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「強くあらねば」を捨てることで、セクハラおじさんはいなくなるかも知れない

人生で一度だけ、水商売と呼ばれるアルバイトをしたことがある。
今から20年ほど前、大学生だった頃にした『パーティーコンパニオン』という単発の仕事である。

ホテルや料亭などで開かれるパーティーに呼ばれ、お客さんに料理を取り分けたり、お酌をしたり、時に歓談したりしながらおもてなしをする仕事である。

当時同級生が何人かそのアルバイトをしていた。
彼女たちは口をそろえて、
「とても楽な仕事。その上時給がいい」
と話していたので、私も友人の一人に紹介してもらい、1日だけ現場に入ったのである。

何のパーティーだったのかは分からないけれど、大広間で行われる宴会で、着物を着てお酌をした。

お酒をつくったこともなければ、ビール瓶のふたを開けたこともなく、始まる前に簡単な説明を受けただけ。

そんな状態でぽーーんと現場に放り投げられたものだから、客席を回っているときはもたついた。

「慣れてないの?初めて?」

などと客にからかわれながら、まごまご給仕をしていたときに、とある客に言われた一言を時々思い出す。

「こんな仕事してて親御さん、悲しまない?」

当時レストランのホールスタッフのアルバイトもしており、食べ物や飲み物の給仕をすることに対して水商売という自覚もなく、その延長くらいのノリで臨んだアルバイトだったので、そんなことを言われることにそもそも驚いた。

それと同時に腹立たしくもあった。
こんなにあからさまに、女性を、水商売を見下している人がいるんだと思った。

たしかに同じ仕事をしていた友人の中には、たまにボディタッチをされるなどのセクハラを受けることもあると話していた子もいた。
けれどそれを話すときの口調はあっけらかんとしていて、
「むかつくよなー!!!」
と明るく怒っていた。

そんなことで傷ついていられない、というようなたくましさが彼女にはあった。

『限界から始まる』上野千鶴子/鈴木涼美

そんな私と同年代の文筆家、鈴木涼美さんと、社会学者上野千鶴子さんの往復書簡、『限界から始まる』を読んだ。
私は鈴木さんの、彼女の生きてきた時代を象徴するような視点が好きで、その著作をよく読んでいる。

※過去に書いた書評記事はこちら

鈴木さんは、元AV女優。
慶応義塾大学、東京大学大学院を経て日本経済新聞社記者となったという異色の経歴の持ち主だ。

高校生の頃からブルセラショップで小銭稼ぎをし、AV業界に身を置いてきた彼女は、男性をむしろあきれたような気持ちで見下ろし、
「男に対して持つ価値を利用しているつもりになっていた」
という。
そして性的搾取を受けてきた被害者と扱われることへの抵抗感(むしろ利用していたのは自分たち側であるという感覚)について言及している。

それに対して上野さんは、それは「ウィークネスフォビア(弱さへの嫌悪・弱いと認定されてはいけないという強迫観念)である」と指摘する。


この「弱さへの抵抗感」「強くあらねばならない」という感覚は、鈴木さんはじめ私たちの世代には比較的色濃くあったのではないかと感じる。

鈴木さんが別の著書でも記していたが、90年代J-POPに登場する女性たちは、皆強い。
可愛さよりもかっこよさ、自立した女性の強さを希求するような歌詞が多い気がする。


コンパニオンのアルバイトでセクハラを受けても、あっけらかんとしていた友人のニュアンスは私も少し分かる。

こんなことでめそめそする弱い女だって思われたくない。
馬鹿にされたくない。

そんな気持ちは、私にもどこかにある。
それは10代20代を過ぎて30代になっても続いていて、妊娠・出産・子育てを言い訳にしたくない、男性とも対等に肩を並べてキャリアを積んでいきたい、みたいな気持ちにもつながっていった気がする。

つわりで1時間に1回はトイレに駆け込んでいても、休むものかと歯を食いしばって出勤していたし、子どもが発熱してもなんとか病児保育の予約を勝ち取って出勤しようとしたし、なんというか、常に戦闘モードだったのだ。
常に走り続けて向上していないと認めてもらえないような感覚で、ただただ走り続けてきたように思う。

でもそうした捉え方をしていなければ、やり過ごせない状況に女性は置かれてきたのではないかと二人は語る。

上野さんが鈴木さんにかけた
「痛いものは痛い、とおっしゃい」
という言葉は、性別に関わらず、そのまま現代を生きるすべての人にかけられるべき言葉ではないかと思う。

鈴木さんが「私よりもっと賢く若い女性たち」と形容する年下の世代たちは痛いものは痛いのだと、発信するようになり、被害者であることを受け入れているとされている。

コンプライアンスが声高に叫ばれ、私の周囲でも
「敏感になり過ぎだ」
とか、
「コンプラのせいで最近はテレビが面白くない」
といった声も聞かれる。

鈴木さんも、本書の中で
「コンプラに配慮してとりあえず中身もなく謝ることに何の意味があるのか?」
といった問題提起をしている。
それに対し上野さんは、ホンネの部分は変えられなくても、タテマエを変えていくことの重要性を訴えている。


韓国の法社会学者 ホン・ソンス氏は著書『ヘイトをとめるレッスン』の中でこう語っていた。
禁止や規制ではヘイトはなくならない。
偏見・差別と思われることに対して、見て見ぬふりをせず、おかしいと声を上げることで、ヘイトすることが憚られ、ヘイトをする側が孤立するような社会を作っていくことが重要であると。


強くあろうと必死で辛いことに耐えることももちろん大切だ。
しかし、辛いことを辛いと。
痛いことを痛いと。
嫌なことは嫌だと。

そう声をあげるだけでも、社会が優しく、生きやすいものになっていくのではないだろうか。

本書のタイトルは『限界から始まる』
鈴木さんが『限界』に込めた意味については本書の冒頭でも語られているけれど、辛い・痛いと感じる自分を見て見ぬふりをしないで、「限界だ」と伝えることで社会が変わり始めるという意味も込められるのではないかと感じた。

無理に戦わず、強くあろうとせず、ありのままで気持ちを発することに、大きな意義があると信じたい。

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