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【読書録】宇野常寛『庭の話』とアシタカ
帯の推薦文にあるように國分功一郎『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』の文脈にあるということで手に取る。以下の自己解説テキストを参照しながら読んだ。全14章。
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1〜5章:相互評価のゲームをいかに内破させるか
「家」族から国「家」まで、ここしばらく、人類は「家」のことばかり考えすぎてきたのではないか。しかし人間は「家」だけで暮らしていくのではない。「家庭」という言葉が示すように、そこには「庭」があるのだ。
1~5章は「庭」というキーワード/概念について説明する導入部。理路は整然としていて面白いんだけど、読みながら常に「それってSNSでの相互評価のゲームや金儲けより恰好良くて楽しいのか?」という疑念がつきまとう。書店員時代に飛ぶように売れるのを見届けてきた斎藤幸平『人新生の「資本論」』(集英社新書;2020)の方が「大衆を巻き込んでやろう」とアジテートする魅力に溢れていた。
しかし、「プラットフォームの時代を内破することを考えたい。それが本書の主題だ」(p40)、「本書が「庭」の比喩で考えていくプラットフォームを内破するために必要な環境とは何か」(p106)と、「庭」という概念によってプラットフォーム(またはその時代)を「内破」する方法が後半に提示されることが示唆されているので、期待しながら読み進める。
いま、出現しつつあるのは言わば人びとが社会を物語としてではなくゲームとして把握する世界だ。古いたとえを用いれば、かつての近代人は世界と自己の関係を「政治と文学(物語)」としてとらえていた。しかし今日を生きる現代人はそれを「市場とゲーム」としてとらえている。
現代社会を端的に表している一節。そして前者は「丸山眞男的な人間観」、後者は「吉本隆明的な人間観」らしい(p130)。
「市場とゲーム」から距離を置く「庭」的なものの具体例として「ムジナの庭」や「ラ・ボルド病院」が紹介されるが、「庭」という概念はまだ弱々しく映る。ムジナの庭やラ・ボルド病院の患者は自分たちから進んで(または誘惑されて)その環境を選んだわけではないだろうし、フラットで「コレクティフ」なようでいて、実際には「庭師」の善性に頼った哲人政治ならぬ「哲人作庭」に頼っているのではなかろうか。もちろんこの辺りの弱さは宇野も自覚しているようで、「相互評価のゲームのもたらす承認の交換の快楽よりも強く人間を誘惑する必要がある」(p93)と述べている。
「動いている庭」という概念で、また書店員時代を思い出す。年間に約7万冊弱が出版され、自動配本されてくる大型書店はまさに「動いている庭」だ。毎日出勤している書店員ですら、担当するジャンル以外の本は把握しきれない。
当時の同僚と「(Amazonを競合/比較対象として)書店のどういったところを強みとして押し出すべきか」とたびたび話しあったが、いつも最終的には「知識でカバーできる範囲の提案と展開は行いつつも、お客様に偶然性(またはセレンディピティ)を提供する場として愚直に棚を整理し、売り続けるしかない」というところに落ち着いた。これは「多自然ガーデニング」的だと思う。
書店ではなく古本チェーンだが、p97あたりで展開されるBOOKOFFと偶然性のくだりは大いに共感した。
思い返すと自分が「書肆あわい」として2017年から2019年まで出品していた居留守文庫の「みつばち古書部」は、経済的にも古書店としての美学的にも非常によくできたシステムだった。(居留守文庫の店主さんにはお世話になったと同時にたくさん迷惑もかけたので頭が上がらない)
「PASSAGE by ALL REVIEWS」や作家の今村翔吾さんの「ほんまる」など同様のシェア型書店が流行ってきてはいるが、どこも棚貸し料金が高く「みつばち古書部」ほどのwin-winな持続可能性を感じない。以下のような記事も見つけた。
最近見た出版区の企画でゲストの平野啓一郎も偶然性に言及していた。レコメンドシステムやAIに偶然性まで演出される今、偶然性とどう向き合うかは重要なイシューなのだろう。
