Azsa TAKAHASHI

近畿大学・高橋梓のnoteです。ゆっくりと、日常から「動詞的教養教育」のヒントを抽出します。ここでの発言は所属機関と関係ありません。

Azsa TAKAHASHI

近畿大学・高橋梓のnoteです。ゆっくりと、日常から「動詞的教養教育」のヒントを抽出します。ここでの発言は所属機関と関係ありません。

マガジン

  • VERBE〜動詞的な日常

    「動詞としての文化」とは何かの考察

最近の記事

幸福に隠蔽された自己愛の問題

北国で生まれたことで、つねにアイデンティティは「周縁」に向かう。プルーストという世界の中心で存在感を放つ作家を研究していようが、自己認識は地方民であり、中心から遠く離れたところで生きている感覚がつきまとう。青森出身で全国的な知名度を獲得する一部の際立った才能も、作品を紐解くと「周縁」との関係が色濃く読み取れる。 原田マハ『板上に咲く』は棟方志功の妻チヤの視点で語られた物語だ。 昔から棟方志功の作品が好きだったので、本書を手に取ってみたが、残念ながら僕の求めている物語ではな

    • 「世界」の話を「人間」に矮小化する罪

      難波を歩いていたら「恐竜科学博」のポスターを見つけ、会場でトリケラトプスやティラノサウルスの化石を見てきた。年齢も45歳を過ぎると、社会の中でそれなりに人間と触れ合わねばならない。社会的存在であることは僕らの人生の「前提」ではあるが、人間と向き合うことの独特な疲労感は誰もが思い当たるだろう。恐竜の化石を見たり、家で飼育したカブトムシが生んだ幼虫をひたすら眺めたり、「人間以外」の存在に触れることで心を落ち着ける。 昨今の僕の研究課題の一つが折口信夫であるが、折口の民俗学的研究

      • 文化の「際」を通過すること

        旅先なので、ふと思ったことを。 夏季休暇を利用し、乗用車で帰省をしている。自分の実家と妻の実家を回るため、大阪から青森、青森から宮城、宮城から大阪と移動する。さすがに一気に移動するのは無理なので、行き帰りに二泊ずつ(金沢・魚沼/河口湖・浜名湖)宿泊をしながらの長旅だ。 僕は旅行が苦手な人間であるが、人文学的主題を念頭に生活しているため、道中の文化要素は貪欲に吸収している。今回は道中になるべく多くの博物館に寄り、展示で学びを深めた。仕事の関係で縄文についての学習を心がけてい

        • 勝敗を超越したところに本質を見る

          大阪に住んでいる特権で、この季節にはヨーロッパの強豪クラブチームがやってくる。去年のパリ・サン=ジェルマンに続き、今年はドルトムントがセレッソと対戦した。 香川真司の古巣・ドルトムントは、今年のチャンピオンズリーグで2位になった強豪であり、スター選手の来日こそなかったが、レベルの高いプレイを堪能できた。試合は2−3でセレッソの敗戦となったが、後半はかなり盛り上がり、数日ほど余韻が続いた。 ビッグクラブを迎えての試合ではあるが、所詮は親善試合であり、スタジアムには空席が目立

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        • VERBE〜動詞的な日常
          201本

        記事

          善なるものに潜む根深い暴力性

          日々、飽きずにインプットをしているため、実は書くことに溢れているのだが、その活動のすべてが研究に向かっている。僕のアウトプットは研究を成立させるためにあり、研究の実践が日々の授業だ。学会発表が近くなると他の方法によるアウトプットが働かなくなるようで、結果noteも月1がせいぜいとなる。まあ、わかりやすい言い訳である。 僕が生業とする国際文化学の研究は、文化と文化の関係を問うものであり、異質なものが接触することで様々な文化の副産物が生まれていく。世界には異質な文化がひしめいて

          善なるものに潜む根深い暴力性

          「正義」を超えた「ともだち」による世界の創造

          今月も終わりに近づいているが、春は学会シーズンでもあり、数週間前に沖縄まで出張した。僕はあまり遠方に出歩くのが得意ではないため、沖縄に行くのも初めてのことだった。フランス語教育学会の場を借りて、平和教育のためのシンポジウムを企画したり、グループで運営しているオンラインコミュニティの学習効果について発表したりと、短いながら濃密な時間を過ごした。 平和というタームは、地上戦が繰り広げられ、他国の支配を受け、今なお基地と共存する沖縄において特別な意味を持つ。だが僕らの平和の語りは

          「正義」を超えた「ともだち」による世界の創造

          どうしようもない個の弱さを抱えて

          新学期の忙しさに揉まれながら一歳年を取り、気がついたら4月も終わりだ。腰を据えて文章を書く時間がないわけでもないのだが、仕事でアクティヴに動く分、日々は受動的になる。読書や映画や試合観戦の数を重ねていると、自分が「現地」で何事かをしたような気になるが、思い直すと僕の日常は他者の創造に立ち会うだけであり、受け身の時間が増えていく。 『オッペンハイマー』はすでに多くの批評家に語り尽くされている。原子爆弾を生み出した科学者の物語は、クリストファー・ノーラン特有の作品構造、あるいは

          どうしようもない個の弱さを抱えて

          倒壊を崩壊と捉えるか、訂正と捉えるか

          Jリーグが開幕し、さっそくFC大阪のホームゲームを追いかけている。サッカーはよく野球と比較されるが、僕自身はさほど野球に関心が無い。その理由の一つが入れ替え戦の有無だろう。12球団が固定された野球において、チームは比較的強固なコミュニティを形成しており、入り込むことに負担を覚える。他方のサッカーは出入りが盛んであり、チームはすぐに別のものへと変化する。東浩紀の用語を用いるなら、チームやリーグ編成に「訂正」が常に加えられるのだ。 ウイルスや戦争で常識が容易に変容する時代にあっ

