電脳都市と東京都内 僕は都内の狭い部屋に住んでる。じめじめとして日当たりも最悪だけど息をするには十分だと思う。 自分を卑下して孤独と向き合う事を止めたとき、本当の孤独の波が柔らかい心をざぶと攫っていく。それはどこにいても同じで、インターネットの中だろうと生活の中であろうと自分自身からはどうしたって逃げられないからだ。 暗い書き出しになってしまったけどこれは僕が僕自身の背中を摩り、宥めるためのオナニーnoteだから許してくれ…。 心はデータに乗って…顔も知らない仲間達 も
ふと、かごめかごめの中の「夜明けの晩に」というフレーズがどういう意味なのか知りたくなって調べると「朝早くから夜遅くまで」という様な意味だと書いてあった、ほんとかよ。私は勝手に「薄暗い夜明けが終わる頃の陽が登りきる瞬間」の事かと思っていて、その後に続く「鶴と亀がすべった」というのも二度寝の夢の中の話の様で、なんだか腑に落ちなかった。歌の内容全ての真意はどうでも良いんだがそのフレーズに関しては私のが叙情的である様にも感じてしまう。(偉そうでスマン) 良くある話で恐縮だが、知ってし
汗ばむ昼間から肌寒い夜へのフェードが次第に曖昧になりつつある。いつのまにやら気が付けば冬に片袖を通している。 この数週間体調が優れず、生活のフェーズごとに頭の中のもやもやが私の不規則な鼓動と共に、黒い雲の様な柔らかいほわほわから、立派なウニの様な凛々しさすら感じるトゲトゲに変わる。本来安らかであるべき枕上でのそのもやもやの生命体の胎動の激しさたるや、まだ連れ添うかもわからない想い人と視線が重なる瞬間のときめきと似た様にも感じる。そうキレイな言葉で包んでも、苦しさは苦しさでしか
真上の太陽が影を消し去り、どこもかしこもサンクチュアリー。早歩きの改札の疾走感はきっとEPOの『PAY DAY』のせいだろうが、あぁ…また目の前で電車が行った…いつもこうだオレは…。線路に吐き捨てられた黒ずんだガムさえも憐んでいるように見える。土曜のアヴァンチュールなどオレには訪れないのだから。 似過ぎている 親愛なる上司に「僕と似過ぎていて心配になる」と言われたのが深く胸に引っかかっている。それは彼にとってどういった意味だったかは分からない(それ以上も以下もないだろう)
思ったりより早く梅雨が明けて、ジトりとした肌が触れ合う満員電車も少なくなると思うと実に爽やかな気分である。ただそのぶん烈火の夏が例年より長くなるのかなぁ〜なんて、ぼんやり考えただけでもゾッとする。乗り間違えた電車を降り、ただ今は夏の入り口に立って、ビルの合間に落ちる夕陽にあなたを思っている…。 仲間意識 私はあるオンラインゲームの小さなコミュニティのリーダーをやらせてもらえている。心地良いコミュニティを作れたことが私はとても嬉しかったんだけれど、もしかするとそう思っている
透明な床を勝手に想像して、時々胸ドキドキする昼時がある。どんな物事にも「ありえない」と一蹴してしまえばそれで終いなんだが、それでは人生は少々味気ない。長雨が夏をまだ堰き止めていてくれるうちに、ひとり悔やむ週末をぶち壊したい。 「90年代仲間ですから」 職場の他部署の上司がちゃんとオタクで心底惚れ惚れする。高田裕三作品の『3×3EYES』のVHSが無情にもポンと払える金額ではない事を彼にも嘆いていたのだが、ひょんなことから第一シーズンの全四巻が格安で手に入ってしまい、その映
気付けば6月に入り、いっそう日照り増す日もあれば、梅雨の頭がもたれかかり肩を濡らす昼下がりも増えた。これまでの私ならば“あの憎しい夏”や“忌むべきレッドサン”と言ったように、目の敵にしていたと思うが、今年はそれほどまで憂鬱ではない。紫陽花の薄青の風が、ただ伸びた髪を揺らす。 楽園 私は「どこに行きたい?」「なにがしたい?」「なに食べたい?」といったよくある問いかけが非常に苦手で、誰と出かけるにしても仮にそれが胸躍るデートだとしても、私はあなたがいる場所であれば本当にどこで
長袖と半袖を行き来する5月がもうすぐ終わる。冬の寒さ引き摺る朝靄もあれば、夏さながらの日照りで肌がちとピリリと痛いほどの真昼もあり、平然と体調をぶち壊して過ぎ去った。6月はそこにジメジメとした梅雨がやってくるのだから今から不安で仕方がない。 変えられるような気がしてるだけ 恥ずかしながら、これまで季節の細やかな移り変わりをあまり感じることがなかったが故に、心は思いのほか穏やかに生きていられているんだなとも理解できて、本音は少し嬉しい。酷く落ち込む夜は影を潜めて、絶望の朝を
