豆大福に、カフェラテ
ここのところ、豆大福を食べる機会に恵まれている。
まずは袋にたくさん入った、冷凍の豆大福。
母が買ってきたものだ。
午前10時くらいになると、
「本日の豆大福です」
と、母が毎日一個、わけてくれる。
まだカチコチなので、しばらく待ってから食べる。暑いから、解凍が早い。
ちょっと凍ったままのひんやりシャリシャリの状態でも美味しい。
完全に解凍した状態だと、
少し「べちゃっ」とした、というか、「しっとり」よりも一層ウェットなあんこ(褒めている)と、もちもちの皮、そしてちょっと硬めの豆。
これにはブラックコーヒーが合う。
たくさんあったので、数日間、毎日幸せなおやつ時間を送った。
この間は、和菓子屋の豆大福をいただいた。
皮はもちもちを通り越して、口に入れるとトロンとなるくらいのやわやわ。
あんこはしっかりしっとり、顕微鏡で見たら同じサイズの小さな粒が並んでるんだろうなーと思える、ちょっとザラリを感じるこしあん。でもパサパサはしてない。
飲み物は何を一緒にいただこうかなーと考えて、
目の前にある冷たいカフェラテと合わせることにした。
某コーヒーチェーン店でタンブラーに入れてもらい、テイクアウトした残りだ。出先でちょっと飲んだのだけど、まだまだ残っていた。
しっかり氷も残ってて、苦味もあって(今日はエスプレッソショット追加した)、でも、まろやか。
カフェラテにあんこが溶け出して、不思議な甘さだ。
あんこにカフェラテが染み渡って、
ビターな豆大福が口いっぱいに広がる感じ。
ふと、
カフェラテがあんこに「しゅんで」美味しいなーと思った。
関西人ではないので、正しい使い方なのか定かではない。
けど、「しゅんで」がすごくぴったりだなと思った。
関西弁ネイティブではない私の、第三者目線での意見だけれども、
「しゅんで」には、
染みて、でも
染みこんで、でも表現しきれない、
染みる心地よさ、口の中に広がる心地よさのようなものが含まれている感じがする。
「しゅんで」という言葉でしか表現できない感覚がある気がする。
そういえば、
教科書か何かに載っていた、忘れれらない文章がある。
俵万智さんの方言に関するエッセイに似た文章。
そこでは方言の語尾「~はる」について書かれていて、
「先生が来はった」というのは
「先生が来た」でもなく
「先生がいらっしゃった」でもない。
「先生が来はった」としか言いようがない。
とあった。
先ほどの「しゅんで」も、別の言葉では決して言い換えられない
素敵な言葉の一つなのかも、とぼんやり思う。
言葉によって思考が決定づけられる、という説を聞いたことがある。
確かに、持っている言葉や使う言葉によって
意思疎通できる範囲や思考までもが左右される、というのは
日常生活の中でも実感する。
だから方言を持っている人はいいなと思う。
いわば標準語と方言のバイリンガル。
標準語だけでは表現しきれない、絶妙な気持ちや心地を言葉で表現できる。
人に伝えることができる。
私は方言が少ない地域に生まれた。
いろんな言語はもちろん、
いろんな方言にも出会ってみたい。
そんなことをぐるぐると思う、豆大福を頬張るおやつ時間でした。