」としているのではと疑ってしまったのだ。
試しにnoteの中でエッセイストを検索してみた。フォロワーが数万人もいる人なんてゴロゴロいた。そして本当に申し訳ないんだけど、正直、私はそのうちの誰も知らなかった。
そういえば私のフォロワーは何人なんだろう?
フォロワーの人数なんて、もうここ数か月気にしたことがなかった。人数なんてどうでもいい。こういう、「数字を追うこと」に疲れたから会社辞めて独立したのに。フォロワーの数を気にするなんてことで疲労困憊したくなかった。だから全く気にすらとめていなかったのだ。
でも、今回ばかりは確認しないといけない。だから、自分のアカウントトップに飛んでみた。私のフォロワーの人数は、「フォロワーが数万人もいる超有名noter」の足元にも及ばなかった。
そのこと自体は、別に問題じゃない。足元にも及ばないこと。それが問題なのではない。
というかむしろ、私のフォロワーがたとえ30人だったとしても
とうれしい気持ちになる。だから数は問題じゃない。
問題はそこじゃなくて、「他の有名エッセイストの足元にも及ばないようなフォロワーの数」なのに、どうして
と言われるのか。意味がわからなかったのだ。本当に、今でも、意味がわからない。
やっぱり正直、一瞬だけ邪推もした。
あの時インスタグラムで「あなたは私の神様です」と言ってきたあの人みたいに。「書けなくしてやる」という悪意を持ってそう言っているのかと一瞬だけ邪推してしまった。
だが、そんな悪意はなかった。シンプルに、
ただそれだけだった。そこに悪意は感じられなかった。
他のnoteでも書いたことだが。
私が書く理由はたった一つだ。
「伝えたいことがあるから」書く。
だから「伝えたいこと」を書き終えたら私はnoteからいなくなるだろう。
これは最初から決めていたことだ。
私は、「伝えたいこと」を書き終わったらもう書かない。
なぜなら、私が書く理由が「伝えたいことがあるから」だからだ。伝えたいことを伝えきったら、書く理由がない。だから、やめる。ただそれだけの話だ。
「これから書く予定のネタ一覧」が書かれたネタ帳を改めて見てみた。書きたいと思っているネタは「残り18個」だった。
18本のnoteを書き上げるのにどれくらいの期間がかかるのだろうか。3か月か。3年か。それはわからないが、この18個を書き上げたら私はここから立ち去る。
なぜなら、もう書くことがないからだ。
だけど。
その「伝えたいこと」を書き終える前に「書けなくなる」状態になるのは、どうしてもイヤだった。
だって伝えたいことがあるから書いてるのに。伝えたいことを伝えきる前に書けなくなるなんて。
絶対に、イヤだった。
だから、
みんなに「書く」理由を聞いてみた。
今回、私は「なぜ、書くのか」というコンテストを開催した。このコンテストの概要にも書いてある通り、このコンテストの目的は2つあった。
一つは、「創作大賞の準備運動として使ってもらうこと」。
そしてもう一つは、この「なぜ、書くのか」というコンテストを通じて
ということだ。
「そうか、こういう理由で書いてもいいんだ」と、新しい発見があればそれはその人の救いになるかもしれない。だから、そういう「救いになるような場所」をつくりたかった。
とたった今書いたばかりだが。今思うと、この「誰か」の中には自分自身も入っていたのだろう。
こんなことを言われて、書けなくなりそうで怖かったから。だから、助けてほしい。そういう気持ちが、自分の中にきっとあったのだろうと思った。
「なぜ、書くのか」。
これをコンテストのテーマにすることで、たくさんの人が「なぜ、書くのか」という質問に答えてくれた。
ある人は、こんな答えを私に話してくれた。
心が震える、伝わる文章を書きたいから。
と思った。
私も、伝わる文章を書きたいから書いている。
「同じ人がいた」。少し、うれしくなった。
「心が震える、伝わる文章を書きたいから」とその人は言っていた。伝えたいことがあるから書く。伝えた結果読んでくれた人の魂をゆさぶりたいから、書く。怖いけど、だけどそれでも、私は書く。
その人は勇気を振り絞って「だから、書くのだ」と言っていた。
「怖かったんだろうな」と思った。
どこの誰に読まれるかわからないこんなnoteという場所で。自分の意志をここまで表明すること。どれだけ怖かったことか。「少し怖いです」とこの人は言っているけど。でも本当は「少し」どころじゃなかっただろう。
でも、勇気を出して、この人は書いたのだった。
この人の作品を読んでみた。
恐怖の残骸が、ひとかけらだけ残っていた。恐怖のあまり、自分を守ろうとして書いた文章が一行だけ残っていた。でもその一行以外は、全部自分をさらけだして勇気を出して全力で書いてきていた。
すごいな、と思った。
恐怖と闘って、ぶちのめして勝ったんだなと思った。この人の文章は何度も読んだ。何度も何度も読んだ。
私は怖くなってアカウント削除して逃げ出したのに。この人は逃げなかった。すごいなと思ったと同時に、少しだけ、羨ましくもあった。
この人は「伝えたい『あなた』に対して、伝えたいことがあるから書く」と言ってくれていた。
そして別の人はこうも言っていた。
伝える相手は、他人じゃなくてもいい。「自分に」伝わる文章だってかまわない。
と。
と、その人は言っていた。
「書かなくていいかな」思うくらいまで追い詰められているのに。その人は筆をとっていた。その筆でつむがれる文章は、読んでいて少し切なくつらくなる言葉だった。
そこには、「文章は誰でも書けるけど、伝わる文章は書けてない。そのことに気づいてしまった」と書いてあった。
そう記した上で、最後にこの人はこう締めくくっていた。
……今はまだ他の誰かに届く文章は書けてないけど。
一番に届けたいのは「自分」だから。
それでいいんだって。
だから自分に届けられるよう、これからも書いていくのだとこの人は言っていた。
と、私はそう思った。
「あの時、書き続けると決めてくれて、ありがとう」ってきっと感謝するんだろうなって、思った。
書き続けると決断したこと。その決断を「正解だった」と言える未来にするための努力を、この人はきっとするだろうから。
この人は「自分に届けるために書く」と言った。
そしたらまた別の人が素敵なことを書いてくれていた。
その人は、「自分のために書く」のではなく「大好きな人に、大好きだよ」と伝えるために書くと言っていた。
娘に「好きだよ」と伝えるために書く。
娘に「好きだよ」と伝えるために書く。
しかも、100個も好きなところを書く。
これさぁ……100個も思いつくのがそもそも本当にすごくないか。私、ためしに夫の好きなところをエクセルで出してみたよ。ほんっっっっとに申し訳ないが9個が限界だった。好きな人の好きなところを100個書く。まずここに衝撃を受けたよ。
そしてこの人のnoteの中には、実際に「娘の好きなところを書いたその手紙の写真」が載っていた。これ、いいな。私エクセルで書き出しちゃったけど、手書きでこんなのもらったら一生の宝になるだろう。
そしてこの人は、「亡くなったおばあちゃんにも書けばよかった」と言っていた。
この人の文章を読んで、私はこう思った。
「好きな人に好きだと伝えるために、書く」。そんなこと、考えたこともなかった、と。
でもさ、これ考えてみれば当たり前の話だよね。だって言葉は「伝えたいことを伝えるため」に存在しているんだもん。
そういえば私、両親のことを思い出した。
私は両親から毎日「大好きだよ」と言われて育てられた。だから子供のころの私は
と思いながら育ったのだ。
結果、私も他人に対して「大好きだよ」と真正面から好きだと伝える人間に育った。
たまに相手にびっくりされることがあるけど、でも好きなんだからしょうがない。好きだから、「好きです」って伝えている。自分が「大好きだよ」と言われて育ったから、同じように他人にも「大好きだよ」と伝えている。ただ、それだけだ。
だが、家族に対してはどうだろうか。好きと伝えたことがあっただろうか。身近過ぎて一度も伝えたことがなかったかもしれない。「いるのが当たり前」で伝えたことがなかったかもしれない。
娘の好きなところを100個書いたこの人みたいに。
ちゃんと、伝えよう。自分が、そして家族が生きているうちに、伝えよう。
そう思った矢先、別の人がとても面白いことを言っていた。その人は、noteの中でこう書いていた。
と。
愛してるよと、未来の娘に伝えるために書く。
なるほどなぁ~~~と、思った。文字ならではの特長だよね、これ。
確かに「今」伝えることだって大切だ。でも、遠い未来に伝わればいいと、そう思って書いたっていいんだ。そんな気持ちで「愛してるよ」を言葉で残してもいいんだ。
と思った。音声は一瞬で消えるけど、文字は残る。残るから、遠い未来に大切な人に大切な言葉を届けることができる。「文章」という表現形態の特性を上手に利用した、素敵な書き方だと思った。
今登場したこの二人の方は、大切な人に「好きだよ」と伝えるために書いている。
この「好きだよと伝えたい」という気持ちは、とっても強いのだろう。この二人の文章を読んでいても、それがすごくすごく伝わってくる。
そうだよなぁ……。「伝えたい」って気持ちは、書く原動力として本当に強力な起爆剤になるよなぁ。
そういえば私自身もそうだわ。
「伝えたい」という気持ちをガソリンにして文章をつむいでいる。すぐ横に座っている人に対して、小学校の全校集会で校長先生が使うようなあのスピーカーを使って5億デシベルくらいのな音量で話しかける。
そんな文章を、私は書いているもんな。
だからこの「なぜ、書くのか」というコンテストの参考作品、「自分の文章に自信がなくて吐きそう」というnoteでも、マグマのように熱い灼熱の一行を最後に書いた。
と。
だって、これが私の伝えたいことだったから。「伝えたい」という強い思いを起爆剤にして書いた、私の文章だ。これが私の文体だ。これが私の書き方だ。だから私は、「ぶちのめしに来い」と書いた。
そしたらさ、ちょっと聞いてよ(笑)。
「ぶちのめしに来い」って書いたら、こう返答してくれた人がいた!
もうさ~~!!
この文章がおもしろすぎて声出して笑ってしまった(笑)。
私この時自宅のデスクに座ってたんだよね。自宅のデスクで、審査のために応募作品を順番に読んでいた時、「さて次の作品を読もう」と思ったらこのタイトルが出てきた。
もう、マジで、声出して笑った。
それと同時に、すっっっっごくうれしかった。
実は、こういう作品「も」求めていたのだ。
「ぶちのめしに来い」とは言ったものの。実は、私は「みんなが本気でぶちのめしに来るかどうか」を見ていたのではないのだ。
じゃあ実際は何を見ていたのか?
それは、どういう方法でぶちのめしにくるか。その「ぶちのめし方」を見ていたのだ。
「ぶちのめすつもりで書けるわけあるか」と書いたその人は、本文でこんな言葉をつむいでいた。
「そんな空回る日々を見て、誰かが笑ってくれたらいい」
そうそう!そうなんだよ!ねぇ今の見た!?今の文章マジで良くない!?
