【建築とJAZZ】 余計なことはするな!論。
あくまで個人的な嗜好の問題であるが、
何故、モダニズム建築までは許容出来て、モダニズム以降の現代建築は許容できないのか考えてみた。
いわゆる現代建築以降の建築デザインは、「風景」とか「自然」とか「共同体」とか「人間」とか「アルゴリズム」とか「現代思想」とかをモチーフにして「造形」をしている。
それは、モダニズム建築が「建築」をモチーフにしてきたことからの極めて安易な離脱ともいえる。
モダニズム建築は、そもそも日本古典建築に端を発しており、それがアメリカでフランク・ロイド・ライトによってリミックスされ、それがヨーロッパに輸出され、それから建築家たちは西洋古典建築をモチーフとするようになった。
ル・コルビュジェ然り、ミース・ファン・デル・ローエ然り。
建築家にとっては「建築をつくるのに建築を参照する」のは当たり前の話であり、「哲学」や「自然物」を建築が模倣するなんて発想はなかったのだ。
例えばアールヌーボーも、ディテール・デザインに自然物由来はあれど、建築自体は建築の姿をしている。
すなわち、「建築」は「建築」として存在しているから世の中に居場所が確保できているのだが、「建築」が「動物の形」や「社会のダイアグラムの形」をしていたら、「それは建築であることの放棄」であろう。
「山並みのフォルム」を引っ張ってきた「屋根」は、実際のところ「屋根」なのか「山並み」なのか分からない。
まるで「ヴィーガン・ミート」である。
では、現在の大量生産型商業ビルやハウスメーカー住宅はどうなのか?というと、これは一見「建築の形」をしているが、実のところは「お金」が「建築の姿を纏っている」。
「最大有効床面積×最大高さ×単価」がモチーフであり、「平面や立面のプロポーション」という「建築そのもの」は、「トッピングのドライマンゴー」くらいに扱われている。
あるいはハウスメーカー住宅ならば、「〇LDK」という「家族という固定観念」や「理想の家庭生活の幻想」がモチーフとなり、そこに「映像情報としての異国情緒建築風味」がトッピングされる(プロヴァンス風やブルックリン風とかの「イメージ」が貼り付けられる)。
この考え方は他の文化ジャンルにも転用可能であり、
例えば「ジャズ」はやはり「ジャズ」であって欲しいのだ。
「現代音楽」や、コロニアリズム的に「民族音楽」をモチーフとした「ジャズ風味」音楽を聴くとどうにも身体が拒絶反応を起こす理由は、「建築風味」のそれと同じなのだ。
唯一「それ」をやっていいのはマイルス・デイビスと磯崎新だけであろう。
その意味で、丹下健三は最後まで「建築そのもの」であった。
霊的で宗教的な意味合いの強度がマックスまで高まった「場所」に、純粋な「建築」を置いた「広島ピースセンター」。
そして、日本の寺社建築の軸組をコンクリ造でつくった「香川県庁舎」。
どちらも、フランク・ロイド・ライトからヨーロッパを経由したモダニズム建築が「本家」に里帰りしている。
これらは「建築」以外の何物でもない佇まいをしている。
「建築」は「建築」
「JAZZ」は「JAZZ」
それで十二分に凄いのだから、
余計なことはしなくとも良いのだ。