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20世紀美大カルチャー史。「三多摩サマーオブラブ 1989-1993」第11話

我々三人は夜中の関越自動車道を爆走した。

相変わらず、その時点では私はどこに向かっているのかは知らなかった。

ただいつも「面白そう」と付いて行くだけである。

深夜、山の中のどこかの駐車場に車が止まった、ここで仮眠を取るらしい。

私は後部座席で爆睡した。

暫くすると、二人が起き出し、私も起きて三人で外に出た。

周りは山に囲まれ、脇に大きな川が流れていた。

「行くぞ!」

私は二人に付いて行った。

河の脇を歩いて行くと、「アレだ!」とコヤマが言った。

河原のど真ん中に湯気が立っている。

その周りを石で囲ってあるようだ。

我々は、朝っぱらから、誰も居ない河川敷のど真ん中で全裸になり、石で囲った温泉に浸かった。

深い場所は胸まで浸かるほどあった。

途中、河川敷の脇を小学生の集団登校が歩いてきたので、全裸のまま手を振った。
田舎の無垢な小学生たちは笑いながら手を振り返してきた。

「どうよ?尻焼温泉!」(※1)

「いや、ヤバい!」と三人は全裸で爆笑した。

さて、ひとしきり温泉にゆっくりと浸かると、次の目的地に向かうようだ。

再び関越自動車道に乗ると、「新潟」という看板が目に飛び込んできた。

一般道へ降りると、日本海沿岸を走った。
生まれて初めて見る日本海は、太平洋側とは反対の太陽の逆光で真っ黒に見えた。

その寒々として風景に、
「やべえ、ジョージ山本がふんどし一丁で太鼓叩いてる姿が見える!」
と皆で爆笑した。

新潟の海にて。筆者の左目にはダイブを喰らった青タンが出来ている。

最初に着いた先は「寺泊市場」、港の脇にあった。

そして、三条市へと向かった。

当時ブームになっていた「越乃寒梅」や「久保田」の酒蔵を訪問する旅程であった。

その途中に高校があった、校門の名前を見ると「新潟県立三条実業高校」。

私は「おい!ここ、ジャイアント馬場の母校だぞ!」と叫んだ。

校門前で車を止めると、三人で「逆水平チョップ」や「16文キック」のポーズで記念写真を撮った。
その姿を見た女子高校生たちが校舎からキャーキャー声を掛けてきた。新潟のJKはフレンドリーなようだ。

そして酒蔵を周ったのだが、相変わらず当時の私はそんなものにも興味は無く、なんとなく森田公子へのお土産の日本酒だけ一本買った。

そのまま新潟市内へ入ると、まずは「バッティング・センター」を探した。

当時の我々には「バッセン」ブームが訪れており、行く先々でバッティングをしていた。

新潟駅の近くでバッセンを見つけ、軽く打った。

我々の後ろで、なんやらずっとブツブツ呟いているオッサンがいたので、「新潟のノムさん」(※2)と名付けた。

そしてそのまま、駅から近くのお目当ての新潟海鮮料理の店に向かった。

やや高級割烹風の店内で、我々は個室の座敷に通された。

そこから、お任せで次々と新潟の海鮮料理が登場した。

我々は、一口食べるたびに「美味ええええええ!!!!!!」と絶叫し、
誰が一番大袈裟に表現できるか!?を競うように畳の床を転げまわった。

生まれて初めて食べる新潟の海鮮は驚異的であった。

そして、お会計の段になると、お店の女将が巨大なタラバガニを2杯我々にくれた。

お会計は一人6~7千円くらいだっただろうか。

超絶美味い飯を食ってご機嫌の我々は、店の前でもらった巨大なタラバガニを顔に当てて、「エイリアン!」と叫びながら記念写真を撮った。

映画『エイリアン』へのオマージュ。

後から分かったのだが、明らかに他県から来た若き我々が、あまりに「美味い!美味い!」と絶叫したので(恐らく店中に響き渡っていた)、気をよくしたお店がカニをプレゼントしてくれたようである。(筆者註:さらにそれから数年後、プロカメラマンになっていたハルノが、ロケで同じ店を訪れたところ「一人数万円」のお会計だったとのこと。つまり、お会計も超ディスカウントだったのだ。新潟の人は良い人である)