そうなんだよ。「文章に本気」の人に真正面からぶつかっていく必要なんて、全然ないんだよ。だってそんなことしたら筆が折れちゃうことだってあるでしょ。筆が折れたら書けなくなっちゃうでしょ。
別にどっちが優れているとかそういう話ではない。文章に本気になりたいなら本気になればいいし、ゆるく書きたいならゆるく書けばいい。本気の人の方が優れているとか、そんなことは一切ないんだ。
だが今回は「コンテスト」だ。コンテストの審査員である私は「文章に本気の人」だ。
私は編集者をもう12年もやっている。日本一の編集者になったつもりで、毎日、本気で、仕事をしている。文章のプロとして、誇りと自信をきちんと持ち、時に失敗し、反省を繰り返し、それでも前を向いて成長し前進し続けている。
だから間違いなく、今回のコンテストの審査員である私は、「文章に本気の人」だ。
だから、戦い方を変えなければいけない。「文章に本気の人」に勝ちたいなら、「真正面からはぶちのめしにはいかない」。これが正しい戦い方だよ。私は、そう思う。
たとえばさ、私はかなり小柄な体格をしている。152センチ43キロ。こんな小柄な女性が、毎日リングにあがって戦い続けているプロレスラーに挑んだら2秒で負けるだろう。だから、勝てないとわかっている相手には真正面から戦いを挑んではいけないのだ。
だから、勝つためには土俵をずらせばいいのだ。土俵をずらさなければいけないのだ。このことをビシっと言葉に書いてくれている人が、なんと一人、いた。この人だ。
文章で相手に勝ちたいなら、「土俵をずらして戦いを挑む」
そう。まさに、これだ。
闘って負けるのがわかってるのなら土俵をずらせばいいのだ。
この文章がさ~!!もうさ~!!うれしくてさ~!!
この人が書いた文章のメインディッシュはここじゃないと思う。ここじゃないとわかってはいるんだけどさ、私は、この「土俵をずらすぞ」というここの文章が一番素敵だと思った。
でもさ、ちょっと聞いてほしいんだけど(笑)。
この人の文章ですっごく面白い点が一つあった。
土俵をずらすと言っておきながら、ずらしてない。私から見ると、真正面からぶつかってきてくれたように見えたのだ。
この方の文章を何度も何度も読んだ。
何度も読んだけど、すごかった。
すごい熱量で書いてるんだよね。「土俵をずらす」という戦略をとると書いてあること自体にも驚き、うれしいと感じたのに。
負けた、って思った(笑)。
結局のところ、この人の文章に、私は負けた。なんかさぁ、すがすがしい敗北感だったよ。私から見ると、土俵をずらさず真正面から向かってきてくれているように感じた。そして、はっきりと「負けた」と思った。
おもしろい感覚だったよ。確かにそれは敗北感であるはずなのに、「すがすがしい」敗北感だった。むしろ爽快感とすら言ってもいいくらいだ。
と書いて本当にぶちのめされた。
ふふっ、なんかちょっと、うれしいね。だって真正面から向かってきてくれたんだもん。コンテストを開催して、よかったなって思った。
そして、一方でおもしろい土俵のずらし方をしている人もいた。この人だ。
ご飯としての文章ではなく、おやつとしての文章が書きたい
ほぅとため息が出た。
いや、なんかさ。多分なんだけど。
私が書いたnote、そしてあなたが書いたnoteを、
って人、マジでこの世に一人もいないと思うんだよね。今まさに私の文章を読んでいるみんなだってそうじゃない?「この文章を読むためだけに時間をとりました!」って人、多分いないと思うんだ。
じゃあどんな時に私たちの文章は読まれるのか?
それは、隙間時間だ。
日曜朝の布団の中、月曜朝の通勤時間、会社でのお昼休み、帰りの電車の中とかだと思うんだ。つまり、隙間時間に読まれると思うんだよね。
そしておそろしいことに。
この隙間時間で読める文章は、「無限に」、ある。
つまり、その隙間時間で自分の文章を読んでもらおうと思ったら太宰治と戦わないといけないのだ。糸井重里と戦わないといけないのだ。村上春樹と戦わないといけないのだ。
でも、彼らに真正面から向かって言ったら負けるに決まっている。彼らのつむぐ言葉が、青山の超高級レストランでいただける7万円のフランス料理だったとしたら、「自分がそれを超えるフランス料理になろう」としてはいけないのだ。
なぜなら、絶対に勝てないから。
だから、土俵をずらすのだ。手軽に気楽に食べられるサイゼリアのポジション、たまの贅沢でデリバリーするモスバーガーのポジション、はたまた、コンビニでサクっと買えるウマい棒のポジションを狙うのだ。
だから、この人が言っている「おやつとしての文章を目指したい」は、その姿勢そのものが美しいだけでなく、「人さまに読んでいただくための戦略」としてとっても素晴らしいと思った。
そして実際、「ほっと一息つけるおやつ」みたいな文章に本当に仕上がっていて、「すっげぇな……」って思ったよ(笑)。
有言実行してるんだよね、この人。ものすごい物書きだと思った。
そして別の方は「土俵をずらす」ということについて、とっっっっっっっっても素敵な表現をしていた。この人だ。
全力なんて出さなくていい、ゆるく自分らしく、気楽に書けばいい。
もぅ好き~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!大っっっっ好き!!!
この人の文体、言葉の選び方、そして考え方、そしてこの作品そのものが、好きだ。
noteって言う場所は、本当に自由な場所だよね。
全力で書いたっていい。いつもの半分の力で書いたっていい。脱力して書いたっていい。ゆるく自分らしく気楽に書いたっていい。なんならもう、その瞬間書きたいと思ったことだけを一行だけ書いて終わったっていい。
たしかに、全力を出して書いている人は、このnoteという世界に大勢いる。でも、その「全力で書く」という姿勢が唯一の正解なんてことは絶対に、ないんだよね。
この人は、そう書いてくれた。素敵な言葉だと思った。この一言に救われる人が、一体どれほどいるんだろうね。
そして「全力で書かなくてもいいんだ」というこのテーマについて、すごく面白く、高らかな大宣言をしている人がいた。この方だ。
「こんな人でも文章を書いていいのだ」と、世界に知らしめるために、私は書く。
「noteの中には全力で書いた濃厚な文章がある」。
この人は、そんな全力の文章を読んだとき「まぶしい」と思ったそうだ。なぜなら自分には「絶対にこの話を伝えたい」なんてことがないから。ないから、書けない。そう前置きした上で、この人はこう言っていた。
いやマジで待って。ちょっと待って。
ちょっと不安になった。
読んでいて、とっても不安になった。
「書くの、やめるわ」。
この人が、こう言い出すんじゃないかと思った。
もしそう書かれてたら、どうしよう。
私マジで、3秒くらい、ためらった。スクロールしたくなかった。「書くの、やめる」と書いてあるんじゃないかと思ったから。
って思ったから本当に不安でいっぱいになりながら、覚悟を決めてスクロールした。
そしたらこんな言葉が太文字で書いてあった。
と。
続けてこの人はこう書いていた。
「なんっっっっっっっっっっっっっっって素敵な人だろう」と思った。思ったってレベルじゃない。うなったよ。
高尚な理由がないと、書いちゃいけない。
文章がうまくないと、書いちゃいけない。
ヘタレでビビリだと、書いちゃいけない。
言い訳する弱虫だと、書いちゃいけない。
そう思って、「怖くなって書けなくなっている人」がどれほどいることか。そしてこの人のこの宣言が、そうやって「怖くなって書けなくなっている人」の心をどれほど救うことか。
「怖くなって書けなくなっている人たち」を救う。そのために、
とこの人は言った。これさぁ、マジでたくさんの人を救うよ。たとえば、こんな人を。
「うまい人の文章を読むと、もう書くのやめよう」って思う。
キッッッッッッツイな(号泣)。
この人の文章は、ちょっと読むのが正直キツイくらい、「わかる」と共感してしまう文章だった。
とってもとっても理解できる感情だった。ちょっと共感しすぎて読んでる最中、自宅のデスクで椅子に座りながら上を向いてしばらく目をつむった。
さっきは「ぶちのめすつもりで書けるわけあるか~」なんてタイトルで声出して笑ってたのに。今度はこの人の
という文章を読んで共感しすぎたあまりちょっと涙ぐんだ。
いや、審査してた時さ、私の感情の振れ幅すごかったよ。夕方のニュースで見かける「為替の値動き」ぐらい振れ幅すごかった。上下に動きすぎだったよ、審査してた時の私の感情。
この人は、「うまい人の文章を読むと、もう書くのやめよう」と書いた。
その気持ちはすごくわかるんだよなぁ~~~~。すっごくわかる。
でもさ、この気持ちに負けたらダメだと思った。勝たないといけないと思った。
何も勝つのは、今じゃなくていい。来週でも来月でも来年だっていい。なんなら「今日は勝ったけど明日は負ける」みたいに、毎日勝ち続けなくたっていい。
誰だって落ち込むことぐらいある。私にだってある。だけど、負けちゃだめだと思った。
じゃあ、負けないためにはどうすればいいのか?
私これさ、最近思うんだけど、これが正解なんじゃない?
良い意味で、適切に、ある程度開き直ったほうがいい文章が書けると思うんだよね。
そう、この人みたいに。
「誰にどう思われようが、知ったことか」
野生のプロだと思いました。
いやもう、すごい作品が応募されてきたと思った。この人、きっと何かの賞を受賞したことがあるプロの作家だと思った。
みんな知ってるかな。プロの作家って時々匿名アカウントをつくって思いっきり好きな文章を書いてストレス発散したりするんだよね。
プロになるとね、ある程度世間から「この人はこういうことを書く作家だ」という認識をされるでしょ。そしてプロ本人も、「私はそういうことを書く作家だ」と自分で自分をデザインしなければいけない場面があるんだよね。
それはある程度仕方がないことだ。仕方がないことではあるんだけど、でもこれを「窮屈」と感じるのは人間として当然だと思う。
だからプロはときどき匿名の存在に戻って自由に書けるよう、こっそり新しくアカウントをつくって無名の人間に戻ることがあるんだよね。
と匿名アカウントをつくって自由に書いてる作家を、編集者として仕事をする中でたくさん見てきたよ。
だから、この人もそうだと思った。プロがこっそり新しくアカウントを作って無名のnoterを装って応募してきたのだと思った。
いや、実際この人がプロかどうかは、私はもちろん知らないよ。でも、それくらいすごい文章だと思った。
この人が書いてくれた文章の中で、私が一番好きだと思ったのはこの言葉だ。
これだ。
誰だって文章を書くのは、怖い。
「誰にどう思われるか、わからない」。
だから、書いて公開するのは怖いのだ。その結果、自分を守ろうとびくびくおびえながら「言い訳だらけ」の文章に仕上がってしまう。そういう文章を私は何度も書いてきたし、書いて公開したけど怖くなって下書きに戻したことも何度もある。
だから、すごいと思った。
この人はそう断言した。
そう断言した結果、この人の文章は「この人にしか書けない」この人だけの唯一無二の文章になっていた。
いやもうさ、何度も何度も読んだよ。むさぼるように何度も読んだ。何度読んでも、「この人、大好きだ」と思った。
決めた。私もちゃんと、この人みたいに「適切に」「良い意味」で開き直ることにする。
もちろん、いきなり「はい明日からできるようになります」とはならないだろう。ならないけど、一歩ずつちゃんと努力することだけはやっていこうと思った。
なんかさ、文章を書いていると「良い子」のフリってどうしてもしちゃうよね。自分をよく見せたい、いい人だと思われたい、頭いいって思われたい。なんかそうやって分厚い厚化粧を自分の文章にほどこしてしまうんだよね。
そんなことを考えていたらさ、同じ想いを抱えている人が一人、いた。この人だ。
本音をさらけ出せる自分になりたいから、書く。
やっぱり、みんな怖いんだなと思った。
本音をさらけ出すことが怖いんだろう。これはみんな一緒なんだ。
あっ、でもね、なんかさ。私はこう思ったんだよね。
って。他の人はこの人の作品を読んでどう思うんだろうか。同じように「もう結構、殻やぶってないかな」って思う人も多いんじゃないだろうか。わかんないけどさ。
この人、ちゃんと自分が思っていることに向き合って、そのことを丁寧に丁寧に言葉にして表現している。良い子のフリをしていない。本音を少しずつ出せるようになってきてる一人の読者として、そう見えたんだよね。
そう見えたことはちょっとうれしかった。
物書きが殻を破る瞬間なんてめっちゃ貴重な瞬間じゃん!!!その貴重な瞬間に立ち会えたような気がしたからさ(笑)。なんだかとってもうれしかった。
この人の今後の作品がすごく楽しみだよ。この人は少しずつ少しずつ。きっともっともっと殻を破っていくのだろうと思った。
でね、この「良い子のフリをしないこと」ってテーマについて、また別の「ものすごく面白い表現」をしている人がいたから見て!!!この人!!!
