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美術史第85章『近世中国美術-中国美術12-』


朱元璋

  14世紀、元の対して起こった白蓮教徒による反乱の首謀者、朱元璋は元をモンゴル高原に追いやり中華統一、南京を首都とした中国人による中華帝国「明王朝」を建国し政治制度や軍事制度の整備を進め、政治を行う宰相を廃止して皇帝が直接政治を行う独裁体制を築いた。

鄭和
鄭和の航路

 15世紀初頭に朱元璋死後に即位した建文帝を破った永楽帝が皇帝となると、首都は北京に移され、モンゴルに残っていた元(北元)や女真族、大越(ベトナム)を征服、さらに鄭和の大船団を東南アジア、南アジア、西アジア、東アフリカに派遣し各国と外交関係を結び、永楽帝の後の康熙帝と宣徳帝の時代には全盛期を迎えた。

 明の時代は皇帝の権力が強くなった時代であったため、美術も権力者の嗜好に合わせた作品が作られており、宮廷の画院での絵画は厳しい制約が行われたため独創的な人物が活躍するのは不可能であった。

仇英「南都繁会图」
仇英「仙山楼閣圖」
唐寅
「山路松聲圖」
「王蜀宫伎图」

 その中で「浙派」と呼ばれる激しい画風が確立されていき、明の中頃には一般人の中から職業画家の仇英、書道でも有名で絵画界でも巨匠と言える唐寅が現れた。

沈周
沈周「庐山高图」
文徴明作
文徴明「惠山茶会圖」
陸治「支硎山图」

 明の後期には蘇州の文人で文学者や書家としても著名な沈周により「呉派」が開始し、沈周の後継者的存在である文徴明や陸治などが活躍し文人画が中心となっていった。

元の染付
金襴手

 工芸の分野では白の胎土の素地に酸化コバルト絵の具で模様を描いた青花(染付)や、青磁の釉薬の下に銅で模様が描かれた釉裏紅などの制作が元代に続いて行われ、明代中頃には色彩が優れ、形状が多様化、釉薬の精錬技術が進歩したことで青花、赤絵、五彩などは洗練され、金を加えた金襴手などが生まれた。

 一方、モンゴル高原でオイラトが急速に勢力を拡大し、首長のエセンが北元の皇帝に即位、明王朝への侵攻を開始し、15世紀中頃には土木の変で皇帝英宗が一時的に捕虜となって以降、明は弱体化していき大反乱も発生、弘治帝により持ち直したが、その後は内乱や反乱の頻発、倭寇とダヤン率いる北元の侵入などが起こった。

董自画像
董其昌「婉孌草堂圖」
陳継儒「雲山幽趣図」
馬守真「兰竹水仙图」
徐渭「墨葡萄图」

 この時代には文人画家として董其昌やその友人の陳継儒という画家が活躍し、董其昌は呉派など宮廷とは関係ない文人による「南宗画」は浙派など画院の院体画「北宗画」よりも優れたものであるという価値観を中国に定着させ後世の中国美術に大きな影響を残し、他にも画家や文学者でもある徐渭や馬守真、歌妓の薛素素などもいた。

ヌルハチ

 17世紀中頃、明は反乱や秀吉の朝鮮出兵への対応により財政が破綻、政治組織「東林党」と魏忠賢ら反対勢力の間で対立が起こり政治が弱体化、これにより北東部のヌルハチ率いる女真族が後金として独立した。

ホンタイジ
李自成

 後金二代皇帝ホンタイジがモンゴル人、女真族、北部の中国人を征服したことで「清王朝」が成立、明では李自成率いる反乱軍が首都北京を陥落させ、「順王朝」を樹立し、明の皇族は南方に逃れて「南明」を建国した。

 ホンタイジの次の順治帝の時代には呉三桂の求めで宰相のドルゴンが明を滅ぼし中国を支配していた順を滅ぼし、そのまま明の残党である南明を征服し中華統一を達成、康熙帝以降、清は全盛期を迎え、それは雍正帝、乾隆帝の時代まで続いた。

順治帝
ドルゴン
康熙字典

 ドルゴンと順治帝は今までの首都北京をそのまま首都とし、その後も科挙などの制度も今までの明王朝のものをそのまま取り入れ、康熙字典、四庫全書などの編纂を行ったため、北方異民族の弁髪を強制し異民族支配に反発する人々を弾圧したものの中国人は異民族の国家である清を反乱者の順を倒して明の国家制度を受け継いだものとして受け入れた。

王時敏「仿王維江山雪霽」
仿古山水圖冊
王鑑「梦境图」
王翬「长江万里图」
王翬「秋山行旅图」
王原祁「夏日山居圖」

 中国の制度や文化を受け継いで発展した清だったが、それは美術面でも同じで明の時代に繁栄した儒教の知識のある上流階級の文人の呉派が絵画の中心として活躍し続け王時敏、王鑑、王翬、王原祁、呉歷、惲寿平など多くの著名な画家が現れた。

呉歷「湖天春色圖」

 呉歷は当時、宗教改革で弱体化した西欧のカトリックによりアジアでの勢力拡大を任されていたイエズス会への入会から西洋絵画の影響を受けた絵画を制作した。

惲寿平の牡丹

 惲寿平は輪郭を描かない没骨法を用いた着色された花鳥画の制作を行い形式的な南宗画(文人画)とは異なる独自路線を築き、惲寿平の技法は一つの派閥にまで広まった。

カスティリオーネ作

 これら文人による南宗画は、宮廷の画院でも受け入れられ、強い筆圧で立体感のある山水画や建築物などを定規を使って正確に描く「界画」を特徴とする袁派やミラノの画家でイエズス会の宣教師としてやってきたジュゼッペ・カスティリオーネの齎した西洋絵画などが院体画の様式となった。

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