フィルターバブルの弊害とか、AmazonやNetflixのリコメンドではなかなか自分を広げてくれる固有名詞に出会えないとか、そういう批判はよく聞きますが、その対応策がより閉鎖的でローカルな共同体や、個人経営の書店であるとは、僕にはどうしても思えません(それって、より狭い事物の生態系に閉じ込められるだけでは……?)。
noteを含むネット上では、意識が高いコンサルの「新刊偏重の大型書店は既刊の良書の掘り起こしをなぜしないのか」「独立系書店に倣うべき」といった主張をときおり見かけるが、的外れな指摘だと思う。これらは要するに「浪費ではなく消費をさせる書店になれ」ということだ。
独立系書店は、「庭」の喩えで言うなら啓蒙主義を背景としたバロック庭園のように、店主の思想によって統制されすぎていて面白みに欠ける。(ただ妻は蔦屋書店や独立系書店で良書と出会うことが多いようだし、どれくらいの頻度で書店に足を運ぶかといった個々人の条件にもよるのだろう。)
だから大型書店を維持するべきだ、というのは理想論でしかない。が、そろそろSNSというプラットフォームを見限った人々が集う「庭」としての大型書店へのバックラッシュが起きてほしい。
6章7章:自信を喪失する「庭」とアシタカ
6章からは「庭」の概念と國分功一郎の書籍との接続が試みられる。最も知的興奮が大きかった章。
移動した環世界のなかで事物そのものに対し直接的に、そして深く触れることでむしろ「浪費」に失敗すること——その結果として、その事物の理想像が自己の内面に生じ、まだ世界に存在してもいないそれを渇望するようになること——これが、「制作」への動機づけの条件だ。
『暇と退屈の倫理学』で提示される「消費」から「浪費」へという提案を、著者はさらに押し進めて「制作」へ昇華させる。ラーメンや同人誌での二次創作の喩えが分かりやすい。しかしどれだけの人がその境地まで辿り着けるだろうか。そしてやはり「制作」に向かうには(本書で比喩的に挙げられる)「夕方」(p241)だけでは足りず、『暇倫』で主張されるように「労働日の短縮」は必須条件になる。
プラットフォーム上に自由意志は存在しない。そしてプラットフォームのユーザーたちは中動態の世界を生きている。正確には中動態の世界だからこそ発生する自由を生きている。少なくとも人間に自由意志が厳密に存在できないことを前提に、そこは設計されているのだ。そこでは法的な責任は常に曖昧となる。
7章では、SNSというプラットフォームを利用するユーザーたちは図らずも中動態の世界を生きているという議論がなされる。ただ、そもそも『中動態の世界』では人々が「中動態の世界で生きるべき」といった主張をしていただろうか。人は本質的に中動態的で自由意志がないからこそ、「責任」の開始地点としてそれを引き受け、主体である自身を「意識」しようという話ではなかっただろうか。
以下の一節を読書ノートにメモしていたが、一部を記録/記憶しているだけなので何かを誤読しているかもしれない。そして貸出中なので読み返せない。
選択は無数の要素を受けざるをえず、意識はそうした要素の一つに過ぎないとしたら、意識は決して万能ではない。しかしそれは無力でもない。
意志という絶対的な始まりを想定せずとも、選択という概念——過去からの帰結であり、また、無数の要素の相互作用のもとにある——を通じて、われわれは意識のための場所を確保することができる。むしろ意志の概念を斥けることによってこそ、意識の役割を正当に評価することができる。
ここで以下の一節から「あるキャラクター」が喚起され、本書の読み方が変わっていく。
人間は背景の因果関係が隠蔽されたまま、事物に襲撃されなくてはいけない。(略)
そこでは事物が一方的に人間へコミュニケーションを取り、かつ人間がその影響を不可逆的に受けることが求められる。つまり、人間はそこで一時的に、完全に受動的な存在にならないといけないのだ。その受動性は人間に回復不能な「傷」を与え、そしてその「傷」によって人間は制作に動機づけられる——これが制作者への「変身」のメカニズムだ。そしてこの段階では、人間の受動性は能動性に反転している。
自分はこの「襲撃」「受動的な存在」「傷」という言葉から『もののけ姫』のアシタカを想起した。誤読というより積極的な曲解かもしれない。彼の生き方はもしかして本書の志向するところに非常に近いのではないか?と。以前読んで強く心に残っている評論が…と引用するために本を開いたところ、それも宇野の著したもので驚いた。
