文化の「際」を通過すること
旅先なので、ふと思ったことを。
夏季休暇を利用し、乗用車で帰省をしている。自分の実家と妻の実家を回るため、大阪から青森、青森から宮城、宮城から大阪と移動する。さすがに一気に移動するのは無理なので、行き帰りに二泊ずつ(金沢・魚沼/河口湖・浜名湖)宿泊をしながらの長旅だ。
僕は旅行が苦手な人間であるが、人文学的主題を念頭に生活しているため、道中の文化要素は貪欲に吸収している。今回は道中になるべく多くの博物館に寄り、展示で学びを深めた。仕事の関係で縄文についての学習を心がけていたが、期せずしてマルコ・ポーロに関係する展示を複数回鑑賞することになった。
僕らは東洋にあって西洋を眺める。他方で西洋が東洋を見つめることについてはオリエンタリズムを前提として、差別意識の抽出に努める。むろんサイードの指摘は東西の関係性の本質を貫いており、ある種の西洋の作品に見出される東洋の神秘性は差別意識と切り離せない。だが僕がろくにものも知らない頃、西洋の文化に憧憬を抱いていたように、西洋においてもイノセントな視線は確実に存在する(でなければ行く先々のホテルで出会う気の良い西洋人の態度はすべて否定されるし、訪日観光客を邪魔に思う姿勢こそ批判されるべきだろう)。
シルクロードの各所に関連付けられた展示品は、各文化圏の差異を示すものだ。だが僕が車で各県を移動すると、風景はゆっくりと変化するものの、その境目は曖昧だ。なるほど、大阪と青森は大きな差異によって隔てられているが、地続きの移動で思わぬ連続性に気づくことも少なくない。シルクロードは地続きであり、日本と欧州で異なる出土品は、中間の土地においてその両方の特性を内包する。そもそもマルコ・ポーロが生まれたヴェネツィアが東西文化の融合の地であった。僕らの感じる文化的差異は、普遍文化的な特性を内包しており、「際」にその特性が表出する。
僕が西洋を眺めるように、各地の訪日観光客は日本を眺める。宿泊先では時々フランス語が聞こえてくるので、機会があれば少し会話をしてみる。自他の区分の中間には、「際」が存在する。シルクロードを歩くように、各県を車で通過するように、差異の中間に身を置き、共通のものを抽出する。もうすぐ全日程を終えて大阪に着くが、それまでにまだいくつかの「際」を超えねばならない。