見出し画像

美術史第94章『南北朝文化の美術-日本美術8-』

  大きな発展を見せた鎌倉だったが、分割相続の連続による武士の領地の縮小と貨幣経済の開始についていけないということから多くの御家人が生活に困窮、幕府も対策はしたが成果はなく、13世紀後期になると重要な貿易相手で文化的にも大きな影響を受けてきた宋王朝が北方のモンゴル帝国もとい元王朝に滅ぼされてしまう。

元寇

 その元王朝は文永の役と弘安の役の2回に渡り「元寇」と呼ばれる侵略を九州沿岸で行い、日本軍はこれに圧勝するが未知の敵に対して戦った武士達へ支払う恩賞は何も手に入らず、「御恩と奉公」と呼ばれる武士が功績を上げたら何かをあげるという制度が壊れ始めたとされる。

鎌倉大地震と似た関東大震災

 さらに生活に困窮する御家人の不満を御家人を排除し、武士に対して軍事動員の制限をかけて、全国に出先機関を設置するなどして「霜月騒動」や「平禅門の乱」なども力でねじ伏せて政府も腐敗し、「鎌倉大地震」や「正嘉地震」など首都鎌倉直下の自然災害も多発して幕府は弱体化した。

後醍醐天皇
楠木正成

 さらに天皇の後継問題で争いが発生してこれに幕府が介入し、直系が皇位継承が認められなくなった後醍醐天皇が「元弘の乱」を起こして、一時は退位させられるが、その後、護良親王と楠木正成の再挙兵、御家人の新田義貞による鎌倉陥落、その後の戦いで鎌倉時代は完全に滅亡し、後醍醐天皇は「建武政権」を樹立した。

足利尊氏

 建武政権は様々な政策を行うが、結局、鎌倉の残党の決起や護良の失脚など収拾がつかなくなり始め、有力武士の足利尊氏が「建武の乱」を起こし楠木、護良、新田、北畠らが鎮圧を行うが、足利氏が勝利、光厳天皇を担ぎあげて京都に「室町幕府」を樹立して後醍醐天皇を降伏させた。

 しかし、後醍醐天皇は吉野(奈良南部の山岳地帯)に逃れていき、結果、後醍醐天皇勢力と尊氏の室町幕府勢力に日本全体が二分され、朝廷も二つある状態となりそれぞれに与する大名が争う「南北朝時代」が開始、同時に室町幕府による「室町時代」も開始した。

 南北朝から室町の時代は武家が公家を圧倒し、政治的にさらなる権力者となった時代で、足利氏を中心に多くの上層武士が京都に移住、京都に住む公家の文化と武家の簡素で力強いという文化が融合し、そこに当時繁栄していた中国の唐王朝の影響が加わって文化が形成された。

蓮如

 禅宗はこの時期に、南朝が旧寺院を取り込んでいたことに対抗して室町幕府により保護されて発展し、また、室町時代には商工業が発展した事で庶民の社会的地位が上昇、町衆や農民が文化の担い手となり始め、庶民性や地域性が生まれており、民衆の中には戦乱で反権威の気風も生まれていたとされ、これにより各地で寄合が生まれ茶道や連歌などの文化を発展させたというのもあるかもしれない。

 また、南北朝時代には増鏡、神皇正統記、梅松論などの歴史書、太平記や曽我物語などの軍記が作られており、和歌では新葉和歌集や李花集などの歌集が作られるがそれ以降衰退、二人で一つの詩を完成させる連歌が流行するなど独自の「南北朝文化」が生まれた。

バサラの代表格 佐々木道誉

 そして、当時には「ばさら」と呼ばれた奇抜な衣装や道具を身にまとい、青磁などの外国製品、いわゆる「唐物」を多く使った室内装飾を行いような流行し、潮流がこの時期、室町幕府創設にあたり足利市と共に近畿地方にやってきた佐々木道誉や高師直などの上級武士達の間で発生、一方、連歌や猿楽、狂言など新たに生まれた文化は民衆にも親しまれ、茶を嗜む「茶道」という文化もこの頃に広まった。

夢窓疎石

 仏教美術の分野では鎌倉幕府と天皇による戦争、元弘の乱による多くの死者を弔うために足利尊氏が夢窓疎石に各国に作らせた「安国寺」という寺院達と「利生塔」という仏塔達、そして疎石と尊氏が当時敵側だった後醍醐天皇の死の際に建立した著名な「天龍寺」がある。

天龍寺
西芳寺

 夢窓疎石はこのように尊氏の元で絶大な信頼を置かれる芸術家となったことで疎石の属していた禅宗の一つである臨済宗は幕府で大きな影響力を持つ存在となっており、疎石は苔寺とも呼ばれる「西芳寺」や天龍寺の庭園なども手がけている。

黙庵
可翁
南北朝の大太刀

 また、この時期より少し前に宋や元から伝来していた水墨画が黙庵や可翁などによって繁栄を開始、他にも戦乱の影響なのか刀剣では刃渡り三尺以上の巨大な「大太刀」が作られ、彫刻の分野では以前と変わらず仏教のものが多かった。

高師直

 その後、南北朝となって争う中、高師直が南朝の最有力者の一人楠木を討伐して吉野の宮廷を焼き払って南朝は奥地の賀名生という谷に逃れることとなり内戦はほぼ室町・北朝側の勝利となったが、改革派の高と政務をおこなっていた保守派の忠義により室町幕府内部で「観応の擾乱」が発生し、忠義の残党や南朝の残党による反抗が続いた。

足利義満

 また、その間に南朝は近畿などでは全く勢力を失ったものの九州に本拠地を置いて明王朝から日本の王として承認され勢力を拡大、室町幕府はその後、力を持った守護大名の討伐や軍備強化、仏教勢力との対立改善、半済導入など権力の安定化を行い、さらに九州の有力者大内氏を討って、14世紀末期の足利義満の時代に北朝と南朝が統合され、南北朝時代が終了した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?