“うつろう心いまだに曇らす、その人の影、私は知りたい。” これはEPOの『身代わりのバディー』の中の一節だが、耳に聴く音はもちろん、口に出す音も小気味良いのは、音読してもらえればめいめい感じられると思う。だが、それ以上に素晴らしいのは、彼の心を曇らせている“その人”を恨むでもなく、妬むでもない、このなんとも苦々しくも噛み殺すしかない不快な感情を表すのに、それほど多くの言葉が必要ないのだと理解る点にある。そうした半ば諦めの様な心模様が、非常に可哀想で放っておけないのだ。電影少女
4月が早駆けて、ぼんやりしていたら5月の背中がもう目の前に。半端な雨が増えてきて、それに伴って気持ちも若干落ち込んでくる。書き終わる頃にはもうとっくに5月かもしれない。これまで半年ほど続けられていたnoteの更新は、良いか悪いかは別として心の波が大きくあるが故に書けていたというか、書かされていた?に近い感覚だった。頭の中がごちゃごちゃと騒ついて、「お願いだから静かにしてくれ〜><」という半ば諦めの様な、細やかな抵抗といて文字を編んできた。コイツらは無邪気に走り回るこどもと同じ
朝雨の薄寒い電車の陰鬱さたるや、何にも代え難い苦痛がある。水溜まりを踏んだ靴に自分を重ねて、いっそ脱ぎ捨ててしまいたいと稚拙な感情に支配されそうになるが「流石にそれは…」と大人の理性が嗜める。他人に対するコンプレックスは年々増大していくばかりで、時より湧き出すポジティブな感情はあまりに持続力がなく、所詮は足を一歩前へ進めるだけに止める。だがここ最近、20年来の忌々しい精神病の一つを僕は打ち払うことができた(ヤッター)んだが、鬱は日に日に酷くなっていっている(オエー)と感じてい
2004年製のテレビデオを中古で買ってから1年経った。オレの愛する※juvenileはいまだに美しい映像を表現してくれている。アニメのビデオテープもかなりの数集まってきて、ずっとオレが手に入れたかった楽園はゆっくりじっくりと拡がりを見せながらも、その純度を増して行く。80'sや90'sの様々なアニメ達が確実にオレの血となり身体をかけ巡って心臓を動かす。その心臓がまたポンプとなり血液を加速させる。そうして生命を燃やしているうちにある懐かしさを感じる様になった。それは記憶に無いだ
或時から餃子をめっきり作らなくなった。人生において別に大したことじゃあないんだけど、具はなんだ?調味料は?隠し味は?ああだこうだとかなりこだわりを持って作っていただけに、自分が気付いていないだけでもしかしたらとっても大切な行為だったかもしれない…。 存在しない町 ひとつ小説を書いた。白絲川という平凡な田舎町で起こる混沌の少年少女達の話だ。私小説と呼ぶにはフィクションが多いが、生まれ育った岡山の町を想いながら書いたが故に、我が故郷の言葉や、いき苦しさは間違いなくホンモノだと
2月も過ぎて行きもう半分を超えた今頃書くべきか迷ったが、私は“今年の抱負”を毎年やんわり決めていて、今年もやんわり決めた。それまではたいてい“やりたいこと”で考えてきた。前年に出来なかったことや、それまで挑戦してこなかったことや、逃げてきたことへ目を向け、漠然とした“やりたいこと”でなんとか一年をやり過ごしてきた。 私はもうそれすら“やめよう”と思った。諦めではなく、逃走ではなく、とにかく“やめたいこと”で今年を生きようと思った。それが存外むずかしいことはこの2ヶ月で理解でき
お願い!愛に時間を! あぁ、やれ1日が終わる。寝床にどぶと横たわり、線の切れた※エレベーターのように落ちて行く。震える朝を思うとなんだか気も沈む…。これを読むあなたは眠る前のほんの数分、いや、ほんの数秒、瞼の裏に何を写すのだろうか。今日起きたなにかの余韻に浸かって、手すりのついた階段をゆるやかにおりて行くのだろうか。 もし、今、なにかに心脅かされ、それが眠りをさまたげているのなら、こうして一緒に夜をやり過ごしましょう…どうかひとりでいないで。 (※日本のエレベーターは安全率
最近、代々木上原の古本屋で買った本の中に 『ひとりでは多すぎる。ひとりでは、すべてを奪ってしまう。』 とあって、これにピンとくるかどうかで人を愛したかどうかがわかってしまう。 もしかするとそれはちょっと言い過ぎかもだけど、他人を想うというのは本当は生半可なストレスではない。 解説すると『相手(物事)がひとり(ひとつ)しかいないと、他が見えなくなってすべての秩序を崩してしまう』と言い換えられる。随分とわかりやすくなる。 愛する人というのは本当に色んな意味で大きい、多い、デカい