新潟の美食に興奮しながら、我々は宿泊先のサウナに到着した。

いつもの様に大浴場に浸かり、サウナをキメてから仮眠室でグッスリ眠ると、翌朝、ロビーに集合した。

ロビーのソファに座っていると、ハルノが叫んだ、

「おい!優作、死んだぞ!」

私は「映画の役の話」だと思って流していると、なんと、本当に松田優作が死んでしまったようである。

三人でビックリした。それまで、そんな予兆も情報も全く流れてなかったからだ。

1989年11月7日の朝の出来事である。

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リドリー・スコット監督『ブラック・レイン』

我が人生に燦然と輝くナンバー1映画。

1954年、『七人の侍』公開時に銀座の東宝映画館の周りとグルリと観衆が取り囲んだように、映画の醍醐味も「時代と寝る」ことにある。

そして、この1989年という「時代」は『ブラック・レイン』という映画によって最終確定した。

1989年の11月、すでに公開されており、そして優作の「遺作」となった、『ブラック・レイン』を、我々は遂に、遂に観たのである。

優作は元より、裕也さん、ガッツ、パチパチパンチ、力也さん、、、全員がキラキラと光り輝いていた。

むしろ、設定上の主役であるマイケル・ダグラスと健さんが割を食ってしまうほどであった。

そして、若山富三郎は「神」であった。

さらに、舞台となる大阪の街はまるで「夢の国」、デッカい黒いネズミが居るところよりも、数億倍、否、数兆倍の圧倒的な魅力を放っていた。

「こんな刺激的な場所はない!」

あまりに当然すぎる帰結であるが、我々は即座に「大阪行き」を決めた。

その年のクリスマスを森田公子と過ごした私は、大学が冬休みに入ると同時にハルノとコヤマと八王子で合流した。

八王子には「大阪に実家のある」同級生のオオヤマが住んでおり、彼の帰省に合わせて計画は決行された。

真夜中に中央高速八王子インターに乗った我々は、深夜の高速道路をぶっ飛ばした。

車中は、ひたすら『ブラック・レイン』の話である。

そして早朝、大阪に着いた。

オオヤマはそこから電車で八尾にある実家に一旦戻り、我々とは夕方に合流する手はずとなった。

こちらのいつもの三人組は、さっそく大阪のサウナへと直行した。

三人で露天風呂に行くと、湯気で真っ白な空間に朝陽が逆光となって差し込んで光っていた、「ブラック・レインだ、、、」と我々は口々に叫んだ(筆者註:優作の組事務所にガサ入れするシーンである)。

道頓堀橋の上に来たら「コレデ、パンデモカッテ、、、」。

そして、道頓堀の橋のたもとにある「キリン・ビル(高松伸設計)」を見ると「クラブ・ミヤコだ、、、」。

「クラブ・ミヤコ」にて。

十三の街を歩けば「水撒け!水!」と叫んだ(筆者註:リドリー・スコットの「十八番」は、常に地面が濡れている絵作りである)。

もう世界のすべてが『ブラック・レイン』になっていた。

そんなうちに夕方になり、オオヤマに連絡すると、「オヤジが飯おごりたいって言ってる」とのことであった。

オオヤマ本人は、音楽好きではあるが運動神経は無く、痩躯の100%文科系の眼鏡くんであるが、ミナミの焼き肉屋に登場したオオヤマの父は、黒川紀章のような髪型に金の時計、ゴツいガタイにサングラスと「完全にその筋の人」であった(筆者註:八尾の「会社オーナー」とのこと、実際のところは知らない)。