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公開当時から度々指摘されているが、本作におけるアシタカは状況に対して能動的にコミットすることがほぼなく、あくまで周囲のプレイヤーのアクションの結果発生した事件に事後的に対応するだけの主人公だ。物語の結末で、ただサンとエボシ、森とタタラ場、ふたつの立場を守り、調整することを宣言するアシタカの姿に驚愕した観客も多かったはずだ。彼の目的は「曇りなき眼で世界を見ること」であると作中で明言され、これはおそらく本作のコンセプトそのものである。
書店で働いていたときも今の校正の仕事でも、どこか自分をアシタカと重ねていた/重ねている。積極的に店頭販売をするわけでもない。自身で新たな表現を生み出すわけでもない。ただ受動的に全力を尽くす。『もののけ姫』という作品とこの宇野の『もののけ姫』(アシタカ)評は、自身の生き方に大きな勇気を与え続けてきた。(宇野の評論であったことを再読するまで忘れていたが)
決定的な「傷」を受け「変身」してしまったアシタカはしかし、「制作」する暇を与えられない。彼がもし村に残ることを許されていたなら何をしていただろうか。きっと自身の死後に残された村やそこに暮らす人々のためを想い、永続的に残る何かを「制作」していたことだろう。
また『現代思想一〇月臨時増刊号 第五一巻第一三号』(青土社)では宮﨑駿の映画『君たちはどう生きるか』において主人公が「飛ばない」ことについて数々の批評家が検討しているが、ジブリの地を這うことしかできない主人公代表であるアシタカのことも今一度検討し直した方が良いかもしれない。
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この『現代思想〜』では、「飛行」「食事シーン」「ロリコン性」について語られることの多いジブリ作品の映像の変換群には「庭」というモチーフもある、と山内朋樹(美学/庭園論/庭師)が書いていて、「庭」がどのような意味をもってどう描かれていたか改めて観直したいと思った。
勝手に本書の志向とアシタカを結びつけて興奮しているなか、「承認の交換の快楽を相対化する必要がある」(p148)と、前半で標榜していた「内破」から「相対化」へと勢いが少しトーンダウンする。
8〜10章:「庭」の断念
8章から10章ではオルタナティヴな共同体を作り出す「だけ」ではプラットフォームへの依存を悪化させると警鐘を鳴らす。
刊行当時センセーションとなった斎藤幸平の『人新生の「資本論」』に対しては、未来への危機感は共有しながらも、コモンズを管理する共同体の運営というのはかなり難しいのではないかと感じていた。同様の感想を抱いた読者は多かったのか、実践編にあたる『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』(KADOKAWA)の売り上げはあまり芳しくなかった。
共同体とプラットフォームの共犯関係を指摘しながらも、「ゲームから完全に離脱することこそが、もっとも必要なのではないか」(p241)と、前半での「内破」→中盤での「相対化」→後半では「離脱」と、ここに至ってSNSプラットフォームへの「庭」での対抗は諦めムードが漂ってくる。
回復すべきは「共同体」ではない。むしろ対幻想や共同幻想から切り離された「個人」なのだ。そして個人が個人としての時間を与える「交通空間」なのだ。
しかし私を含め、多くの人々はその状況を望まないだろう。なぜならば、一般的にその状況は「戦争」と呼ばれているからだ。
ここで「庭」によるSNSプラットフォームの「内破」は完全に断念。簡単に言えば「スマホを手放そう」的な解答が提示され、完全な「庭」の条件を備えた状態は「戦争」しかないという結論に辿り着く。
11章〜14章:開き直る「庭」
11章では「庭」の条件が最も達成されるのは「戦争」状態であるが、そんな状態は望むべきものではなく、また著者自身も「戦争」とは異なる「庭」が必要だとしつつも、「庭」を設けることでプラットフォームが引き起こす問題に対抗することは不可能であると「あっさりと認めて」(p286)しまう。