          倒壊を崩壊と捉えるか、訂正と捉えるか

          孤独のためのコスト

          僕の日常は読書と映画鑑賞とスポーツ観戦で構成されているようなものだが、映画は他者との共同空間の中で個に向かう文化だ。自宅では子供の生活空間に映画が入り込む。それを割けるために映画館に行くと、そこは当然ながら他の客との公共空間だ。 『Perfect Days』はトイレ清掃員の穏やかな日常を描き出した静かな作品だ。だが作品の最終版で、近くの客が携帯電話を鳴らし、僕らの映画鑑賞は一気に断ち切られた。映画館では携帯電話やビニール音に迷惑することが多く、ありがちな迷惑行為の体験なのだ

          孤独のためのコスト

          実用性の呪縛から解放される

          いつからかSNSを定期的に更新することなどやめており、自分にとっての日々の記録は「ほぼ日手帳」の殴り書きだけになっている。むろん、その記録は「考察」を残すものではない。たまに体験の意味を考えなければ、日々はあっという間に過ぎ去る。そもそも、正月から二月までの時間はどこに行ったのだ? 昨日は飛鳥シンポジウムについて語ったが、飛鳥はもう一件ネタがある。僕は飛鳥応援大使というPR活動めいたことをやっており、一月には大使たちが中心となり企画する「飛鳥凧揚げ大会」を企画した。 休み

          実用性の呪縛から解放される

          現実を拡張すること

          最近すっかり月一配信になっているが、それを言い訳するつもりもない。そもそも僕は「日々更新」の意味を疑っている。「ほぼ日刊イトイ新聞」は「ほぼ」と付けながらも休みなく更新が成されているが、毎回が傑作であるわけでもない。「日々更新」の目的化は、「忘れないでほしい」というメッセージである。また目的化した筆記に精神が乗っ取られると無意識の闇が覗いていくのはシュルレアリスムを例に取るまでも無い。 ここ最近は自主企画のシンポジウムに占められていた。 研究会とプレイベントの同時運営に加

          現実を拡張すること

          体験を意味づける人間の本質

          能登半島地震は大阪でも長時間揺れた。東日本大震災以降、地震の揺れにはセンシティヴになっている。そもそも、ロマン主義に惹かれる文学研究者の特性なのか、何事も大袈裟かつドラマティックに意味づけを行う癖がある。一言で表すと「ビビり」だ。 震災は様々なものを見せたが、自分の本質はおそらく変わっていない。より地震に敏感になったが、これは元々の特性のようなものだ。妙な敏感さは僕に精神的負担を与えるが、そのために最悪のシナリオを回避するために考えを巡らせるようになる。今回の被災者も、感じ

          体験を意味づける人間の本質

          身体と精神の二元論を乗り越える「日常的な」意味

          年末に子供が好きな「SASUKE」を視聴した。難解なアスレチックをクリアする様子を楽しむ番組だが、一般化すると「いつの時代も身体的躍動は埋没の対象」なのだろう。子供は超人の動きを喜び、フィギュアスケートのファンはスケーターの躍動に感動する。ジュニアヘビー級のプロレスラーの跳び技に魅せられる僕は、跳ばず跳ねない高橋ヒロムをあまり応援できない。 年末に『東京リベンジャーズ』を再読していて改めて実感したが、不良の根本の問題は身体と精神の不一致にあるのだろう。 https://k

          身体と精神の二元論を乗り越える「日常的な」意味

          断絶し、創造を繰り返す

          ここ一ヶ月ほど、あれこれと映画や本を読んできた。ハイペースで作品に接すると記憶がぼんやりとしてしまうが、残念なことに「ひどすぎる作品」の衝撃は他を圧倒する。 本作はこの世のものとも思えぬ駄作である。あらすじは「治安維持法の中で思想を捨てることを迫られ、若くして死んでいった女性の生涯」であるが、あらゆる角度において酷い。ここまで酷い作品は珍しい。 あらかじめ言っておくが、僕は思想的立場で作品の評価を決めることはない。僕自身が共産主義を賞賛することはないが、作品が優れていれば

          断絶し、創造を繰り返す

          叫ぶことが許されぬ場所で叫び、歌う

          災害に、ウイルスに、戦争に……重苦しくなる毎日を嘆いたところで、世の中は一つも変わらない。嘆くことすらも他者に圧迫感を与え、「各人ができることをするしかない」といったクリシェを押しつけられる。たとえ「できること」をやったところで、授業でモチベーションを失う学生の心一つ変えられぬ人間の力など無に等しい。 岩井俊二監督の『キリエのうた』は、世界を前にした無力な個人の肖像である。 主人公・小塚路花は東日本大震災で家族を失い、孤児となり、「キリエ」の名で東京の路上でライブ活動を続

          叫ぶことが許されぬ場所で叫び、歌う

          サポーターと消費者の狭間を浮遊する

          日曜は簡単に。 久しぶりにセレッソ大阪のホーム戦に行ってきた。 最下位の湘南ベルマーレを相手にしながらも、前半からディフェンスラインの裏をかかれ、後半30分を超えるとセットプレーから失点。その後も失点を重ね、攻撃は断ち切られるという、なんともアレな結果に終わった。 会場はブーイングが吹き荒れ、途中で帰る人も続出する。かくいう僕もヨドコウからの帰り道が遠かった…… あるドラマで錦戸亮が「日本中どこに行っても選挙とパチンコがある」と言っていたが、サッカーも日本中(というか

          サポーターと消費者の狭間を浮遊する