ローマ帝国とポルトガル(7)まとめ
00.はじめに
ここでは、ポルトガルの歴史についてお話しした際のメモ書きを公開しています。今回はローマ時代を扱った部分です。なお、メモ書きは、アンソニー・ディズニー著『ポルトガルとポルトガル帝国の歴史』に基づいて作ってあります(ほぼ翻訳になってしまっていて、反省ですが)。関心のある方は、Anthony Disney, A History of Portugal and the Portuguese Empire(2009)をご覧ください。
今回はこれまでの記事のまとめとなります。
ローマ帝国はポルトガルの形成にどんな影響を与えたのか
(1)~(6)で確認してきたことをまとめつつ、ここではローマ帝国が現在ポルトガルの形成にどんな影響を与えたのかを考えてみたいと思います。
さて、ローマ帝国は、これまで見てきたように、現在ポルトガルと呼ばれる地域に組織だった行政制度を導入しました。こうしたローマ帝国の統治は、ケルト人やフェニキア人、カルタゴ人の行ってきた政策、あるいはルシタニ族の社会構造とは全く異なっていました。統治という意味では、ローマ帝国の制度はこれまでになく整えられたものだったからです。
ローマ帝国は当時、ヨーロッパどころか、世界最強の国家であり、広大な領域を支配しました。そして、組織だった政策と制度をもち、地域国家の枠組みを超えた帝国となりました。それによって現在ポルトガルと呼ばれる地域は部族社会の枠組みを超えて、そうした世界帝国の文脈に置かれることになります。
したがって、現在のポルトガルと呼ばれる地域が、当時もポルトガルという固有の地域として、ローマ人、あるいは西ヒスパニアの住民が現在のポルトガルである場所をひとつの区切られた区域と認識していたのかは疑問です。
すでに見てきたように、ローマ領ヒスパニアは、中世のイベリア半島の政治的構図とは異なっています。
現在ポルトガルのほとんどはルシタニアの旧属州内に位置してますが、属州は現在のスペインとの国境の東に広がっており、ルシタニアの重要な地域は現在のスペインのエストレマドゥラにありました。
一方、ドウロ以北のポルトガルの領土は、最初は、キテリオール、そしてタラコネンシス、そして最後にガリシアに帰属していました。したがって、ローマ帝国領ルシタニアは現在のポルトガルとイコールにはならないのです。
では、ルシタニアがポルトガルのご先祖でないとすれば、属領ヒスパニアの管区や都市がご先祖だといえるのでしょうか。しばしば主張されるのは、パケンセス・スカラビタヌス・ブラカレンシスという三つの管区が、現在のポルトガルにつながっているという意見です。
しかし、実際にはパケンセスの管区の広さが偶然現在のポルトガル領の一部にかさなさっているだけで、これには全く論拠がないといわれます。また、属領が異なる管区を同じグループとしてまとめてしまうのも論理的ではありません。二つがルシタニアで、一つがガラエシアに属しているのです。したがって、ローマ帝国のなかで、のちのポルトガルと呼ばれる地域が意識されていたということを想像できません。
つまり、政体としてのポルトガルという概念は、ローマ帝国の支配によって生み出されたものではないということなのです。
しかしながら、ローマの支配がポルトガルの形成に与えた影響は非常に強力であったというのはまちがいありません。ローマ時代末までに、のちのちまでポルトガルを特徴づける地域ごとの人口密度や社会構造、あるいは地域経済の在り方が出現していました。
たとえば、都市の位置はほとんど決定されて、対照的な土地制度が南部と北部で確立していきました。また、辺境で話されていていた俗ラテン語がやがてポルトガル語に発展することになります。それから、ローマ型都市の建設によって、ローマ帝国の文化もポルトガルに広まりました。たとえば、最後に見たような信仰などはその最たるものでしょう。
つまり、ローマの属領はポルトガルの直接的な先祖ではなかったのですが、その社会はローマの影響を大きく受けました。これはのちにポルトガルが独立していく際に重要な役割を果たすことになります。
読書案内
青柳正規、2004年、『ローマ帝国(岩波ジュニア新書488)』、岩波書店クリス・スカー(吉村忠典 訳)、1998年、『地図で読む世界の歴史 ローマ帝国』、河出書房新社
フィリップ・マティザック(安原和見 訳)、2020年、『古代ローマ帝国軍非公式マニュアル』、ちくま学芸文庫
レスリー・アドキンズ/ロイ・A・アドキンズ(前田耕作監修)、2019年、『ローマ宗教文化辞典』、原書房