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夜明けの晩

ふと、かごめかごめの中の「夜明けの晩に」というフレーズがどういう意味なのか知りたくなって調べると「朝早くから夜遅くまで」という様な意味だと書いてあった、ほんとかよ。私は勝手に「薄暗い夜明けが終わる頃の陽が登りきる瞬間」の事かと思っていて、その後に続く「鶴と亀がすべった」というのも二度寝の夢の中の話の様で、なんだか腑に落ちなかった。歌の内容全ての真意はどうでも良いんだがそのフレーズに関しては私のが叙情的である様にも感じてしまう。(偉そうでスマン)
良くある話で恐縮だが、知ってしまうと大したことはないと小さく落胆することが世の中には沢山あって、ガキの頃信じたサンタにはじまり、貯めたはずのお年玉の行方や、バレンタインにもらったチョコが手作りではなく市販品だったり…なんてのはまだ全然マシで、たとえば好ましい日本語以外の音楽があったとして、それの翻訳があまりにも普遍的で凡庸だったり誰かや何かを攻撃する様な野蛮な内容だった時や、威厳あるクリエイターが本来切り分けるべき政治的意味合いを含んで創造していたり、そういうのは酷く落胆する。何よりソレを知らずに「良い」と思った私自身の“浅はかな感性plastic plate”が愚かでもはや泣けてくる。そうした落胆はきっと私にも適用される。社会で真人間を取り繕っても所詮はハリボテで、いつの日か閃光によって瞬く間に塵と化してしまう。私のことを下の名前で呼んでくれる人が増えるほど、いっそう強く思う。



あたたかい紅茶

あたたかい紅茶が美味しい気温になってきた。部屋の中は長袖長ズボンでは少しだけ足りず、夏場に使うタオルケットを肌掛けとして纏うことでちょうど良くなる。部屋の灯りを少し落としてそこへお気に入りの本を一冊と、あたたかい紅茶を用意することで完璧が完成perfectとなる。
冷たくとも美味しいのに、あたためても美味しいなんてコーヒーと紅茶くらいでは?(そんなことはない)そう言うにはお茶に関する知識も言葉も乏しい。紅茶に関しても特段こだわりがあるわけではない、コンビニで買えるスティックタイプのもの、貰い物のティーパック、茶葉まんまでも私はなんでもかまわない。今この空間、この瞬間に“あたたかい紅茶がある”というぬくもりの実感が欲しいのだ。
本を読み耽るとついついカップに伸びる手が縮こまって、気付けば紅茶は拗ねた様に冷めてしまう。冷たくても美味しい紅茶のはずが、あたたかいところから冷めてしまうとなんだか味気なく感じてしまうのが不思議である。



嫌いな言葉

最近、耳障りな言葉があってなぜだか良く聞くようになった。それは私の脳に張り巡らされた網antennaに絶対に引っかかって不快な気持ちにさせる。あえて耳をそばだてているのか妙にソレが聞こえてくる。書き出すのも躊躇うが、「わちゃわちゃ」という言葉だ。非常に気持ちが悪い。仕事中必ず1度は聞く。多い時で4、5回ほど聞く。なんて気持ちの悪い言葉だろうか…。しかもタチの悪いのがどんな場面でも出てきやがることで、ひと言の持つ意味が曖昧かつ大味で、雑多な感じがおそらく使いやすいからなのだろう。そういう片仮名のテキトーな使われ方が私の耳にとても合わない。オノマトペとしてもイマイチなクセに、類似の「わいわい」や「ごちゃごちゃ」があるにもかかわらず始祖originの様な顔をしている。なんだかかわいげを装っている音も気持ちが悪い。ウゲ。