(「そなたは美しい」と伝えることによって、この「戦争」を希求する女を一旦でいいから対幻想に引き込むことはできないのだろうか……笑)
実空間における「庭」についてはいくつか例示があったが、サイバースペースにおける「庭」(それこそが「内破」の鍵になるのかと思っていた)がどういったものなのか触れられないまま「庭」の存立が諦められてしまったことにもここで気付く。この辺りから自分の本書への期待感がだいぶ萎んでしまい、きちんと読めていない。
12章では実践的な取り組みが語られるが、斎藤幸平における『ウバ鹿』のような感じがして身が入らない。
13章では糸井重里とほぼ日が吉本隆明の系譜として槍玉に挙げられているが、そもそも糸井に吉本隆明ほどの影響力を感じないし、ほぼ日はWebメディア/ECサイトであってプラットフォームではない。文化人的な側面はもちろんあるだろうが、一世を風靡した一経営者が藁人形にされているように感じた。
「作庭」によって、つまり現代の交通空間を再構築することだけで、問題を解決すること——「制作」を基盤にした公共性を構築すること——は不可能だ。もはや議論は、「庭」という場所ではなくそこに訪れる人間たちについてのものにならざるをえない。
14章でアーレント『人間の条件』を引用し転倒させ、「制作」を促す形で本書は幕を閉じる。
今この見出しを11〜14章:開き直る「庭」にしてふと感じたが、「開き」「直る」というのはものすごく「庭」的な動詞では?「開き直り」は「庭」の放棄というよりむしろ、まさに「庭」的な態度なのかもしれない。
総評:庭・アシタカ・彫刻
「庭」という概念を組み立てていくことによってSNSのようなプラットフォームをどう「内破」するのだろうかとワクワクしながら読み進めたので、少し拍子抜けな読後感だった。
アシタカにできるのは、ゲームバランスが崩壊しないように微調整を続けることでしかない。ゲームシステムを改善することもなければ、ゲームそのものを放棄できる環境をつくることもしないし、できない。世界を肯定的なものに変えることが、ここでは前提として断念されているのだ。
宇野も『庭の話』も、まるでアシタカではないかと思った。しかしやはりこの「調整」≒「永遠の微調整」(中島岳志)こそが市民に残された世界を正気に保つための希望だと言う気もする。
拍子抜けとは言ったが、本書で提示された「庭」「制作」「弱い自立」といった概念は、普段から「自身の状態は該当しているか」、または「していない場合はどうしたらそちらへ向かえるか」を意識するだけで、(社会を変えることはできなくても)個人の生活はとても清々しいものになると思う。
(「庭」で「制作」をしながら「弱い自立」をする自分を、「承認」してもらったり「優しい語り口」でブランディングして商品として流通させたくなる欲望に抗うのは大変そうだが。)
今年に入ってXのゲーム交流用アカウントとInstagramからログアウトした。どちらも共同幻想というよりは対幻想を重視した利用だったし、結局新たにmixi2やnoteを始めてリアクションや「スキ」をもらえるとちょっと嬉しかったりするので、もう少しプラットフォームとの距離感や自身の「庭」作りについて考えていきたい。
そのほか、13章で挙げられた「公共」については小田原のどか『近代を彫刻/超克する』(講談社;2021)での指摘を思い出す。
彫像は公共を立ち上げる装置として利用されてきた。だからこそ移り変わる政体とともに「われわれ」なる共同体のうつろいやすさを映す鏡となる。
「公共絵画」とも、「公共工芸」とも、「公共写真」とも人は言わない。しかし、「公共彫刻」と人は言うのである。それを見る者たちとその時代を鏡映しにするものが彫刻なのだ。
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「庭」を考える際には、共同体を物理的に囲い込む「施設」「建築」ではなく、開かれた場を「公共」とする「彫刻」についても検討した方がよさそう。しかしサイバースペースにおける「彫刻」とは?
最近知って近所で開催されていたら参加してみたい「サイレントブッククラブ」は少し「庭」的な取り組みかなと思ったし、「まちライブラリー」に近いものを展開しようと画策している。そういった取り組みの思想的骨子として本書を棚に鎮座させておこうと思う。