「いいね」を追い求めないからこそ、いいねをもらえると気づいた話。
おもしろい。おもしろすぎる。
いや、もうさ、今の見た!?ここ!!!
だって!!
いや私さぁ……この文章にもっと早く出会いたかったよ。もう新卒の一年目の時に出会いたかった。そしたらもっと、編集者として素早く成長できてたのかもなぁなんて思ったよ。すっごく好きだ。この文章。
今「ありのままの自分を表現する」って言葉が出たじゃない。つまり、「良い子のフリをしない」ことって大切だよねって話だったじゃん?
これさ、むしろ「良い子のフリしたって、いいじゃないか」って言ってる人もいてマジで目からウロコだった。この人。
「優等生」な文章だって、別にいいんだ。
そうか。
優等生であろうとする自分も、確かに自分だ。
それを変えたいと思ったのなら変えればいいし、変えずに受け入れることだって一つの選択肢なんだ。
そうか、何も「優等生であろうとする自分」を全否定する必要もないんだな。その自分でいたいのであれば、そのまま受け入れちゃえばいいんだ。
さっきの人はさ「ありのままの自分を表現する」て言ってたじゃん。で、この人は「優等生であろうとする自分でいい」って言ってるじゃん。
……私の場合はどうだろうか。
どっちをとるべきなんだろうか。私、この人みたいに「優等生の自分」をそのまま受け入れられるだろうか。「優等生の自分」を愛せるだろうか。そんな自分でありたいと思うのだろうか。
たしかにさ、「もっと自由に書きたい。だから優等生でいたくない」という気持ちもある。一方で、「ちゃんと読まれるものを書きたい。そのためには優等生になって立派な文章を書かなくちゃいけない」という気持ちもある。
……どっちを選ぶべきなんだろう。
審査のために一日休みをとって、自宅のデスクでぼーっとモニターに向かい続けてなんかだんだん頭もこんがらがってきちゃった(笑)。
でも、そう思った瞬間、こんな言葉が目に入ってきた。
そう書いてくれた人がいたのだ。この人だ。
「自由に書きたい」「読まれるものを書きたい」の両方を持っていてもいい。
「自由に書きたい」「読まれるものを書きたい」。そんな相反する気持ちを、両方とも持っていてもいい。
この人は、そう書いてくれていた。
あーーーーーーーー!!ほんとにおもしろい!!!(笑)
私、うなったよ。なんでこの発想に至らなかったんだろう。あるときはどっちかに偏っていいし、あるときは絶妙なバランスで真ん中を狙ったっていい。
なんかもうさ(笑)。このあたりから「コンテストの最終審査をしている」というのに、たくさんの人からたくさんの楽しい話と学べる話を聞かせてもらってる気分になってきた。
いや、もうなんか、最終審査の審査員、務めることができて本当にうれしくなってきた。コンテスト、開催してよかったなぁ。
そしてこの人の文章で、私が特に好きな箇所はここだ。
わかる~~~~~~~!!って思った。そして同時に、めっちゃ好きだよこの文章って思った。
この人はさ、画面の向こうに「生身の人間がいる」ということを深く理解しているんだろうね。だからこんなに優しい思いやりのあふれる文章が書けるんだろうね。
きっと、この人には画面越しの
って人がきっといるんだろう。だってこんな風に話しかけられたら、読んでる方もうれしくなっちゃう。私もうれしくなったし。画面越しではあるけど、そりゃ~友人になれるよ、この人なら。
この人のフォロワさんの人数を見にいってみた。
約1,000人いた。全員じゃないかもしれないけど、きっとこの人のフォロワさんはこの人のことを「神様」とか「敵なしのクリエイター」ではなく、「友人」と思っているのだろうと私は思った。
だってこの人の文章が、まるで友人に語り掛けるような文章だったからさ(笑)。
素敵だなと思った。自分とフォロワーさんの関係が「友人」みたいになる。それって、noteって場所で大切な人が新しくできたってことだよね。
でさぁ~!このことについて、素敵な言葉を書いてくれてる人がいたのよ!!この人!!
書くことで、大切な人とつながることができた。
私はさっき、「書くことでフォロワさんと友人になれる」と書いたが。この人の場合は友人どころの騒ぎではない。「心からの」友人ができたというのだ。
……いいなぁ。
私とは、正反対だ。
新人編集者だった頃、どんな記事を掲載しても大量の誹謗中傷コメントが書かれた。
を、1か月で受けるような人生を歩んできた。痛覚がなくなるほどの中傷を受けてきた。
インスタでは「あなたは神様だ」と言われ、怒り悲しみショックを受けその数分後にはアカウントを削除し、私は書く場所を失った。
そんな私とは大違いだ。この人は、書くことを通じて心からの友人を得たというのだ。
と思った。
この人の他の作品を読んでみた。
という作品が掲載されていた。
この人が書いた応募作品も、他の作品も、「この人にしか」書けないことだからこそ友人ができたのだろう。だって「誰にでも書ける文章」だったら「あなたのことが好きだ」なんて思ってもらえないから。
「誰にでも書ける文章」にももちろん価値はある。あるんだけど、当然「自分にしか書けない文章」にもものすごい価値があるよね。
そして、まさにその「自分にしか書けないことを書くぞ」と声を高々に宣言している人がいた。この人だ。
自分にしか書けない、自分の経験を書く。
多分さ、この人が伝えたいこととは少しずれてしまってるだろうが、私にはこう聞こえた。
と聞こえたのだ。
AIが書いたような「誰にでも書ける普通の文章」じゃ、noteというこの場所で誰かに出会ったところで友人にはなれなかっただろう。だって別にそれ、「その人じゃなくても書ける」文章なんだもん。
じゃあその「誰にでも書ける文章」を書いたその人本人に惹かれることって、ないじゃない。
だから、この人が言っている「唯一無二の経験」を書くことって、すごく大切なんじゃないかと思った。
だって「唯一無二の経験」を書くことで「自分にしか書けない文章」ができ上がるわけだから。そのことによって、自分のことを好きだと言ってくれる友人に出会えるんだから。
「自分にしか書けないことを書く」。そしてその結果、この広いWebの世界で誰かと出会って友人になれる。
そのことを「奇跡」と呼び、心からの感謝を書いている人がいた。この人だ。
「スキマ」に出会えた奇跡にありがとう。
そうだよなぁと思った。
「スキマ時間に出会えたことは奇跡に近い」。
確かにそうだ。まさに奇跡だ。
だってそのスキマ時間に、自分の文章ではなく他の人が書いた文章を読むことだってできたはずなんだから。
さっきもほら、少し触れたじゃない。そのスキマ時間で、太宰治の文章を、糸井重里の文章を、村上春樹の文章を読むことだってできたはずなんだから。
でさぁ。私ね、すっごく感激したのはここ。この人さ、「スキマ時間に出会えたことを奇跡」と言っているだけじゃなくて、そのことに感謝しているのだ。
と。スキマ時間に出会えたこと自体が奇跡で、しかもその奇跡を起こしてくれた読者に対して、もうドストレートに「ありがとう」と言う。
「私これちゃんと感謝できてるかなぁ~」と反省した。何度この感謝の気持ちを忘れそうになったことか。いやむしろ今まさに忘れてる瞬間なのかもしれない。
これさ、言語化してくれたこと本当にうれしく思う。それこそ、「ありがとう」だ。「スキマ時間に出会えたことが奇跡で、そのことに感謝する」。これは物書きとして一生忘れてはいけない言葉だ。
そして、この人はこうも書いていた。
スキマ時間でどこかの誰かと出会えた上で、「好き」と言ってもらえるような文章を書きたいと。この人は、そう書いたのだ。
何を食べて育ったらこんな人柄に育つんだろうね(笑)。
私なんて、サラリーマンとして編集者をしていたころ。「月間300万PV必達」なんて地獄のようなノルマを毎月課されて、とにかく自分の文章を「クリックさえ、させればいい」なんて思っていた時期すらあった。
あのころの私にとって、読んでくれる人なんてただの「数字」だったよ。クリックさえさせれば良いと思っていた。クリックした後その人がどういう感情になろうが
とすら思っていたかもしれない。
スキマ時間でどこかの誰かと出会えた上で、「好き」と言ってもらえるような文章を書きたいと、この人はそう言った。
そんな中で、「スキをする人も、クリエイター」だと言っているとっても素敵な人がいた。この人だ。
スキをする人も、クリエイターだよ。
……物書きにとって、書くことは生きることだ。
だから、好きと言ってもらえるのは生存を許されたような、もはやそんなレベルでありがたいことなのだ。
だから、この人が言っていることはよくわかる。「スキをしてくれた人も、クリエイター」。
だってさ、スキをしてくれたから書き続けることができるじゃん。スキをしてくれた人がいるから、文章を書くことができるじゃん。だったらもう、スキをしてくれた人も「その文章を一緒に作り上げた」クリエイターじゃん。もうほんと、その通りだよ。「スキをしてくれた人も、クリエイター」なんだよ。
これさ、もしかしたら「スキをする側の人」には完全には伝わらないかもしれないね(笑)。スキをもらえることがどれだけありがたいことなのか、スキをする側の人にはわからないのかも。
いや、なんかさ。最近疲れ切っててツイッターでリプもらってもリプ返信しなかったり、マシュマロで作品の感想をもらっても全部は返信できてなかったり。そういうことが続いていたから、私ちょっと、反省したよ。
「スキをする人も、クリエイター」。この言葉、書いてくれてありがとうね。
この言葉のお陰で、思い出したよ。スキをしてもらうことで、私って生かされているんだなってさ。
私にスキをしてくれる人は「おもしろかった~」って気軽にスキをしているだけなのかもしれないけど。私にとっては、ほんとに生存を許されたっていうそんなレベルだ。だって、私にとって「書くことは生きることそのもの」だからさ。
と、そんなことを考えていたら「書くのをやめたら、死ぬ」とすら言ってる人がいた。この人だ。
生きるために、書く。書かなきゃ死ぬ。
すっっっっっっっげぇな。
と、同時にちょっとうらやましいなって思った。
なんかさ~、やっぱり結局、私はこの人みたいに自分をさらけ出すことができないのかもしれない。ってかさらけ出したことが、ない。そして今後、できる気がしない。だから最初に浮かんだ感想が「すごい」だったし「うらやましい」だった。
いやもう、この人の文章全部読んでみてほしい。すごいよほんと。
こんなこと、私堂々と言えるだろうか。
そしてこう思った。
「この人に書いてほしい」と。
書いてほしい。書き続けてほしい。書くのをやめたら死んじゃうんでしょ?じゃあ書いてほしい。書いてほしいってのは生きてほしいって意味だ。
そうして、生き続けて、夢を叶えてほしい。
小説家になるという夢をこの人は持っている。
漫画原作者になるという夢をこの人は持っている。
だから生き続けて、夢を叶えてほしい。
なんだか幸せなことだよね。
「生きて夢を叶えてほしい」なんて。そう思える人と、コンテストを開催したことで出会えたのだ。私は幸せもんだ。そう、思った。
そしてもう一人、面白い人がいた。「生きるために書く」とはまた違う表現をその人はしていた。その人は、「生きてるって実感するために書いている」と言っていた。
生きてるって実感するために書いている。
「良いことも悪いことも、時間が経ってしまえばほとんど忘れてしまう。何か思い出すきっかけがない限り」とこの人は言っていた。
確かに、と思った。私の場合は、「あの時幸せだったな」と思い出すために動画や写真を撮ることが多い。
けど、そうか。たしかに、文字で残すことだってできるよね。しかも、文字には「動画や写真にはできない、その時に自分がどう思ったのか」まで詳細に記録しておくことができる。
なるほどなぁ~と思った。
