「世界」の話を「人間」に矮小化する罪
難波を歩いていたら「恐竜科学博」のポスターを見つけ、会場でトリケラトプスやティラノサウルスの化石を見てきた。年齢も45歳を過ぎると、社会の中でそれなりに人間と触れ合わねばならない。社会的存在であることは僕らの人生の「前提」ではあるが、人間と向き合うことの独特な疲労感は誰もが思い当たるだろう。恐竜の化石を見たり、家で飼育したカブトムシが生んだ幼虫をひたすら眺めたり、「人間以外」の存在に触れることで心を落ち着ける。
昨今の僕の研究課題の一つが折口信夫であるが、折口の民俗学的研究は自然の中に広がる超自然的世界を対象とする。人文学は人間の作り出した世界を探究するものであるが、生身の人間から離れることは僕らの研究と矛盾しない。
アンヌ・フォンテーヌが『ボレロ』で描くのは、「世界」の表象を企図したラヴェルが「人間」に絡め取られ、精神を崩壊させる過程だ。言うまでもなく映画が描くラヴェルの人生は虚構に他ならず、僕の分析もフォンテーヌの作品世界を対象としている。2023年の作品に描かれる人間の対立は、そのままミレニアル世代と旧世代、暴論をぶつけるなら「令和vs昭和」を描き出す。
フランスを代表する名曲「ボレロ」は、20世紀初頭の機械工場のリズム性が背景となる。ここにおいて機械は新たな世界の象徴であり、重ねられるフレーズが少しずつ世界を編み込んでいく。音楽を追究し、女性の幻影に追われながらも恋愛を遠ざけた人生を送るラヴェルは、自らの視点に基づきひたすら世界を描写する。
他方、世間はそのようなラヴェルの態度を「情熱に欠ける」と見做し、酷評を重ねていく。ラヴェルを見下す人間が重視するのは、わかりやすい恋愛と官能性だ。性衝動を芸術に発展させる試みは実例を引くまでも無いが、それは芸術の一側面を切り取ったものに過ぎない。バレエダンサーのイダ・ルヴィンシュタインは世界を「情熱」に還元し、スペインの血を引くラヴェルに官能的な作品を求め続ける。あたかも昭和トレンディドラマの恋愛史上主義、更に言うと昭和的な「女」の消費のごとく、ラヴェルに官能性を求め続けたイダは、機械のリズムの表象である「ボレロ」を官能的なダンスに転換する。その翻案が支持されることで、世間はラヴェル本人に「情熱」を付与し、他方でラヴェルの「世界」の表象は頓挫して、やがてその精神を病んでいく。
社会に身を置きながら人間から逃れることは不可能であり、僕らは他者との交流を前提として生きねばならない。だが世界は人間のみで構築されておらず、人間もまた官能性で完結する存在ではない。恋愛的なるもの、情熱なるものとの接触を人間的成熟と見做す暴力により、ラヴェルの探究は疎外される。しかし「情熱」と呼び変えられる衝動は、極めて動物的な性的欲求でもある。悪辣さ、狡猾さ、義理人情といった言葉で呼び換えられる「人間力」なるものの構成要素のいずれが真に重要なものか。
機械音の中に世界の創造を読み取るラヴェルの透徹した視点を未成熟と見做す態度、あるいは工場を一足飛びに共産主義に結びつける短絡さこそ、成熟さのふりをした幼児性ではないか。僕らを疲弊させるのは、大人ぶった幼児の暴力性に他ならない。その人間特有の攻撃性が幾重にも社会を覆っている。それゆえに僕らは人間が構築する社会に疲れ、人間以外の生物の行動原理の観察を繰り返す。古生物の化石に魂を震わせた僕にラヴェルほどの才能があったなら、今日が新たな音楽の誕生の瞬間だったかもしれない。
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