実用性の呪縛から解放される

いつからかSNSを定期的に更新することなどやめており、自分にとっての日々の記録は「ほぼ日手帳」の殴り書きだけになっている。むろん、その記録は「考察」を残すものではない。たまに体験の意味を考えなければ、日々はあっという間に過ぎ去る。そもそも、正月から二月までの時間はどこに行ったのだ?

昨日は飛鳥シンポジウムについて語ったが、飛鳥はもう一件ネタがある。僕は飛鳥応援大使というPR活動めいたことをやっており、一月には大使たちが中心となり企画する「飛鳥凧揚げ大会」を企画した。

休みの日に明日香村に行き、子供たちと和紙で凧を作り、石舞台古墳前の広場で凧揚げをさせ、審査をする——当然ながらこれは研究でもなんでもないボランティア活動だ。凧揚げ大会の前週には数人が集まり、竹ひごを削ったり、和紙を切ったりと下準備に精を出した。

僕はこのような活動が極めて重要だと考えている。

昨日から恨み節が続いて申し訳ないが、僕は若い頃から人文学、しかもフランス文学を研究していた。当時から幾度となく他人にフランス文学研究が無意味であると嘲笑され、実家に戻ると知らない中高年が大学院生の社会性のなさをわざわざ指摘してきた。それと並行し、文型の学部や研究科は減少を辿り、学問の「実用性」を主張するのが大人の態度と言わんばかりの風潮が続いた。

さて、では「選択と集中」により、日本はさぞや良い国になったのだろうか?学問に実用性を求める態度が実用性に溢れる社会をもたらし、よほど景気が良くなったのだろうか?悪いがこの程度の皮肉は許してもらわねばならない。選択と集中が何をもたらしたか、実用性の喧伝が社会に豊かさをもたらしたのか、自分の周囲を見回してみれば良いだろう。この現状において、未だに「実用性」「効率性」を求める人間には失笑を禁じ得ない。

飛鳥の凧揚げ大会は、実用性や効率性の対極にあるものだ。効率を求めるならば100均で凧を買えばよいし、AIに絵を描かせてプリンタで印刷すればよかろう。そもそも実用性を考えるなら、凧揚げなど何の意味も無い。つまりそのような実用性を逃れた「意味不明」と呼ばれる体験に、今改めて没頭することによって、僕らは長いあいだに渡って精神を支配された「実用性の呪縛」から逃れることができる。

誤解の無いように言っておくが、僕は凧揚げが一周回って景気を良くするといった暴論を展開するつもりはない。それは実用性とは無縁の活動を、実用性の尺度で評価することに他ならないだろう。そうではなく、「実用性の呪縛」によって無駄と断じられた行為を経ることで、未知の体験と関わりを生むことが、今の日常を生きる新たな刺激になることが意味深いのだ。その刺激が経済的にどう評価されるかなど知ったことではない。だが和紙に絵を「描く」、竹ひごを「削る」、石舞台古墳前の広場を「走る」、風に凧を「乗せる」といった、様々な「動詞」との出会いこそが、個々の子供たちを新たな文化へと接続されるのは間違いないだろう。

効率を求め、実用性の呪縛に囚われることは、結局のところ大したものを生み出さず、子育て世帯のそこかしこにニヒリズムが蔓延する。ならば自身を実用性の対極へと移動させ、新たな動詞に出会うことで日々の刷新を目指すことには経済性とは別の「意味」がある。周囲に「意味不明」と見做されることによってこそ、僕らは倦怠と虚無を乗り越えることができるのではないか。その延長線上に僕のライフワークである文学研究が存在するのだと考えている。

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