だから、この人は書くことで「ちゃんと一日一日を大切に積み重ねて、ちょっとした事にも幸せを感じながら生きられている」のか。
これ、めっちゃいいなと思った。私もやってみようかな。noteで書く勇気がないから、また懲りずにインスタで新しいアカウントでも立ち上げるかな(笑)。
でさ、最後の一行見てよ。もうこんなの、まるで映画のラストシーンだ。
こんなセリフ、言ってみたいなと思った(笑)。
「もう、書けない」。
まさに、今。そう思っている私からすると正直アイスピックみたいに心臓に突き刺さる言葉だったけど。
「これだから、書くことをやめられないんだ」。
ってこの人が思っていること。そのことを、本当に良かったなと思う。
うん、そうだね。書くこと、やめないでね。
そしてこの人とは違う表現を使って「同じこと」を言ってる人がいてめっちゃおもしろかった。その人は、こう言った。
モノクロではなく、多彩な“世界”で生きるために、書く。
「職場と自宅の往復で得たものは、彩りの喪失だった」
と、この人は書いていた。すごくすごくよくわかると思った。
これさ、経験ある人どれくらいいるのかな。マジでね、本当に、世界がモノクロに見えるのだ。
私にも経験があるよ、これ。激務でもうズタボロだった頃を思い出してしまった。
いつもの平日の朝。出勤するために駅まで行く途中、何かの虫が目の前を横切ってびっくりしてしまい、立ち止まって上を向いたことがあった。上を確認したら虫はいなかった。すぐにその虫はどこかに行ってしまったのだが、立ち止まって上を向いたことで気づいたことがあった。
桜が、咲いていたのだ。
すごく、驚いた。
桜が咲いていることに驚いたのではない。桜が咲いていることにも気づいていない自分に驚いたのだ。
「モノクロではなく、多彩な“世界”で生きるため」に書く。
この人はそう言っている。この人が今文章を書いているということは、きっと彩を取り戻した世界で生きているのだろうと思う。
ふふっ、よかった。
そしてもう一か所、みんなに読んでほしい文章がある。「そうだよなぁ」と共感した箇所があったんだよね。ここ、ここだよ。ここの文章。
そうそうそう。そうなのだ。
他のnoteでも書いたけどさ。
書くことの治癒力は、本当にあなどってはいけない。絶対に、あなどってはいけないのよ。
書くことで、自分を癒やすことができる。本当に癒やすことができるんだよ。
noteにも「自分を救うために書いている」って人いっぱいいるでしょ。あれはね、みんな必死に生きようとしてるんだよ。
結局、自分を助けられるのは
ってわかってるから。だからなんとか生きようと必死に書いているんだよ。
自分を癒やして傷を治して。
でも傷を治した後に。
また次の傷におびえながら。
それでも生きていこうと必死に書いているんだよ。
書くことには本当に驚くべき治癒力がある。
……のだけれども、とある人がこの治癒力について、すっごくパワフルな言葉を書いていてびっくりした。この人は、「つらい現実を愛すべき過去にするために書く」と表現していた。
辛い現実を愛すべき過去に変えるために、書く。
……すごくないか。
「書くことの治癒力はすごい」ということまでは、私も理解していた。理解していたが、この人はもうそんなとこ通り越して、「書くことで自分を癒やす」どころか「書くことで辛い過去を愛すべき過去にする」ってところにまで到達している。
強い人だと、思った。
強さっていろいろ種類があるけど、この人みたいに、「辛い過去を愛すべき過去にできる」強さというものがあることを知ったよ。
私は
と思っている。
辛い過去から学ぶこともたくさんある。そこから得ることもたくさんある。その過去のおかげで成長し変化できることだってたくさんある。だからむしろ
と思っているのだ。
……ん?
あれ、ちょっと待って。
ってことは私、「辛い過去」に感謝してるってことなのかな。ってことはつまり、この人が言ってる「辛い過去を愛すべき過去にできる」強さをもしかすると私はもう持ってるのかな。
この人みたいに、強くなりたいって今そう思ったばかりだけど。もしかするとある程度、私はすでにこの人みたいに強くなりつつあるのかもしれない。
私は「辛い過去なんてむしろ利用しちゃえ」と思っていたけど。それこそがもしかすると「強さ」なのかもしれない。これが、「辛い過去を愛することができる」という強さなのかもしれないね。
でさぁ、また違う人が違う表現をしていてすっごく素敵だったよ。見てこの文章。「ネガティブな自分すら愛せるように書く」とその人は言っていた。
ネガティブな自分すら愛せるように書く。
いやこれ目からウロコすぎない!?!?
なんでだろうね。私、「自分のネガティブな部分」って捨てないといけないと思ってた。
だってネガティブだから。ネガティブは悪だから。悪だから、捨てないといけないと思ってた。
でもこの人は、違う。「ネガティブを受け止める」と言っている。
と。
「ネガティブなあなたのままでもいいよ」って言われたような気がした。「そのままで、いいよ」って。
「もう、書けない」。
今まさにそう思っていた自分に突き刺さる言葉だったよ。マ~ジで刺さったよ。
私さ、「もう、書けない」と思った自分を受け止めようとしたことなんて、一回もなかったよ。
「もう、書けない」って自分をなんとしても否定し、なんとしても消えてもらおうと思ってばかりだった。
でも違うよね。「もう、書けない」って思っている自分だって、立派な自分の一部だもんね。そういう自分を受け入れるのは確かに難しいかもしれないけど。でもいきなり全否定するんじゃなくて、まずは「受け入れてみようかな」と寄り添うことも大切なのかもしれない。
この人は、ネガティブを受け入れてポジティブに転換できる人だ。強い人だ。「逆境をこそ楽しめ」なんて言葉があるが、まさにこの人はそれができる人なんだろう。
そうやって、「ネガティブを受け入れてポジティブに転換する」ことは、きっと未来のこの人を救うことにつながるんだと思う。
そう、書くことは「未来の自分を救うこと」につながる。そのことをまさにドストレートな表現で言葉にしてつむいでいる人がいた。この人だ。
未来の私を救うために、書く。
「あの時あんなに苦しんでいたっけと笑い話になっている」。この人はそう書いていた。まさに、「辛い現実を愛すべき過去」にしているのだ。さっきの人とリンクしてるよね(笑)。なんかそのことが面白いし、うれしかった。
この人の他の作品も見てみた。「ゆでたまごがツルンと剥けた」なんてnoteもあって、なんだかフフッと心が軽くなった(笑)。
でさぁ、この方の作品を読み終わったところでさ、私いったん休憩をとったんだよね。次の作品を審査しようと思ったところで、ちょっと背中と肩が痛くなっちゃってさ。デスクワークのし過ぎでもう半年も病院通ってんのよ。
背中が痛くなったからいったんデスクを離れて整形外科に行ったのね。整形外科は駅前にあって、私んちから徒歩4分程度で行ける。だけど、病院の場所が駅前だから、大勢の人とすれ違った。
その時に、さっき読んだばかりのこの応募作品に書いてあった言葉を思い出した。
って言葉を思い出したのだ。
この応募作品を書いた人に、どれほどつらいことがあったのか。この文章からはよくわからない。わからないけど、この人みたいに「でもあの時を乗り越えられたんだから」と書くレベルのつらい経験を、きっと皆がしてるんだろうと思ったのだ。
整形外科の病院に行くまでに何十人という人とすれ違った。
その一人ひとりが、たとえば職場の人間関係とか、パワハラとか、いじめとか、虐待とか、病気とか、離婚とか。そういう何かと闘って傷ついてきたことが絶対にあったんだろう。いや、まさに傷ついて闘っているその最中なのかもしれない。
と書いてくれたこの人は、「未来を私の言葉で掬う」ために書くと言っていた。
でもね、私はこうも思うんだ。未来の自分を救うために書いた言葉が、「同じ思いをしている他の誰かをすら、救うことがあるんじゃないか」って。
この人の他の作品を全部読んだ。なんだか夢中でのめりこんで読んでしまう不思議な魅力があった。
そこでとあることを思い出した。
私が精神医学の博士課程にいたころのことだ。研究者の卵だった私は、たくさんの「心の病と闘っている人」と出会った。
その人たちの多くが、いつも「文庫本」を持ち歩いていた。
なぜ持ち歩いているかは聞かなかった。
なぜ持ち歩いているのか、その理由を知っているからだ。
それは、本を読むことで「つらい現実を一瞬でも忘れることができるから」なのだ。まさに地獄を生きている最中の彼らは、一瞬でもその現実を忘れたくて、いつも本を持ち歩いているのだ。
……そういう「一瞬でも辛い現実を忘れさせるような文章を書けるようになりたい」と。だから、書くと言っている人がいた。この人だ。
つらい現実を忘れさせる文章をつむぎたいから、書く。
この人、すっっっっごいなと思った。
ドラマという、エンタメの作品に命を救われた。そのこと自体は本当によかったと思った。でもこの人のすごいところはこの先だ。
そう書いているのだ。
こんなこと、並大抵の覚悟がないと宣言できない。だって、「この作品に命を救われた」「よかったぁ」で終わるのが普通じゃない。私だってそうだし。
ふふっ、「負けた」って思った。
この人には勝てないなぁ~って思った。
なんだか、とってもうれしかった。負けたことが、全然悔しくない。負かせてもらったことが、とってもうれしい。
この人は、「たった1人でも、一瞬でも辛い現実を忘れさせるような文章を書けるようになりたい」と言っている。ここまでの覚悟を背負って文章をつむぐ人は、きっと本当に命をさえ救う作品を作り出すだろう。
その未来が、すっごくすっごく楽しみだ。
これは完全にただの雑談だけど。
私にもさぁ、そういう作品、あるよ。
その人は自分の日常をよくエッセイという作品にして投稿してくれている。こないだは
って話をエッセイにして書いてくれていた。
もうさ、死ぬほど面白かったよ(笑)。
「洗濯機が壊れたのでは」というシーンから始まり「ワンチャン、壊れてないんじゃね?」と、壊れたかもしれない洗濯機を接着剤でなんとかしようとするシーンにうつり、最後は「そうだ、洗濯機買いに行こう」で終わっていた。
いやもう、まだ、面白い。
そのエッセイを読んでからもうすぐ2カ月が経とうというのに。
まだ面白いのだ。
こないださ、仕事でちょっと、柄にもなく落ち込んじゃって。クライアントとの打ち合わせが帰りに近所の公園のベンチでぼーっと座ってる時。
なんかふと、この洗濯機のエッセイを思い出してふふっと笑ってしまった。
別にその時はスマホでこのエッセイを読み返していたわけではない。そうじゃなくて、ただふと「あのエッセイおもしろかったなぁ」と突然思い出してふふっと笑ってしまったのだった。
多分そのエッセイを書いた人は、
なんてこと、思ってなかっただろう。
でもね、私は何度も何度も救われたよ。
仕事とか家族とか闘病のことで、しんどくてつらい思いを抱えて一日が終わろうとしている時は、当然私にだってある。でも、その一日が終わろうとしている布団の中で、洗濯機のエッセイを思い出してふふって笑っちゃうことだってあったよ。
つらくてしんどい一日で、「ただの一度も笑うことなく終わるはずだった」その一日の最後の最後で。ふふって笑えたのだ。笑わずに終わった一日なんて、私にとっては
に等しい。でもそのエッセイのお陰で、私は「生きてなかった」一日を過ごさずに済んだのだ。
だから思うのだ。
という、この方のこの書く理由。私、大好きだ。
新作できたら読ませてね。絶対に読みに行くから。
……そういえば、この方は自分自身が救われた作品が「ドラマ」だと言っていた。でもこの方は、「ドラマ」をつくるのではなく「文章」という道を選んでいた。
ここでふと思った。
なぜ、私たちは文章という表現方法を選んだんだろう?
