倒壊を崩壊と捉えるか、訂正と捉えるか
Jリーグが開幕し、さっそくFC大阪のホームゲームを追いかけている。サッカーはよく野球と比較されるが、僕自身はさほど野球に関心が無い。その理由の一つが入れ替え戦の有無だろう。12球団が固定された野球において、チームは比較的強固なコミュニティを形成しており、入り込むことに負担を覚える。他方のサッカーは出入りが盛んであり、チームはすぐに別のものへと変化する。東浩紀の用語を用いるなら、チームやリーグ編成に「訂正」が常に加えられるのだ。
ウイルスや戦争で常識が容易に変容する時代にあって、何かがその都度の状況に合わせて変容していく様にこそ、興味が引きつけられていく。コロナ禍がオンラインを促進させるように、状況が変化を促進させていく。言い換えると、人は自らを取り巻く状況において変容を余儀なくされる。サッカーは入れ替えによりリーグが変化に晒され、野球はいくぶん固定的ではあるが選手や関係者の出入りにより世界が揺さぶられていく。
今年に入ってから「ユートピア」を冠する二つの作品を鑑賞した。
脱北者のドキュメント作品『ビヨンド・ユートピア』、そしてオム・テファ監督によるフィクション『コンクリート・ユートピア』は、いずれも閉じた世界をユートピアと見做し、その維持を目論むことがテーマとなる。
『ビヨンド・ユートピア』において、ユートピアは言うまでもなく北朝鮮を示す。隠しカメラによる北朝鮮の現状はどれも目を疑うばかりのものだ。体制を維持するために、北朝鮮はユートピアでなければならず、異分子は徹底的に排斥される。人々は外部への知見を奪われ、その文化に従属する。政治犯と見做された人々は、中国・ベトナム・ラオス・タイを経由してようやく人権を保障され、新たな文化へと接続される。だが、強固な北朝鮮の文化に適応した人々は、自らの幸福を信じ、指導者を疑わない。外部との接続を遮断した国家は、安定のために管理を強固する。
この強力な国家の支配は、『コンクリート・ユートピア』で描かれる「ファングンアパート」と呼応関係に置かれる。ソウルを襲った天変地異は、街に壊滅的な打撃を与える。その中で比較的少ないダメージで切り抜けたファングンアパートの住民たちは、居住者を保護するためにヨンタクを住民代表とし、徹底的な管理により秩序を守る。住民以外の被災者は強制的に追い出され、外部の人間を匿うものには制裁が下される。限られた食料を配給により生き延びる人々は、ヨンタクの管理に従うことで安定を得るが、そのマンションはつねに外部の襲撃に晒されることとなる。
住民の一人であるミンソンは、ヨンタクに心酔して安定を目指すが、妻のミンファは内部の圧力に耐えかね、外部とのつながりを模索する。ヨンタクは文化の強固さによって変質し、それを代償とするかのようにマンションの世界は維持されていく。それと対置するように描かれる外部世界は、横倒しになったマンションに人々が暮らし、緩やかにミンファを受け入れる。屹立するマンションとは対極的に、横倒しのマンションは管理も曖昧で、人の出入りも自由だ。世界の状況に合わせてコミュニティの形を「訂正」し、外部との関係性を持続させていく「サッカー的」な空間こそが、管理体制の強力な社会からの解放を可能とする。
昔は良かったと懐かしんだところで、時代の変容は昔を持続させることを許さない。「アットホーム」な「三丁目の夕日」は、昭和レトロのレプリカであり、強制される「アットホーム」は人々の心理を歪ませる。僕らに必要なのは、居住地が横倒しになる可能性を受け入れ、倒壊した家屋を住居として使うための発想の転換だ。誰の心にも古参選手が去ったことを嘆くノスタルジーが巣くっているが、自らの恣意的なイデアの中に他者を呼び込むことはできない。