幸福に隠蔽された自己愛の問題
北国で生まれたことで、つねにアイデンティティは「周縁」に向かう。プルーストという世界の中心で存在感を放つ作家を研究していようが、自己認識は地方民であり、中心から遠く離れたところで生きている感覚がつきまとう。青森出身で全国的な知名度を獲得する一部の際立った才能も、作品を紐解くと「周縁」との関係が色濃く読み取れる。
原田マハ『板上に咲く』は棟方志功の妻チヤの視点で語られた物語だ。
昔から棟方志功の作品が好きだったので、本書を手に取ってみたが、残念ながら僕の求めている物語ではなかった。「周縁」から生まれた版画家は、柳宗悦にその価値を認められるまで貧困に喘ぐ。チヤは棟方を信じ、生活を切り詰めて、その活動を支えていく——言ってみれば内助の功の物語である。夫が作品を認められ、上昇気流に乗る中で、家庭を支えるチヤの物語は「妻が夫の才能を信じていた」という類型であり、それは「希有な才能を見抜く自分」を特別視するものでもある。世界で評価される棟方が大切にしたのは、版画ではなく妻である——これまで偉人の妻を描く時に何度このクリシェが繰り返されただろう。
むろん原田の作品が改めて棟方の特徴を表出している点は確かであり、僕はこれを機にいくつか画集も手に入れた。その意味において僕は本作の評価をあくまでも「Not for me」ということに留めておきたい。ただ、夫を支える妻の物語が令和に再生産され、それが妻の「自分がもっとも芸術を理解し、かつ夫に愛されている」といった自己意識の確認によって幕を閉じている点には、それ相応の問題も潜んでいるように思うのだ。
妻を愛する棟方と、才能を信じるチヤの物語に対し、マルタン・プロヴォ『画家ボナール』の夫婦の表象はまったく異質なものである。この作品を接続することで、『板上に咲く』の抱える本質的な問題が可視化される。
恋人マルトの官能性を描きながらも、美術学生ルネを囲うピエール・ボナールの物語は、人間のコミュニケーションの不可能性をえぐり出す。ボナールは入浴中のマルトの絵を好んで描く。この行為はいわば芸術を通じた女性の所有だ。
ボナールの「世界」におけるマルトは、ボナールが生み出した幻想の存在であり、実際の人間とは異なる。ボナールが恣意的にマルトの所有を試みても、他者として存在するマルトはボナールに絡め取られることがない。ボナールの欲望が他の女(ルネ)に向かうのは、人間としてのマルトを十分に認識していないゆえのことである。ここにおいて芸術に還元し得ぬ人間(チヤ)を求める棟方と、人間(マルト)を芸術に還元しようとするボナールは対極に置かれるかに見える。
マルトのもとを離れ、ルネとの生活を始めるボナールは、その生活に限界を認め、ミューズとしてのマルトを再び求める。ここにおいて二つの異なる人間は夫婦として安定を試みるが、その関係性は年老いたマルトの痴呆症によりまた困難へと投げ出される。芸術を媒介としても、他者を自己のうちに所有することは不可能であり、夫婦生活においても他者は他者として立ち現れ、コミュニケーションは一方的なものとならざるを得ない。
ボナールとマルトの問題を概観した上で、棟方とチヤに改めて目を向けてみる。夫の芸術を理解し、その愛を確認しようとするチヤの試みは、世界的な版画家である夫の所有と言い換えられはしないか。内助の功に支えられる夫婦愛は、対極的存在であるボナールの利己的な愛と皮肉にも呼応関係に置かれる。芸術と自らを天秤にかけ、自らを選び取らせようとする自己愛が、幸福の内側におぞましく蠢いている。僕が本作に感じた違和感は、おそらくこの点にあるような気がする。