写真だっていい、イラストだっていい、動画だっていい。表現したいことを表現する方法って、たくさんある。
その中で、私たちは文章を選んだ。なんでなんだろう?
と、考えていたら面白いことを言ってる人がいた。
絵や写真や動画ではなく、なぜ文章なのか?
これさぁ~……私何よりもまず安堵したよ。ほっとしたよ。安心したよ。だって見てよ。この人、本文の中で
なんて書いてたんだよ。
自分は、「ただ絵が上手くなりたかっただけの人間」。そのことに気づいたときのこの人のショックはどれほどのものだっただろうか。
だからこそ。
だからこそ、文章で自己表現を楽しめる自分のことを見つけて、その上で「人生の可能性を広げる頼もしい相棒」って言えるこの人が、好きだなぁと思った。良かったなぁと思った。そんな自分自身に出会えたこと、どれだけ幸福だったことか。
なんだか、その幸福をおすそわけしてもらった気分だ。うふふ、うれしい。ありがとうね。
そしてまた別の人はこんなことも書いていた。なぜ、文章なのか?という問いに対して「文章だからこそ」伝えられると言っていたのだ。
「文章だからこそ」自分の思いを、ちゃんと伝えられる。
優しい人だな~~~~~~~~~~って思った。
この人の文章を何度も何度も読んだ。「感情や意図を伝えるために言葉を選び句読点を打ち、絵文字や顔文字を添えて想いを伝える」だって。
わかるわかる。私もだからこそ、文章という表現形態を選んで自己表現してるよ。
そういやさ、私、編集者という職業柄、たくさんの物書きに会うのよね。エッセイスト、小説家、コラムニスト。どの人も超有名な方ばかりだ。彼らがつむぐ文章は唯一無二で、それぞれが全く違う文章を書くんだけど。
だが、彼らには一つ、共通点があるのだ。
あのね、全員ね。しゃべるスピードがものすごくゆっくりなのよ。
どの人も本当にゆっくり、ゆっくり話すのだ。
丁寧に丁寧に。どうすれば相手を傷つけずにすむか、伝えたいことが伝わるか、慎重に言葉を選ぶ。だから、とってもゆっくりしたしゃべり方になる。
あれに似ている。森本レオさんのナレーション。あんな感じの、ゆっくりした丁寧なしゃべり方になるのだ。
これは、相手に対する「やさしさ」や「心遣い」からくるものなのだろうなと思った。
だけど、とある方がまた違った観点から表現をしていてマジですんごく面白かった。この方はこう書いていた。
と。
こころと文字を一致させていく感覚が好きだ。
ここ!!!!!!ここが本当に面白かった。
というこの一行だ。
え、これみんな体験したことある?
私こんな感覚、体験したことがないよ(笑)。
頭に浮かんだことをWordにタイピングしてドバっとテキストに起こして、その後読みやすいよう並べ替えているだけ。私のnoteの書き方はいつもこんな感じだ。頭に浮かんだ言葉があまりに大量で手でタイピングするスピードが追い付かないことすらある。
だから、すごくおもしろかった。「こころと文字を一致させていく」という書き方があることに。
そしてこの人はこう続けていた。
いやうらやましいわぁ~!!!!私、いつかこういう文章を書いてみたい。
……あ。
今気づいた。
この人のおかげで、私が書きたいことがひとつ増えたわ。
ひとつ増えたってことは、noteからいなくなる時期が少しだけ先になったってことか。いや、それが良いことか悪いことかはわからないよ。わからないけど、一つ増えたのは事実だ。
なんて多分そんなに多くないだろう。きっと皆どこかでnoteからはいなくなる。私もそうだ。死ぬまで一生noteにいるわけがない。
そもそも、noteというプラットフォームがこの先ずっと死ぬまで存在するとは限らない。どんな媒体にだって終わりは来るものだから。cakesだって、もう2年も前になくなっちゃったでしょ。
でも、私が書きたいことはたった今、ひとつ増えた。
この人がこう書いてくれたおかげで、ひとつ増えたのだ。
なんだか、ちょっとだけうれしいな。書きたいことが一つ増える。そうか、書きたいことが増えるのって、私にとってはうれしいことなのか。この発見は、この人がいなければできなかったな。ありがとう。
あ、でさぁ。今まさにテーマにしている「なぜ、他の表現ではなく文章を選んだのか?」という問いに対して、とっっっっても心優しい答えを書いている人もいたから読んでほしい。
「傷つけたくないから、文章」を選んだ、とその人は言っていた。
他人と自分を傷つけたくないから、書く。
これさぁ~……。すっごいよね。
ってこの人は言ってるんだよね。だから、文章という表現方法を選んだって。
ねぇこれさ、「文章ならば人を傷つけずに済む」ってことは逆を言えば「人を傷つけたくないなら文章を選ぶ」と解釈することもできるよね。
これめちゃくちゃいい発見じゃない!?
たとえば夫とか、妻とか、子供とか、親とか。誰か身近な人とケンカしちゃうことってあるじゃない。そういう時、自分が伝えたいことを「声で」伝えちゃうと、いらんことまで言って相手を傷つけちゃったりするよね。
だから私、夫とマジもんの夫婦ゲンカする時は、実は声でケンカしないのよ。
いったん、二人とも家から出てそれぞれカフェとか図書館で頭を冷やして、「相手に伝えたいこと」をパワポにまとめて、で、それをプレゼンしてるの。
いや冗談じゃなく、マジで。
これ本当におすすめだよ。夫婦喧嘩をディベート方式にしたら、今まで8時間くらいかかってたケンカが十数分で終わるようになったもん。
だってパワポを使うってことは文字を使うってことでしょ。文字にすると、
を自分の目で見ることになるのよ。すると、途端に「これは絶対に言っちゃいけない」って気づくんだよね。だから、相手を傷つけずに済む。
そう、文字なら人を傷つける危険性が「声よりも」減る。だから、人を傷つけないためにも文章という表現を選ぶ。
それって素敵なことだなと思った。
……が。
ここでとある人が恐ろしいことを言っていた。その人は、こう私に話しかけてきた。
「でも、あなたがその書いた言葉は、遠い未来にまで運ばれていくよ」、と。
書いた言葉は遠い未来にまで運ばれていくよ。
こんなに優しい言葉でつむがれた文章なのに。
私はすごく怖くなってしまった。
自分が書いた文章の責任は、自分で負う。それが書き手として果たすべき責任だ。そういう覚悟で私は文章を書いている。
だが私がいなくなった後はどうだろうか。
私が書いた言葉を読んで、遠い未来の誰かが傷ついたとしても。私は責任をとることができない。
あのさ、こないださ、私実家に帰省したんだけど。
帰省中すんごくヒマだから実家で読書してたのよ。そのとき読んでたのは魔女狩りに関する本だったのね。
私は歴史オタクなので世界史の本を読むのが趣味なのよ。でも、その実家で読んだ本がもう本当にショッキングだった。
高校で世界史を専攻していた人なら授業で習ったことがあるだろうが、魔女として認定された人間は火あぶりにされる。
映画などでは火あぶりにされた魔女は一瞬で焼き殺される。ジャンヌダルクの映画とかそうだよね。火あぶりでの処刑は一瞬で終わる。
……だけど実際は、一瞬では、済まないのだ。
その本にはこう書かれていたのだ。
火あぶりにされる魔女は、炎で焼かれて絶命するまでに早くて20分、もう少し時間がかかる場合は50分ほどかかるそうだ。
映画のように、一瞬で燃えて死ぬことはないのだ。
だから本当に、本当に、本当に、苦しんで死ぬことになる。そしてその本には、「魔女として火あぶりになった」人が火刑に処されている時に言った言葉が書いてあった。
足元にはたくさんの薪。その薪がすさまじい勢いで燃えている。そして自分はその炎で焼き殺されている最中だ。その巨大な炎でまずは「体の前側」を何十分もかけて焼かれ続ける。
凄まじい勢いの炎で焼かれ続けている。殺されている最中の、まだ生きているその人は、こう、言ったそうだ。
と。
その時実家にいたから、私はすぐに和室に行った。和室には仏壇がある。仏壇にはお線香に火をつけるための100均のライターが置いてあった。
ためしにそのライターの火を自分の指に少しだけ近づけてみた。ちょっと近づけただけでも、熱くて痛くてもう本当に無理だった。
……魔女は全身を炎で焼かれて処刑される。まずは体の前側を焼かれる。それでもまだ生きてるから今度はひっくり返されて体の裏側を焼かれる。数十分かけて強制的に死を選ばされる。そうやって火刑に処された「魔女」が言った、あの言葉がもう、あまりにショックだった。
魔女狩りがあったのは15~17世紀のことだ。数百年も前ともなると、価値観が現在とはまったく、違う。
だけど、当時としては魔女が火刑に処されるのは普通の価値観だったのだろう。だから、私が読んだ本にもサラっと書いてあった。
「どうか、薪をもう少し、足してください」、というセリフが。
本当に普通の「日常のワンシーン」として記録に残されていた。
そうか。私が今書いている文章はもしかしたら何百年と残るのかもしれない。そして、その時に、人を傷つけるかもしれない。
……言葉の責任って、どこまで負えばいいのだろうか。
少なくとも何百年も経っていたら、私は当然この世にいない。だから、責任のとりようがない。
もちろん、そんなことまで考え始めたら絶対に書けなくなる。ある程度開き直って「そこまで責任持てません」と割り切って書くことが多分正解なのだろう。
だとしても。言葉の責任は重い。
発した言葉は相手にどう受け止められるか、発するまでわからない。たしかに話言葉よりかは、慎重に言葉を選ぶことが文章にはできる。できるけど、その慎重に選んだ言葉ですら誰かを傷つけることが絶対にあるのだ。
やっぱり、怖いなと思った。
この恐怖がどんどん大きくなっていったら、きっと書けなくなる日が来るんだろう。そしてその日はきっと近いんだろう。
でも、そんなことを考えていたら、「そんなことないよ」と言ってくれる人がいた。
「いつかは書けなくなるだろうけど、それは筆を折るってことではないよ」と話しかけてきてくれた。この人だ。
いつかは書けなくなるだろうけど、それは筆を折るってことではない。
……こんなこと、考えたこともなかった。
「いつかは書くのをやめる日が来るかもしれない」。でも、それは「マグマをため込んでいる段階だと願う」とこの人は書いた。また再び、噴火するためのただの準備期間だと。この人はそう言ったのだ。
そういえば、ジャンプする時もそうだよね。
高くジャンプする前は深くしゃがむ必要がある。深くしゃがむから高く跳べる。
だから、私にいつか「文章を書けなくなる日」が訪れたとしても。それは高くジャンプするために「今だけ」しゃがんでいる。
ただ、それだけのことなのかもしれない。
そして、別の人はこうも言ってくれた。「書く意味は、変化してもいいんだよ」と。
書く意味は変化してもいいんだよ。
この人すごいな~って思った。
そもそもさ、変化って、怖いと思うんだ。
だって現状維持するほうが楽じゃん。安心じゃん。簡単じゃん。
でもこの人は、「自分が書くことの意味は変わっていくかもしれない」と書いた上で
と言っている。
……度量が、すごくないか。
私にとっての書く理由は「伝えたいことがあるから」だ。でも、なぜか私は、
これが「唯一絶対の、私にとっての書く理由」だと思っていた。書く理由は一度決めた以上「変化してはいけないゆるぎないものであるべきだ」と、なぜかそう思っていた。
でも、そうじゃないのかもしれない。
書く理由なんて、もしかしたら変化していくものなのかもしれない。変化するのが当たり前なのかもしれない。そして、その変化をすら楽しんでしまっていいのかもしれない。
