勝敗を超越したところに本質を見る
大阪に住んでいる特権で、この季節にはヨーロッパの強豪クラブチームがやってくる。去年のパリ・サン=ジェルマンに続き、今年はドルトムントがセレッソと対戦した。
香川真司の古巣・ドルトムントは、今年のチャンピオンズリーグで2位になった強豪であり、スター選手の来日こそなかったが、レベルの高いプレイを堪能できた。試合は2−3でセレッソの敗戦となったが、後半はかなり盛り上がり、数日ほど余韻が続いた。
ビッグクラブを迎えての試合ではあるが、所詮は親善試合であり、スタジアムには空席が目立つ。サポーターもそこまで熱心な応援では無かったようだが、公式戦以上の余韻を感じられた。
自分で何度も繰り返していることだが、文化には「名詞」と「動詞」の二局面がある。サッカーを「見る」、「盛り上がる」は動詞であり、スタジアムに「行く」ことで僕らは主体的にイベントに「参加する」。しかしサッカーはサポーターにとって人生の一部となるため、様々な利害が生まれてくる。「勝利」が嬉しく、「敗戦」はつまらない。結局のところ、リーグ戦の中でサッカーを見ると「勝ち点」が重要性を帯びてしまう。かくしてサッカーは「数値」という名詞に成り代わってしまう。
公式戦に通うことで僕らは「結果」を含めた様々な名詞を追い求める。だから公式戦は疲労する。酷暑になると「スタジアムに行った分の得はあるのか?」と考え、「負け」を見越し、応援から遠ざかる。
親善試合が僕らに垣間見せるのは、利害関係を脱却したサッカーの本質だ。ドルトムントの選手のレベルを目の当たりにし、セレッソの選手がそれに負けじと積極的なプレーを連発する。その身体の躍動(=動詞)に立ち会うことで、僕らの感覚が揺さぶられる。公式戦は勝利の価値を高めるが、サッカーの本質は「ボールを蹴る」ことに他ならない。
そしてもう一つ、サッカーを演出するのは「人間」だ。先週末にFC大阪のファン感謝デーが行われた。前日の試合では敗戦し、しかし選手は笑顔でファンとふれあい、子供に快くサインをする。
選手は数値を出す道具ではなく、僕らとサッカーをつなぐ「媒介者」だ。僕らは選手の躍動を体内化し、ボールを蹴る姿を見て、叫ぶ。数々の動詞こそがサッカーの本質であり、そこに立ち会う喜びが僕らをスタジアムへと誘っていく。
義務からも利害からも逃れ、本質のみを求めてスタジアムへ集うことを思い出し、リーグはサマーブレイクに入る。気がつけば大学はテスト期間だ。学問の本質もまた点数や単位などの「名詞」ではなく、「知る」「変わる」「考える」といった動詞に潜んでいる。