孤独のためのコスト
僕の日常は読書と映画鑑賞とスポーツ観戦で構成されているようなものだが、映画は他者との共同空間の中で個に向かう文化だ。自宅では子供の生活空間に映画が入り込む。それを割けるために映画館に行くと、そこは当然ながら他の客との公共空間だ。
『Perfect Days』はトイレ清掃員の穏やかな日常を描き出した静かな作品だ。だが作品の最終版で、近くの客が携帯電話を鳴らし、僕らの映画鑑賞は一気に断ち切られた。映画館では携帯電話やビニール音に迷惑することが多く、ありがちな迷惑行為の体験なのだが、本作品の抱える本質的な問題は「劇場内の携帯電話」と地続きだ。
主人公・平山の生活は、風呂無しの集合住宅に住み、トイレ清掃の仕事をこなし、行きつけの店で食事を済ませるという極めて単調なものだ。作中ではおそらく何度も繰り返されたであろう週間が淡々と描かれている。だがその生活は決して「繰り返し」ではなく、たとえば日差しが木の葉に反射する様子などは日々微妙に変化している。
僕の専門とするマルセル・プルーストの作品を支えるのは半過去の用法だ。過去の状態や週間を示す半過去は、過去をひとまとまりにし、日々の差異を消し去ってしまう。それにより習慣化された過去の日々が際立っていく。しかしその日常の中で、ともすると忘れ去られてしまいそうな出来事が、主人公の記憶を揺り動かす。その際にプルーストは単純過去を用いて出来事を語る。差異を消失させる習慣と、その中で生じるたった一度の出来事が織り込まれた物語は、我々の記憶の仕組みを体現するかのように進んでいく。
平山の物語は、半過去による均質化に抗うように、単調な日々の中の変化を描き出す。陽の光、風、雨といった何でも無い事象が、彼の生活に僅かな変化を与えていく。
このようなミニマルな生活は、情報が氾濫する大量消費社会においてしばしば憧憬の対象として描き出される。独身の非正規社員の日々を魅力的に描く『路傍のフジイ』のテーマも『Perfect Days』に通底するものだろう。
両作品の主人公たちの生き方は、町を歩けば知人に会い、四六時中チャットアプリで会話をし、子供を介して様々なコミュニティに接続する僕の人生とは明確に異なっている。自らが情報と人間関係の只中で疲労を感じるときに、彼らのライフスタイルがオルタナティヴなものとして迫ってくる。独身で家族を持たず、コミュニティから切り離され、徹底的に個として町に埋没する主人公たちは、独特な魅力を内包していることは事実である。
だが両作品は小さな矛盾を内包する。それは、主人公たちのライフスタイルが他の価値観に生きる他者(=女性)によって評価されている点だ。平山の人生は姪のニコや居酒屋のママによって肯定され、フジイは会社の同僚である石川の視点で好意的に受け取られる。現代の消費社会を生きる女性が介在することで、主人公たちの独特な人生はマスの評価へと接続される。言ってみれば、家族を持たず、欲望から遠ざかるミニマルな生活は、消費社会における女性の理解というフィルターを経て承認されるのだ。
『Perfect Days』における平山は、女性からの承認を得ることで喜びの顔を浮かべ、馴染みのママの恋愛を目撃しては失意に浸る。フジイの社会生活は、美人の同僚である石川の介在によって少なからぬ支持を受け、気安いものへと変化する。人間関係から切り離されようとしても、僕らは必ず他者と関わらねばならい。人間関係から逃れた彼らが気を許す数少ない親密な人間は、コミュニティの複雑な網の目の中に存在する。結局人間とのつながりを捨てられない僕らは、携帯電話から自由になることはできず、映画館の中に外からのつながりが介入し、メロディが鳴り響く。
ミニマルなライフスタイルの落とし穴は、彼らが捨て去った「煩わしさ」を誰かが引き受けているという事実だ。自分がどのような場所を選び取ろうとも、その場所は複雑な人間関係を経て構築される。自らが抱える膨大な人間関係に疲弊しながらも僕が現状から遁走しない理由は、どうやらその辺りにありそうだ。