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水面に浮かぶ月のように

お願い!愛に時間を!

あぁ、やれ1日が終わる。寝床にどぶと横たわり、線の切れた※エレベーターのように落ちて行く。震える朝を思うとなんだか気も沈む…。これを読むあなたは眠る前のほんの数分、いや、ほんの数秒、まぶたの裏に何を写すのだろうか。今日起きたなにかの余韻に浸かって、手すりのついた階段をゆるやかにおりて行くのだろうか。
もし、今、なにかに心脅こころおびやかされ、それが眠りをさまたげているのなら、こうして一緒に夜をやり過ごしましょう…どうかひとりでいないで。
(※日本のエレベーターは安全率が通常の10倍なのでラインが切れたとしても映画の様に落ちることはないが…うるさいな。)

Sad to Breathe息苦しい

もうここ何年もあんまり好きな音楽のジャンルは変わってなくって、90sモダンやその流れを敢えてカセットテープに書き込んではひとり時代を飛び回っている。
“もしも90sにあったら”という遊びは、多分、令和に僕しかやってないんじゃないか、という単なる自負心でやっていて、VHSのアニメを集めることも、現代のアニメをビデオテープに録画してみたりも、その時代にあたかも存在していて、それを観測する事が出来るのはこの部屋にいる自分だけなんだと思うととても誇らしい。我ながら稀有クールな趣味を手に入れたと思っている。「自分の好きな事を追求出来るのは素晴らしいね」とよく色んな人に言ってもらえてとても光栄だ。けれどそれが、わけもなく苦しい生活や、生まれ持っての脆い精神を120%満たすかと言うと多分それはNOだと思う、僕は…。

あの時もちょうどこのくらいの冬だったろう…寒暁かんぎょうのヒヤリとした空気が鼻を通って目が冴える感覚や、まだ少し薄暗い猫の道も、僕にとっては地獄へと向かう一歩一歩であった。労働と強迫パワハラは、確実に僕の精神と肉体、そのもっと根幹の魂まで簡単に傷付けた様に思う。傷付けた?いや、“壊した”の方が正しいか…。それ以来、この心頭には忌々しいあくまが棲みついている。
けれど長い時間や、他人の柔らかい心は、それを頭の奥隅へと追いやってくれた。そうしてニ、三年経ってようやく僕はまともな人間の形をまた取り戻しつつあった。けれど勘違いしていたんだと気付いたのはちょうど昨年末、いや本当は12月の半ばくらいから少しずつ、頭の忌々しいもやもやは色々なものを押し除けて、侵食してきていた。

The Japanese House のアルバム『In the End It Always Does』の「Sad to Breathe」という曲の中に
'Cause you're right and I'm tryin'
To change myself, but it's tirin'
And I go to bed and I'm cryin'
'Cause it's sad to breathe the air when you're not there'
とあって簡単に言うと“あなたは正しかった…自分を変えようとしたんだけどとても難しくて、結局私はベッドで泣いてる。あなたがいないと息をするのも悲しい。”と言う様な意味だと僕は解釈している。
特に最後の'Cause it's sad to breathe the air when you're not there'の解釈はもう少し読むと“あなたがいない人生は悲しい”ともとれる。でも僕は“息をするのも悲しい(苦しい)”みたいな方が正直ストレートで好きだ。歌詞の印象とは裏腹に軽快で耳心地の良い素晴らしいIndie POPsだ。どう言った経緯ですれ違った2人の話なのかは歌詞に編まれておらず、そういう起承転結を“結転結結”のようなモダンな表現だから、きっと僕らにしっかり刺さるのだろう。こういった悲しみに暮れる心と、それをどうにも出来ずただ過去を振り返って、項垂れているだけの歌の中の彼女を想像すると、とても共感出来る部分がある。
悲しみや苦しみは目に見えないけれど、確かにそこに存在している。それは自分の周りの空気や空間に漂っていて、深く息をし、それを吸気するほどに、身体は重く、頭はそれらで満たされてしまう。血に混ざり身体中を駆け巡り、仕舞いには心までをも支配してしまう。そういう恐ろしさとひとりでたたかうのはとても難しい…恐ろしくて仕方がない。ブタのカードを持って、勝ち目のない勝負をしなくてはならない。それがどれほど苦しいかは誰にでも容易に理解わかるだろう。でもこれが決して特別な事とは僕は思っていない。陰鬱な気持ちやネガティヴなマインドは誰しもが持っていて、誰しもが苦しんでいる。だからこそ、僕の肺に満ちた苦しみが、呼吸と共に体外に放たれ、狭い世界に充満し、僕の頭からいつのまにか抜け出して、僕の大切な人たちの幸せに感染うつり、彼ら彼女らの頭の中のあくまの因子を呼び覚ましてしまうのではないかと思うと、恐ろしくて仕方がない。そんな現実的じゃない事までこの頭は見せてくる。馬鹿げてる。考え過ぎだろう?。僕もそう思う…けれどこの頭は考える事をやめさせてくれないのだ…もうどこかへ行ったと思っていたのに…いいかげんほうっておいてくれよ…トホホ。