……やっぱりさーーーーー。
ここまで書いて、私思ったよ。
私は怖かったんだ。
書けなくなることが怖かったのだ。
神様だのカリスマだの知らぬ人はいないnote界の有名人だのと言われ、(もちろん悪意がないことは十分に理解しているが)、その重圧に耐えられなくなりそうだったのだ。
もうすぐ、書けなくなる。そう確信した。怖かった。だから助けてほしかった。助けてほしいから、書けなくなる前にみんなに「なぜ書くのか」を聞いてみたんだろう。
そしたら、ある人がこんな言葉で話しかけて来てくれた。その人は私にこう言った。
書くことに、目的なんてなくていい。
……目的なんてなくていい、だって。
書くことに、目的なんてなくていいんだって。
力が、ふっと、抜けた。
結局、私をがんじがらめにしていたのは私自身だった。「書く理由はコレだ」と決めつけて、その書く理由に縛られ、そしてその書く理由だけ「しか」見ていなかった。
もはやこの人が書いたこの言葉は、救助活動だと思う。
海のど真ん中でゴボゴボおぼれそうになってる私のところにやってきて。
酸素ボンベを渡してなんとか溺れてしまわないようにするのでもなく。
とりあえず浮き輪を渡してなんとか溺れている状態から救うのでもなく。
上からヘリでやってきてハシゴをたらしグイっと手をひっぱってそのままヘリにのせて陸地に運んでくれた。
そんな気持ちになった。
すごいな。文章で救助活動なんて、できるんだ(笑)。そんなことができるなんて、知らなかった。
この人、洗濯機のエッセイで私のことを何度も救ってくれたのに私またもや救われちゃったよ。何回救助されるんだって話だよね(笑)。救助する側からすると「またあなたですか!?」なんて言われちゃいそうだ。
書くことに、理由なんて、なくていい。
この言葉のおかげで、海で溺れていた自分がやっと陸に戻ってきた気分だ。
私は、陸に戻ってきた。
ここから先は、自力で自分の道を歩むしかない。
そう思った矢先に、私の背中を押す言葉を書いてくれた人がいた。この人だ。
あなたを救えるのは、あなたしかいない。
「海で溺れててそこから救助されて陸に戻ってきたんなら、あとは自分で歩きな」。
そう、言われた気がした。
その通りだ。すんでの所は助けてもらった。陸地に戻してもらえた。でもここから先は、自分のことを救えるのは自分しかいないんだ。
もうすぐ、書けなくなる。
そう確信した。だから怖かった。書けなくなる前に、みんなの「書く理由」を知りたかった。
これってさ、今考えると選択肢を増やしたかったのだろうと思うよ。「書く理由」をたくさん聞いて、自分の中で「こういう理由で書いていいんだ」という選択肢を増やしたかったのだろう。
その増えた選択肢の中に、自分を助けてくれる「書く理由」があるんじゃないか。多分どこかで、そう思っていたのだろう。だからみんなに「なぜ、書くのか」を聞いたのだろう。
だけど、
というのが人間ってもんだ。
もれなく、私もそういう人間の一人だ。選択肢はほしいが、選択はしたくない。だって疲れるから。つらいから。大変だから。だから選択したくない。選択という行動からは誰だって逃げたくなるものなのだ。
だけど、結局。選択肢を増やしたところで、最後の決断をするのは自分しかいない。
「なぜ、書くのか」。
今回このコンテストを開催することで、たくさんの「書く理由」を教えてもらった。こんなにもたくさんの選択肢をもらうことができた。だけど、その増えた選択肢の中から、何をどう決断するのかは結局自分自身だ。
だから、
というこの言葉の意味が、今の私にはものすごく深く理解できる。
そして最後に。みんなからもらえた選択肢の中で、もっとも強烈だった作品を見てほしい。その人は、私にこう伝えてくれた。
書くことをやめても、いいんだよ。
なんだかもう、泣いてしまった。
素敵な人だと思った。
「ああ、何かを書くってほんとうに楽しい」とこの人は言った。
「書くことに恋をしている」と言うほど、書くことが大好きなのだ。
でも、そんな大好きなことをやめる日がきても。
書いてきたことに感謝して、次に進むんだってさ。
ねぇ私さぁ、今気づいちゃった。
「もう、書けません」って実はさ。
祝うべき「卒業」でもあるんじゃないかな。
確かに、つらいよ。もう書けないんだから。書くってことと、別れるんだから。つらいよそりゃ。
でもさ、この人みたいに「書くことをやめる」日が来た時に。書いてきたことに感謝して、潔く次に進む。
そういう風に「卒業」として祝うことだって、できるんだよね。
インスタグラムであのコメントをもらったあの時。
アカウントを、私はすぐさま削除した。
何のためらいもなかった。
もうここに私の居場所はないと思ったから。
「神様なんだから神様らしい文章を書いてね」なんて強要される場所に、はっきり言ってもう用はない。私がいなくなっても、私をフォローしていた人たちは「あれ、あの人インスタやめたのか」で終わると思ったし。私がいなくなっても悲しむ人なんて、ただの一人だっているわけがない。
私は、透明な存在でありたかった。
「いやお前誰?」って言われるくらいが私にはちょうどいいのだ。「誰もが知ってる有名人」「note界のカリスマ」「向かう所敵なしのクリエイター」。
こんなこと、望んでない。
この重圧に私は耐えることができない。
だから、私は透明な存在でありたかった。
私は「お前誰?」って言われるぐらいがちょうどいいんだよ。モブでいたいんだよ。透明な存在でいたいんだよ。「その他大勢」から引きずりだすなよ。もう一体なんなんだよ。「あなたは私の神様だ」なんて勝手に崇め奉るなよ。また私から、書く居場所を奪うのかよ。もうふざけんなよ。
今思うと。
「あなたは私の神様です」とインスタで話しかけてきたあの人は、私のことを「ネットの人」だと思っていたんだろう。
ネットの中にいるアバターみたいな感覚で私のことを扱っていたんだろう。私は、現実に存在している普通の「人間」なのに。現実にいる人間だと思っていなかったんだろう。
だから、神様扱いされて相手がどんな気持ちになるか考えもしなかったんだろうな。
「ネットの人」だから、現実には存在しない。現実に存在してないから、相手の気持ちを考えずに言葉をなげつけていい。そう思っていたんだろう。
正直、その怒りは今でも私の中にじんわりと残っている。
今回のコンテストでは、たくさんの失敗をした。たくさんの人を傷つけた。たくさんの人を巻き込んだ。コンテストの責任者として、果たすべき責任を果たすことができなかった。
責任を果たせなかったことについての、お怒りのメールも先週もらった。でも、お怒りメールなのにその人はメールの最後にこういう意味の言葉を書いてくれた。
って。
原文をそのまま載せるわけにいかないから、「こういう感じの文章だったよ」としか書けないんだけど。
原文はもっともっとすごく丁寧で優しくて気づかいにあふれてたよ。
コンテストの責任者としてちゃんと責任を果たさなかったことについて、もちろんその人は怒っていたし、私も怒りをぶつけられて当然のことをした。けど、その人はメールの最後にこうやって感謝の言葉と
という言葉を書いてくれたのだった。
ありがたくて、うれしくて、丁寧に丁寧に返信を書いた。金曜日のことだった。返信はこないと思っていたけど、このお怒りのメールを送ってくれた人は、返信をしてくれた。
金曜日の夜に返信が来ていた。きっと一週間仕事を頑張って疲れているだろうに、すごくすごく丁寧な返信をその人は私のためだけに書いてくれたのだった。
すごく丁寧な言葉で長文でさ。どれだけの時間をかけて書いたのだろうと。そう思うとうれしくて仕方がなかった。そしてその人は最後にこう言った。
と。そう私に言ってくれたのだった。
もう、本当に。ここ一週間はたくさんのメッセージをもらった。
プライベートで本当にバタバタされている状況なのに、
という言葉を送ってくれた人もいた。
コンテストの中間選考で落ちたというのに、東北に行く新幹線の中で私を励ますメッセージをくれた人もいた。私は、コンテストで失敗したことに関して反省はしているが落ち込んではいなかったのだが、その人はたくさん励ますメッセージをもうスクロールする手が追い付かないくらいのびっしりの量で、すごい熱量で送ってくれていた。
そして、そのメッセージには最後に、
とド直球で書いてあった。ちょっぴり照れたけど、うれしかった。
「華さんのお心が疲れてるんじゃないかと心配になった」と、サポートをくれた人もいた。サポートの金額が高額で驚いた。870円だった。
という言葉が添えられていた。
一人の社会人としてメッセージをくれた人もいた。私がコンテストで失敗をし、その失敗の責任を果たそうとする姿を見て、
ととても長く丁寧な文章で書いてくれていた。育児や仕事で忙しい合間を縫って、私のために、私のためだけにこんな文章を書いてくれたのかと思うと本当に涙が出た。
とある方はこんな言葉をかけてくれた。
と書いてくれていた。だからコンテストを開催したことを後悔しないでほしいと言ってくれた。
いや、ちょっと危なかった。結果発表のこの会場で「後悔してます」とちょっとだけ書こうか迷っていた所だったのだ。この人は、そうやってまた間違いを犯そうとしていた私を諫めてくれた。
なんて。そんなこと書いちゃだめだ。このメッセージをくれた方、参加しれくれた方々、コンテストを見守ってくれた人たちに対して、すごく失礼なことだ。
この方が諫めてくれなかったら、この結果発表の会場がお通夜みたいな場所になるところだった。危なかった。
諫めてくれる人がいるってことって、ありがたいなぁ……。私、幸せもんだよ。
それと、なんとゴディバのチョコを差し入れしてくれた人もいた。
ってその人は言ってくれた。「休んでください」じゃなくて「休めるときに休んでください」と書いてくれたことに、その人のやさしさと人柄がにじみ出ていた。
「ギフティ」というサービスを使えば、こうやってWeb上でゴディバのチョコなどを差し入れをすることができるそうだ。初めて知った。
このコンテストの結果発表を無事に終えたら、ゴディバの店舗がすぐ近くにあるからワクワクしながら受け取りに行こうと思っている。それが今の一番の楽しみだ。
コンテストで落とされ、私のせいで落ち込ませてしまったとある人は、
とメッセージを送ってきてくれた。その野望リストに追加された項目は、「いつか元気になったら、華さんに会いに行く」というものだった。
とっっっっても、うれしかった。
と返信をした。その時がとても楽しみで楽しみで。何を食べに行こうかどころか「何着ていこうかしら」と今から考えてしまうくらいだ(笑)。
もうね、ここに書ききれないほど、たくさんのメッセージをもらった。
書ききれない。書ききれないよ。
もう本当に書ききれないほどもらった。
たくさんのメッセージをもらって、私、改めて気づいたよ。「画面の向こうにいるのは生身の人間だ」と。生身の、現実にいる人たちが、自分の命ともいえる時間を削ってメッセージを送ってきてくれたのだった。
インスタグラムで「あなたは私の神様です」と言われ、
と、怒りと恐怖でアカウントを削除した自分だったが。
……なんてこった。
他人を「ネットの人」扱いしているのは、私のほうだった。
だってこんなにたくさんの人から励ましや温かいメッセージをもらって、異常なほど私は驚いたから。
これがさ、「たまに飲みに行く大学の友人」からのメッセージだったら、ここまで驚きはしなかっただろう。
だってその友人は現実に存在しているし、私のことを友人と思ってくれているし、私が大変な時は声をかけてくれる。だから、友人が声をかけてくれたら「うれしいな」とは思うけど驚きはしないだろう。
