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美術史第97章『桃山文化の建築と庭園-日本美術11-』


秀吉
信長

  織田信長の跡をついで天下統一を達成した豊臣秀吉は、当時の上級武士の重要な機能となっていた高貴な客を応対したり来客を接待したりする対面儀礼の場を重視しており、この時代にそのよう場面に適した「書院造」という様式が確立されていくこととなった。

 「書院造」は角柱を用い部屋に畳を敷き詰め、杉戸、襖、障子などの道具を用い、床の間や違棚などをつけ、寝殿造の影響のある大広間の部分を主体とするなどを特色とする建築様式で、床の間や違棚、付書院などを作りつけて内部空間そのものに身分や格式の表現をともなっており、大広間は主殿の4倍の広さで身分差を誇示しながら大人数を収容できた。

西本願寺書院
二条城黒書院

 1600年頃の園城寺などの「書院造」では寝殿造の中門や蔀などをとどめていたが、10年代の名古屋城ではそれらが払拭され、その後の二条城や西本願寺で建物と庭園が一体となり細部装飾が拘られてた書院造の完成形が誕生した。

厳島神社
毛利元就
土佐神社
長宗我部元親
武田信玄
熱田神宮
伊勢神宮

 また、東大寺の大仏殿や比叡山延暦寺などの宗教施設が焼失させられたことからも分かる通り戦国大名は寺社勢力に圧力を与えた一方、協力する寺社勢力は保護しており、毛利元就は厳島神社、長宗我部元親の土佐神宮を復興し、武田信玄は甲斐善光寺を創設、信長も熱田神宮の壁建設や伊勢神宮の遷宮した。

日吉大社
比叡山延暦寺
醍醐寺
東寺金堂
秀頼

 天下を取った秀吉は日吉大社、比叡山延暦寺、醍醐寺、大徳寺、妙心寺、東寺を復興、法光寺やその「京の大仏」の建設などを行い、秀吉の息子秀頼は東寺金堂を寄進し、これは古代や中世を混ぜた様式で建築し、通柱の手法は後の大型建築の工法に影響を与えたとされる。

高台寺
静岡浅間神社 神部神社・浅間神社大拝殿
大崎八幡宮

 秀吉の墓として建てられ後に破壊された「豊国廟」は彫刻や彩色で装飾されたものであったとされ、同じく霊廟として建てられた「高台寺」には蒔絵や狩野派の絵画があり、他にも神社では家康の命で独特な二重の楼閣の「浅間造」の富士山本宮浅間大社や、「権現造」で多くの装飾がある大崎八幡宮などが作られた。

千利休
如庵

 室町時代から存在した茶の湯の文化は安土桃山時代になると民衆にも広まり、堺の商人だった千利休は茶の師匠として信長や秀吉に仕え、様々な茶道具や懐石料理を考案して茶の湯の儀礼を定め「茶道」のルールを確立し、村田珠光の侘茶を簡素な無一物の美を追求し大成、これは豪華絢爛を特徴とする桃山文化において特殊で、茶道が行われる茶室は書院造を基にしているが豪華ではない端正な作りで、織田有楽斎による「如庵」などに代表される茶室の建築は「数寄屋造」という建築様式を生み出した。

有楽斎
織部
遠州

 また、利休の他にも津田宗及や今井宗久などが茶道で有名で、大名達は織田信長の茶の湯を功績のある家臣に認めるという制度の影響から茶の湯を武士の嗜みと認識するようになり、蒲生氏郷、細川忠興、高山右近、前田利長などの武将は利休に弟子入りし、中でも徳川家の茶道師範となる古田織部、織部流の始祖となる先述した織田有楽斎、遠州流の始祖となる小堀遠州などは利休の後継者の茶人となった。

智積院庭園
高台寺庭園と観月台
二条城二の丸庭園
松花堂の露地

 庭園の分野では大名が自らの威信を誇示するために競って美しいものを作った結果、大きな発展をとげ、その発達は城郭建築とも密接に関係し、桃山時代には不老不死を祈念する鶴や亀、蓬莱などを表現する石組と書院造の邸宅が共存する書院式庭園が多く作られた。

 代表的なものとしては「智積院の大書院庭園」や秀吉が自ら設計を行った醍醐寺三宝院庭園、小堀遠州の「二条城二の丸庭園」「高台寺庭園」などがあり、茶の湯の発展により茶室に付属する飛石やつくばい、灯籠が設置された典型的な「露地」もとい「茶庭」の様式が確立され、利休はこれに樫や日榊といった常緑広葉樹や松など、織部は蘇轍や棕櫚などの唐木などを植えることを推奨し、遠州は飛石や松の葉など細かな部分まで調整を行う「きれいさび」を提唱した。

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