あかり

親愛なる人に勧めてもらった本『いのちの初夜』を読んで、最初の10ページほどでなぜこれを僕に勧めてくれたのかがなんとなくわかった。ハンセン病患者の隔離施設での話なのだが、主人公の尾田は若くして患い、軽度とは言えこの当時は治らないと言われている病気に絶望し、自殺願望が脳を支配しているのである。それが病気を患ったからなのか、もともとの彼の性質なのかは定かではないが、死にたがりの尾田と僕はすごく近しいものがあった。僕はそんな不治の病を患っているわけでも自殺願望も今はない。けれど本当に逢う人のほとんどに“ふと消えてしまいそう”と言われる。悲しいかなそれも僕の特性だから変えようのない、仕方のないことではあると思うが、僕は元来、他人を不安にさせる星のもとに生まれてきたのだと実感させられる。その存在自体があまりに不安定で、他人と上手く混ざりにくい性質を持っているんだと思う。それは決して良い事ではない。ただただ他人の世界のノイズにしかなり得ないのだから。

話は『いのちの初夜』へ戻るが、その病棟の中で尾田は佐柄木さえきという男と少しずつ打ち解けて行く。その佐柄木自身も重いハンセン病に苦しめられていながらも、献身的に院内の他の患者の世話をこなしている。そんな彼を尾田は色々な意味で“狂人”かと思い恐れていたが、垣間見える人間性に生きる希望を見る。その佐柄木がハンセン病患者たちを見て語った言葉が、僕にもとても染み付いている。

「ね尾田さん。あの人たちは、もう人間じゃあないんですよ」
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの。“いのち”そのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。」
「けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生きかえるのです。」
(※全然癩者の生活を〜…=ハンセン病を受け入れた時)

引用:『いのちの初夜』北条民雄

衛生環境が良くなった現代ではハンセン病は治らない病気ではなくなったが、この当時の差別意識や法律による隔離は患者たちにとって病気以上に苦しかっただろうと思う。簡単に口に出して良いかも憚られるが、この本の中に希望の灯火ともしびは確かにあって、それは決してまばゆきらめく閃光ひかりではないかもしれないが、地獄の中で小さくかすかでも希望の明日へと導いてくれる。そんな優しいあかりでも暗闇を照らすには十分すぎると僕は思う。
僕の様な不出来な人間と重ねてしまうのは恐れ多いかもしれないが、暗闇でひとり、足を踏み出すには、そうした小さな光の糸に縋るしかないのだ…。

窓辺のフロイライン

鬱がまた爆発してしまった事はもうどうしようもない。大変面倒臭いが、またコイツと向き合わなくてはならない。サインバルタを飲んでも良いが、コレは身体を大きく壊す。オレの思考をいともたやすく踏み倒し、身体的な苦しみは爆増し、頭の中の苦しみから解放するどころか、その苦しみさえも奪ってしまう。そうしたら僕には何が残るのだろうか…?自分で苦しむ事すらやめてしまって、解放された気になってそれこそ道化であろう。思う壺だ。外へ出て陽の光に触れて「今日は少し暖かいな」と感じたり、濡れた地面のにおいに「深夜に雨が降ったんだな」と想ったり、知らない家の窓辺の猫にフロイラインお嬢さんと勝手に名前をつけたり、そうした何気ない感覚のほうが薬なんかより(僕にとっては)よっぽど有効だ。それを人と共有できればもっともっと良い。SNSで一方通行に“ただ見せただけの共有”ではなく、人と言葉を酌み交わして初めてそれらは“価値ある気付き”へと昇華する。『いいね』のハートにだって心はキチンとこもっているし、僕はとてもあたたかな気持ちを感じている。(ちなみに僕のnoteにいいねすると色々な言葉が返ってくるワよ⭐︎ミ)

Pretty When You're Sad涙にふれて

Madi Sipes & The Painted Blue の曲に『Pretty When You're Sad』がある。彼女らの歌はどれも繊細で、慈しむ心が編まれている。雑多にラブって感じではなくて、「あぁ…どうして…」みたいな静かな祈りのような、何にも縛られないモダンロマンスが僕はとても好きでずっと聴いている。特に『8:00』や『Where U At?』などはbedroom POPSとして至高モノホンだ。
話を戻すが『Pretty When You're Sad』の中で
I wanna hear your favorite song to cry to…
And tell me, how you look so pretty when you′re sad?
But you done gone and kissed your eyelids.
とあって僕はコレが本当に本当に本ッ…当に好きな表現で、なんて優しい歌なんだろうと涙が溢れてしまう…僕が持ちたい慈愛の精神は“コレ”である。人を愛すると言うのは“こういうこと”である。このlyricの意味をどう解釈するかはコレを読む“あなた”次第であってほしい。けれどここまで読んでくれた“あなた”ならきっと僕の心がどう感じたか、手に取るようにわかってしまうと思う…それはちと恥ずかしいが、そうして心を解き放てるのはとても嬉しい。それにきっと受け止めてもらえるだろうと信じている。
希望の光の糸は僕だけの為にあるのではない。もしも“あなた”が苦しみに落ちる時、どうかその糸を辿ってくれ…思い切り引っ張ってくれ…それは必ず“あなた”を大切に想う人へ繋がっている。少なくとも僕はいる…水面みなもに浮かぶ月のように、たとえ触れられなくても…どうか忘れないでいて…。

吉川れーじ

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