ところが今回は驚いた。
数えきれないほどの人たちが私にメッセージを送ってくれた。そのことに異常なほど驚いた。
そこで気づいた。他人を「ネットの人」扱いしてるのは、実は私自身だったって。他人を「ネットの人」扱いしているから、その「ネットの人」たちからすごい数のメッセージをもらって異常なほど驚いたのだ。
だって「ネットの人」たちだから。現実には存在しないアバターみたいなものだから。存在しないアバターからメッセージ来たら驚くでしょ。そんな感覚だ。だから、メッセージをもらえたことに「異常なほど」驚いたのだ。
私は自分が「ネットの人」扱いされて怒り、悲しみ、ショックを受けたけど。結局他人を「ネットの人」扱いしてるのは自分自身だった。私自身が、他人を「ネットの人」扱いしてたよ。
今回のコンテストを通じて、たくさんの学びがあった。
なんて、コンテストの参考作品の中で書いたけど。結局このコンテストで一番成長させてもらったのは私自身だった。
今回のコンテストでたくさんのことを間違えた。たくさんの人を傷つけた。たくさんの人を巻き込んだ。コンテスト責任者としての責任を果たせなかった。謝罪のnoteも出した。
そしてたくさんのご意見をもらった。意見も本当にさまざまだった。
たとえば、「センシティブなテーマとは何か」ということに関して意見を述べている人もいれば、「noteは自由に書いていい場所」ということに関して意見を述べている人もいた。そしてそれぞれのテーマに対して、みんなそれぞれ違った意見を持っていた。そして、私はそのどれも間違っているとはもちろん、まったく、思わない。
私はたくさんのことを今回のコンテストで学んだ。その中でも一番深い学びだったのが、これだ。
「なぜ、私は書くことができているのか」。
この答えがわかったのだ。
「なぜ、書くのか」がわかったのではない。
「なぜ、書くことができているのか」がわかったのだ。
なぜ、私は書くことができているのか。
読んでくれる人がいるからだ。イイネをしてくれる人がいるからだ。感想をくれる人がいるからだ。応援をしてくれる人がいるからだ。まっすぐに大好きだと言ってくれる人がいるからだ。諫めてくれる人がいるからだ。「華さんに会いに行くのが野望です」と言ってくれる人がいるからだ。「心が健やかでありますように」と願ってくれる人がいるからだ。「コンテストを開催してくれてありがとう」と言ってくれる人がいるからだ。「休める時に休んでください」とか、「社会人として感銘を受けました」とか、「コンテストを開催したこと後悔だけはしないで下さい」とか、そう言ってくれる人がいるからだ。
このコンテストの名前は「なぜ、書くのか」だった。
しかし、結果として私が学んだのは「なぜ書くのか」ではなく「なぜ私は書くことができているのか」、だった。
この学びは、大きい。
あまりにも大きく深い学びをもらうことができた。
……あれっ?
なんか今思ったんだけどさ。
そういうコンテストあったら素敵じゃない?(笑)
っていうコンテスト。
こんなコンテストがあったら、きっと感謝の気持ちにあふれた優しいnoteがたくさん応募されてくると思うよ~!
って。優しくて心あたたまる温泉みたいなnoteといっぱい出会えるよ。
こんなコンテスト、もしあったら私、審査員でもないのに応募作品を全部読んじゃうかも(笑)。
あ、ってかアレじゃん。別にコンテストじゃなくてもいいよね。
noteってほら、勝手に新しくタグをつくることができるじゃない。だから「 #なぜ私は書くことができているのか 」ってタグつくってみんな自由に書いちゃえばいい。
このタグで投稿されてる作品見つけたら、ヒマな時にふらっと読みに行くから書きたい人、ぜひ書いてみてよ(笑)。
……ふふっ、みんなさ、考えたことある?
これ考えるの、とっても幸せだと思うよ。「あ、この人のお陰だったわ」って気づいたり思い出したりすることができる。そうすれば、その人に「ありがとう」って言えるでしょ。
それって、素敵なことだよね。
【追記】
ってこのnoteに書いた数時間後にはもうすでにいくつかこのバーチャルコンテスト(?)に応募作品が投稿されててめっちゃ驚いた(笑)。
このタグでみんな好きに作品書いてみてよ!絶対楽しいよ~!!(笑)
私も時間見つけて読みに行くから!
【お知らせ】賞を増やしました!
さて!ここまで読んでくれて、本当にありがとう!
ここからは受賞コメントの紹介を……と、その前に。
賞を増やしたこと、アナウンスしておくね。事前に告知した通り、今回は賞を増やしました!こんな風に賞を増やしたのでちゃんと説明するね。
まず、もともとは大きな賞が2つありました。
これを、以下のようにしました。
そして、新しく「特別賞」を2つ用意しました。
そして、もともとあった以下の3つの賞を廃止し、新しく「優秀賞」を増設しました。
▼もともとあった3つの賞
▼これを次のように変更した
優秀賞の賞金は、700円×30名さまなので合計21,000円です。合計21,000円のうち、3,700円がいただいたサポートです。そして残りの17,300円が私の自腹です。
改めて、サポートを下さった皆様、本当にありがとうございました。皆さんがサポートをしてくださったおかげで、賞を増やすことができ、賞金も用意することができました。改めて、心からのお礼を申し上げます。本当に、ありがとう。
さて、なぜ賞を増やしたのか?
理由はたった一つ。
「落とす理由がなかった」から。
全員が私をぶちのめしに来てくれた。ぶつかり方はもちろん人それぞれだったよ。真正面から相撲を挑んできた人もいたし、土俵をずらしてきた人もいたし、気楽に肩の力を抜いて寄り添うように挑んでくれた人もいた。
そしてその人たち全員が私に学びを与えてくれた。
もう、「落とす理由が、ない」。
だから賞を増やした。
そして「優秀賞」という名前にしたのも、ちゃんと理由があるのよ。
たとえばなんだけど、今後受賞者のみんなが作家として活躍していく未来もあると思うんだよね。その時に、実績として「こういうコンテストで優秀賞をもらいました」と書けるといいなって思ったから「優秀賞」って名前にしたのよ。
元々あった賞って「感想があふれ出るで賞」だったでしょ。でもさ、実績の欄に
って書いたらなんか「ちょっと……なんか……ショボ……」って印象を受けるじゃない(笑)。
なので、優秀賞って名前にした。そうすれば、
って書けるじゃない。こっちのほうが、実績としてカッコイイでしょ(笑)。だから、賞の名前を優秀賞にしたのよ。
優秀賞の賞金は700円にしました。なぜなら優秀賞を受賞された皆さんの作品は私にとって一冊の文庫本のようだったからです。
文庫本の価格がだいたい700円くらいでしょ?だから、「一冊の文庫をありがとう」の意味で賞金を700円に設定しました。
受賞作品の紹介
さて、ここからは各賞の作品紹介と、受賞者の皆さんからの受賞コメントを紹介していきます。
なお、受賞コメントをご依頼させていただいた際に、私は
と全員にお伝えしました。なぜならば、「書くのを強要されて書く文章ほどつらいものはない」と思ったからです。
私はね、編集者として自社媒体でコンテストをたくさん開催してきました。
その経験の中で、学んだことが一つありました。
受賞者の人ってね、意外と受賞コメントを書くのを嫌がるんです。
「受賞するとは思ってなかったから」っていう理由のこともあるし、「忙しいから書きたくない」って理由のこともあるし、「何書いていいか頭が真っ白になる」って理由のこともあった。
その姿を見ていたから、今回受賞コメントを書かなくても大丈夫ですよと皆さんにお伝えしました。
その結果、「お言葉に甘えて、今回はナシでお願いします!」と言う方もいらっしゃいましたし、シンプルに「忙しくて間に合わないかも(汗)」という方もいらっしゃいました。
また、最後の最後まで書くか悩んで、なんとか受賞コメントを書いてきてくださった方もいました。
そんな皆さんの受賞コメントを今から紹介します。
なお、グランプリの方にのみマネタイズの案も提案するとお約束しておりました。今回のグランプリ受賞者の方はね、私は「エッセイでの連載」をとることでマネタイズするのが最適と判断しました。なので、グランプリ受賞者には私が以前書いた有料noteを賞金とともに無料でプレゼントすることにいたしました。
さて、ここから受賞作品と受賞コメントをご紹介していきますね。
まずはグランプリから。今回栄えあるグランプリを受賞されたのはこちらの方です。
グランプリ作品受賞作品 私は『書くこと』に恋をしている
▼くつさんからのメッセージ
準グランプリ受賞作品 エゴイストの嘔吐
▼慧さんからのメッセージ
準グランプリ受賞作品 なぜかnoteで書いていた
▼chibi3さんからのメッセージ
準グランプリ受賞作品 でも、あなたを救えるのは、あなただよ、と伝えたい
▼元町ひばりさんからのメッセージ
特別賞受賞作品 人生に、文章で彩りを。
▼猿荻レオンさんからのメッセージ
特別賞受賞作品 人生で一番、文章力がほしくて悶えた日
▼とろろさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品「手軽に書けるからといって、手軽に書いていいわけではない」
▼久田一彰さんからのメッセージ
優秀賞受賞作品「書く」。「書かない」。
▼くりすたるるさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品「お前に言ってねーよ」じゃなく「あなたが良い」と言われたい
▼イクミリコさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 モノクロではなく、多彩な“世界”で生きるため
▼RaMさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 日々を「こなす」のではなく「積み上げる」ということ
▼にしまりさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 言葉の可能性を信じて~僕が文章を書き続ける理由~
▼シノスケさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 変化していく書く理由
▼tutumi-mabuさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 自分を愛するために書く
▼クインさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 書きたいのに、書けない。
▼和澄しゃいんさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 言えなかった弱さは書いてく強さを支えてる
▼星井きなこさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 たった1つの作品が、たった1人の命を救うから
▼すーこさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 優等生の「フリ」にはもう、うんざりだ
▼shiiimoさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 Q:からすなぜ鳴くの♪ この童謡の作者は誰でしょう?