Amaretto

大人になってからアマレットというお酒をずっとのんでみたかったのだが、機会に恵まれずなかなか口にすることが出来なかったが、この間新宿で初めてのむことができた。とても甘くて飲みやすかったんだが、思っていた様な大人な感じではなくって少し残念だった。それはTom ScottのStreamlinesの中の『Amaretto』が非常に滑らかで淑やかなスムースジャズであることから勝手に想像していたのだが、同じアマレットでもこれなら耳で聴いているほうがよっぽど心地が良いなと思った。好きなひとの声っていくら聞いてても物足りないほど魅力的なのに、いざ相手の心から私に対する好意が失せてしまうと、突然にその鮮やかな色が亡くなって灰色に聞こえてしまう。その鮮やかな声色が特別なものであったと理解する時、もうすでにそれは喪われているのだ。
アマレットの甘さが思い出の中のあなたを感じさせた、ただ苦い思い出だった。それもまた良い夜だったのかもしれない。
結果的に私の中からアマレットへの高尚な理想は一度喪われたが、アマレットという言葉の厚みは増した。それが何時、何の役に立つかもわからず引き出しにしまった。ちなみにStreamlinsは至高のアルバムだから嗜んでおいて損はない。


換気扇のもと

私がこどもの頃、母や父がタバコを吸う姿を見て何も感じなかったが、今思い返すととてもいい描写であったなと思う。清潔なキッチンの奥まった行き止まりに、磨りガラスの細長い小さな窓があって、ほとんど光を透過させる事はなけれど、ぼんやり外の天気や揺れる緑の木々を感じることが出来た。いつもそこの椅子に座ってタバコを嗜んでいた。コンロの上の換気扇のスイッチを押す音と風を吸い込む音が聞こえると、私は料理より先にタバコを思い浮かべてしまう。ただ私は母父の吸うタバコの匂いを覚えていない。ふたりともに同じ“バージニアスリムライト”を吸っていた事はしっかりと覚えているのに香りがわからないのだ。パッケージもシンプルでなんだかビジネスホテルみたいなクールなデザインだったが、今はソフィアとキラキラの文字で書かれていて私が買うのは少し憚られる。あの頃の味ときっと変わってしまっているのだろうと思いながらも、両親が吸ったタバコがどんな香りで、どんな味なのかを知りたい気持ちを抱えて、いつもキャスターを買っている。なぜなら知ってしまったら「こんなもんか」となってしまいそうで恐ろしいからだ。あのタバコを吸う母や父の、換気扇へ吸われる煙をぼんやり眺める時の横顔に小窓から挿す光がぶつかって、輪郭が光っている様なシーンまでが喪われてしまうのが少しだけ寂しいからである。
今、私も同じ様に換気扇の下でタバコを吸っている。子どもがいるわけでも、誰かと暮らしているわけでないのにそうしているのは、あの頃の父母を理解したいがためである。



おべっかのわけ

私はよくある行事が苦手でどの様に立ち居振る舞えば良いかがわからず、普通がわからないことが情けなくなって惨めな気持ちになるので非常に苦手だ。
現実の職場の忘年会と、オンラインの仲間たちとの忘年会が予定されて嬉しい反面、戸惑いもある。どこにいても私が私であることは変わりようのない事なのだが、明らかに現実よりもオンライン上での私は楽しげで声色も暖色である。そのためオンラインでの忘年会については自然と立ち居振る舞う事が出来る気がしている。気がしているだけかもしれないが、少なくとも心を許す彼ら彼女らには気を遣いながらも自然体でいられる。それが大人として気持ちが良い。けれど現実での忘年会は恐ろしくて仕方ない。先輩も上司もみんなさんが良い人で、みんなで一緒に休日に競馬場へ連れて行ってもらったりした。仲も良く、お互いに尊重しあっていると思う。最近は下の名前で呼んでもらえる様になった。それでも立ち居振る舞いが自然であることはなく、気付けば愛想を振りまいたり、おべっかで良い人間を演じている。コレがいつか知られてしまって私が今まで様々なモノや人に胸の内で言い捨てた「くだらない」「つまらない」「こんなモンか」との言葉が、社交辞令の壁を容易に貫通して私を撃ち抜くのではないかとびくびくと怯えているのである。
コレを読むあなたよ、たかが忘年会と思うであろうが本当に私は行事がわからないのだ…わからないものは恐ろしいのだ…そのことがずうっと頭をまわっている…夜明けの晩に…

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