父が放つ凄まじい威圧感と共に、我々は大阪の高級焼き肉店に入った。

若者に囲まれて、オオヤマ父はご機嫌であった。

私は小指があるか確認したが、一応、あった。

「ホルモンはな、よく火を通さなあかんで」

オオヤマ父から「正しい焼き肉の食べ方」のレクチャーを受けながら、我々は食いに食いまくった。

空いた皿は私の横に積み上げられていたが、床から70センチの高さにゆうに達していた。

大阪人が推薦する大阪最高の焼き肉をこれでもかと食い倒してたあと、オオヤマ父が一言、

「キミたち、小食やな」

我々はそのカッコよさにシビレた。

帰り際、「これで遊んできいや」と父はオオヤマに三万円程手渡した。

「オオヤマの親父さん、超カッコイイな!!」と我々は絶賛した。

そして、焼き肉をたらふく食って盛り上がりに盛り上がった我々は、

「金もある!よし!大阪と言えば、、、セ〇〇〇や!!!」

と大阪の夜の街に繰り出したが、

ここには書けない悲惨な結末を迎えることとなった。

さて、この日の夜は「オオヤマの親戚が経営する宿」に泊まる手はずになっていた。

我々男四人は車に乗って、その「宿」へと向かった。

暫く走ると、

「ここだよ」

とオオヤマが言った。

そこはいわゆる、「ラブ・ホテル」であった。

夜中に男四人でラブホテルの駐車場のビニールの暖簾をくぐっった。

オオヤマが受付に声を掛けると、部屋に案内された。

ガラス張りの浴室、そして寝室は二つのダブルベッドが真ん中でカーテンで仕切られていた。

「スワッピング・ルームだな」、我々は爆笑した。

そして翌朝、「明らかに怪しい男四人組」は車でラブホテルを出発した。

まず、「釜ヶ崎」を車で流した。

至るところに労務者のオッちゃんが溢れていた。

「おい、ウィンドウしっかり閉めてロックしろよ」と確認しあうくらい、物凄い緊張感だった。この年の夏にも、名物「西成暴動」が起きたばかりである。

向かう先は「天王寺」である。

車を停めて、我々は「新世界」へと足を踏み入れた。

まずは通天閣に上ると、次は「じゃんじゃん横丁」を流した。

横丁の入り口近くにある「弓道場」で弓を射った。

そして、じゃんじゃん横丁の名店「八重勝」で大阪名物「串カツ」を食べ、「二度漬け禁止」という言葉をこの時に学んだ。

オオヤマはこの辺りは初めて来るそうだ。

「大阪人はこの辺来ないよ!お前らの方が大阪良く知ってるよ!」と驚いていた。

そのまま歩いて再び西成近くまで下って、銭湯に入りひとっ風呂浴びた。

日が暮れてきたのでミナミへ移動し、レコード屋を漁った。

ハルノはDUBのレコードを何枚か買って、そして我々は「レゲエ・コーナー」で「張った」。

つまり、「レゲエ・コーナーに来るヤツはレゲエ好きだから、そいつに声を掛けてレゲエ・クラブの場所を教えてもらう」という手だ。

我々は地元の一人を捕まえると、「ねえ、レゲエ屋どこ?」と尋ねた。

我々はミナミの地下のレゲエ・クラブに入り、ひとしきり踊った。

こうして、1989年の年の瀬は過ぎて行ったのである。

脚注:

※1.尻焼温泉。「尻焼温泉は花敷温泉から800m奥に位置しております、その名の通り河原の中の底からお湯が沸き出してお尻が焼かれる様な感じから尻焼温泉と名が付きました、写真の通り川の一部分が全部温泉ですので巨大な自然の大露天風呂になっております」(公式HPより)

※2.「のむさん」こと「野村克也」。バッターに囁きかけて翻弄する「ささやき戦法」で有名である。ただし、長嶋茂雄には全く通用しなかったとされている。

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