▼本田すのうさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 書く場所
▼もつにこみさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 貴方のスキマへと愛をこめて
▼神月裕さんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 「書く羅針盤」を持てば最適な道を歩ける!
▼やきいもさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 書くことは愛すること。
▼都築 あいさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 言葉をぎゅっと抱きしめる
▼美咲さんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 小説が読めない。けど、書かなきゃ死ぬ
▼朝日みうさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 ちょっぴり老眼きてるかもだけど、わたしは物書きになりたいの。
▼CHIHIROさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 ぶちのめすつもりで書けるわけあるか〜\(^^)/
▼ぱむぱむさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 【全力記事!】サラリーマンを辞めるために、noteをはじめた
▼FIREサラリーマン みかん🍊さんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 note を書くのは一番後回し
▼つるさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 書いて、食べて、息をして|わたしが書く理由
▼ゆうあんさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 かつて「神絵師」になりたかった人間が、noteを書きはじめてもう1人の自分に出会った話。
▼真染さんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 「面白いから生きてて」と言われ、書くことにした
▼駆里もぐさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 「過去」と「未来」の自分への贈り物
▼みけにゃんさんからのメッセージ
優秀賞受賞作品 書いたことで伝わる「好き」がある。
▼神崎 さやかさんからのメッセージ
このほか、優秀賞を受賞された方は以下の2名さまです。
以上が、受賞作品と受賞者の皆さんからの受賞コメントでした。
皆さん、改めて受賞、本当におめでとうございます!
コンテスト主催者としての最後のご挨拶
これにてコンテストは終了です。皆さん、本当にありがとうございました。
コンテスト主催者として、コンテスト責任者として最後にご挨拶をさせてください。
まず最初にマネージャーへのお礼を。このコンテストは私のマネージャーがいなければ絶対に完遂させることができませんでした。絶対に絶対に無理でした。
応募作品の管理や中間選考の審査、そして最終選考のための準備、受賞者への皆さんへ連絡漏れがないかなどのチェック、受賞者の皆さんからのDMの管理、そしてコンテストが終わった後はこれから賞金を授与するために動いてくれます。
絶対に、私一人じゃ絶対にできなかった。
だから、まずコンテスト主催者として最初にマネージャーにお礼を言いたい。ほんとうに、ありがとう。
コンテストで受賞された皆さんへ
そしてコンテストで受賞された皆さんへ改めてお礼を。
「創作大賞の準備運動の場所として使ってね~」なんて、みんなを助ける場所を提供したつもりが、結局一番助けられたのは私でした。
応募してくれて、ありがとう。
応募のために、作品を書いてくれてありがとう。
命ともいえる時間を削って、立ち向かってきてくれてありがとう。
なんて言ったけどさ。イメージとしてはなんかこう、昔の漫画で出てくるような「拳で語り合う」ようなリング上での漢(おとこ)の闘いみたいなのを想像してたんだけど。
フル装備の特殊部隊SWATチームが続々と突入してきた気分だよ(笑)。もうなんなんだよ、勝てるわけないでしょうよ。私丸腰なんだよ!?(笑)
みんなの作品、すごかった。
この先きっと、文章を書いていて壁にぶちあたったら私は何度も読むと思う。
書いてくれて、ありがとう。
あなたの作品を生んでくれて、ありがとうね。
コンテストで落選した方々へ
そしてコンテストで落選した方々へ。
もうすでに書いたことだけど。大切なことだから改めて伝えます。
落選したことは、イコール自分の作品が「全部ダメ」なわけでは決してありません。
「このコンテスト」で「この審査員」に刺さらなかっただけ。ただ、それだけです。たった一人に刺さらなかったからといって、その作品の全てがダメなんてこと、絶対にないですよ。
その作品はあなたが産んだわが子でしょう。あなたはその作品の母親なんでしょう。だったら、その作品を産んだ自分だけは、その作品を愛してあげてください。それが母としての務めだと、私は思う。
中間選考で落選した人から、10通ほどDMをもらった。もちろん表現は違うんだけど、その人たちが言ってる言葉は一緒だった。
という意味でした。
まず、つらいことはわかる。私だって本気で挑んだコンテストに落選してへこんだことだってあったし。その気持ちだけは、とてもよくわかる。
だけど、最後の最後で自分を救えるのはやっぱり自分しかいないよ。このことだけは伝えておきたい。最後の最後だけは、私に頼っちゃだめだよ。なぜなら最後に自分を助けられるのは自分しかいないからだ。
ここだけは、人任せにしちゃだめ。人任せにしたら今あなたがいるであろうその地獄から抜け出す日が来なくなるよ。ずっと地獄のメリーゴーランドに乗り続けることになるよ。
ましてや私は神様じゃない。ただの、人だ。
みんなコンビニ行くでしょ?するとレジでお会計する時にレジ待ちするでしょ。レジで並んでる時、前に人がいるでしょ。普通に商品を店員に出してお会計している人がいるでしょ。
その人がもしかしたら、私かもしれないんだよ。
想像してみてよ。どっからどう見ても、ふっつーーーーーの人でしょうよ(笑)
つらいかもしれないけど、神様に頼るのはもうやめにしよう。そうしないと、つらい日がもっとずっと長く続いちゃうよ。
そうだ、書くのはどうかな。
「辛い現実を愛すべき過去にするために書く」って言葉が、今回の受賞作品でも出てきたでしょ。この方法、やってみようよ。もちろん、筆が持てるようになった時でいいからさ。
しんどい時は誰にだってある。つらいことだって生きてりゃ当然あるよ。でも大切なのは「つらくても落ち込まないこと」じゃなくて
ってことだと思う。
だから、元気になったら、書いてみようよ。ね。
最後に。noteで働く皆さんへお礼をお伝えします。
noteという場所を生んでくれて。そして維持し続けてくれて。本当に、ありがとう。このnoteっていう場所があったからたくさんの愛すべき人に、愛すべき作品に出会えました。ありがとうなんて言葉じゃ伝えきれないくらい、感謝の気持ちでいっぱいです。
創作大賞の授賞式でもらった、皆さんの名刺、大切に持ってますよ。「おめでとう」って話しかけてくれた皆さんの笑顔、今もちゃんと覚えてますよ。
私はね、noteが掲げる「企業としてのミッション」が大好きなんですよ。
だから、noteと言う場所にいるんです。ブログとかBrainとか他のプラットフォームでだって文章を書けるのに、なぜnoteと言う場所を選んだのか。それは、noteという会社が掲げているミッションが、大好きだからですよ。
このミッションは、すごいと思う。「創作をはじめる」じゃなくて「創作をはじめて続けられるようにする」。ここがすごいよ。
今回のコンテストの概要にも書いたことではありますが。書くことは簡単かもしれない。でも、「書き続けること」は本当に大変でつらいことなんです。
私は今まで、表現者として何度も何度も筆を折りかけてきました。表現者であり続けることは、諦観・絶望・銷魂とのたゆまぬ戦いでした。
だから、書くことだけじゃなく書き「続ける」ことがどれだけ尊いことか痛いほどよく知っているんです。
だから、素敵だなって思ったんです。
「創作をはじめる」じゃなくて「創作をはじめて続けられるようにする」と。「続ける」ことまでをミッションにしたこの言葉が大好きなんです。
だから、このnoteという場所にいるんですよ。
企業の寿命は約30年と言われています。どんな会社も、約30年でつぶれて消える可能性が十分にあります。私が今経営している会社も、きっと30年後には倒産するのかもしれません。
だから、noteという会社も、ずっと永遠にあるってことはないのかもしれません。
だからこそ、今「noteという場所がある」。そのことを尊いと思います。うれしいって思います。そして「この場所をつくってくれてありがとう」と思っています。
今回のコンテストは、noteと言う場所を作ってくれた皆さんがいなかったら開催できませんでした。開催できなかったら、こんなにもたくさんのすばらしい人と、そして素晴らしい作品に私は出会えなかった。出会えなかったらこんなにも人生が豊かに彩られることはなかったと思う。
だから、改めて感謝します。
noteで働く皆さん、本当に、ありがとう。
おわりに
……さて、これにてコンテストは本当に無事に終了しました!
みんな、ここまで読んでくれて本当にありがとう!コンテストの結果発表会場の文字数は、なんと約8万3,000文字。
いやほんとごめん。これ以上圧縮できなかった。最後まで読んでくれた人、絶対目ぇ疲れたでしょ。ホットアイマスクとか使ってほんとに目を休めてね。
さて、私はこれから次の大作品の執筆を開始しようと思う。タイトルは
だ。
完成するのはいつになるかわからないけど、会社でつらい思いをしている人たちのために、丁寧に丁寧に言葉をつむいで原稿を完成させようと思う。
来年ぐらいには書きあがってるといいな(笑)。
書きあがるまでに、ちょこちょこ片付けに関する短いnoteとか旅行したときのエッセイとか、合間にミニnoteをアップするだろうけど。だけど、今私が一番書きたい大傑作はやっぱりこの「もう会社に行きたくないあなたへ」だ。
まだ数行しか書いてないけどさ。
書くの、楽しいよ。
やっぱり書くのって、楽しいねぇ。
みんなも、自分らしく自由にのびのびと文章を書いていってね。時に全力で。時にゆるく。時に気楽にきままに自由に書く。それができる場所がこのnoteって場所だと思う。
きっと、これを読んでいる「あなた」とは絶対にいつかお別れする日がくるだろう。
先に私が「書きたいこと書き終わったから、書くの卒業しまーす!!!♡♡♡」ってなるかもしれないし、あなた自身が「他のことに挑戦したいからnoteアカウントは今月で閉じまーす!♡♡♡」ってなるかもしれない。
だからこそ、今この瞬間このnoteで出会えたこと。本当に奇跡だと思うし、尊いことだと思う。
出会ってくれて、ありがとうね。
じゃ、改めて、コンテストはこれで終了です!
参加してくれたみんな、応援してくれたみんな、見守ってくれたみんな、本当にありがとうございました!
また次のnoteで会おうね~!
ではまた!
noteコンテスト
「なぜ、書くのか」責任者
藤原華より